第5巻 地獄の学校 17話
ep.82 第5巻 地獄の学校 17話
「停滞の処方(響きの稽古)」
地獄庁・音響区画。
静かな部屋に、アリアの吐息だけが響いていた。
昨日までの愚痴とため息は消え、代わりに——沈黙があった。
リリカが端末を確認する。
「愚痴指数、三〇。少し前向き。でも練習量ゼロね」
アリアが口を尖らせた。「……練習なんてしても意味ない」
オリバーが黒板に一文字書く。
——「響」。
「今日は“響き”の治療だ。上手いか下手かじゃない。
君の心がどんな音で響くかを探すんだ」
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ホログラムが灯り、黒髪の少女——カノンが現れた。
黒のリボンで結ばれた髪が、青白い光を受けて静かに揺れる。
「オリバー、今日は私に任せて」
「俺は歌のことは分からん」オリバーが苦笑する。
フェイ太郎とハチ公のホログラムも出現し、
「先生、音痴だもんね!」フェイ太郎が茶化す。
「ワン!」ハチ公が尻尾を振る。
アリアは思わず笑った。
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「アリア」
カノンが優しい声で呼ぶ。
「あなた、物真似ができないことを悩んでるのね?」
アリアは小さく頷いた。
「……母さんは“上手い”って言ってくれたのに、
周りからは文句ばかり言われたの。
“カラオケの点が高いからって調子に乗るな”とか、
“下手くそ!”“音痴!”って怒鳴られたこともある」
カノンはそっと目を細めた。
「それは、聞かせた相手が悪いのよ。
音楽は、誰に聞かせるかを選ぶもの。
私には、あなたの声の温かさが分かるわ」
アリアの瞳が潤む。「……本当に?」
「ええ。本物の声は、評価されるよりも前に“届く”の。
あなたの声は届いてる。だから今もここにいる」
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カノンが微笑み、指を鳴らした。
「マドンナも、レディ・ガガもそうよ。
最初、誰も彼女たちの歌を聞こうとしなかった。
だから彼女たちは、服を脱いで沈黙を作った。
——自分の声を、世界に聞かせるために」
アリアが息をのむ。
「……歌は、歌う場所を選ぶんだね」
「そう。誰も聞いてくれないなら、歌う場所を変えなさい。
でも、声そのものは変えないで」
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カノンが優しく言う。
「あなたの声はとてもいい素材よ。声質は柔らかくて真っ直ぐ。
あとは、練習で響きを育てるだけ」
「練習、嫌い……」
「嫌いでもいい。でも“少しだけ”はやること。
才能は土壌、練習は水。乾いたら声が枯れるの」
アリアは深呼吸をして、喉を開いた。
震える声が一音だけ響く。
リリカがモニタを見る。「波形、綺麗。前より深い」
カノンが頷く。「今の、すごく良かったわ」
アリアが驚く。「音、外したのに?」
「外れてもいいの。外した音ほど真実が宿るの」
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フェイ太郎が笑う。「ねぇ先生!ハチ公の“ワン”も真実の音?」
「もちろんよ」カノンが微笑む。
「ほら、オリバーも“音痴の真実”を持ってるじゃない」
「……褒められてる気がしないな」オリバーが苦笑する。
アリアがつい笑い出す。
その笑い声が、部屋に柔らかく反響した。
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カノンが小さく頷く。
「いいわね、その声。その笑い。
誰かの真似じゃない“あなたの音”が聞こえた」
アリアは静かに言う。
「……歌っても、いいのかな。もう一度」
「いいわ。歌いなさい。場所を間違えなければ、声はきっと届く」
アリアが目を閉じて、短い旋律を歌う。
音は小さく、震えていた。
でも、温かかった。
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フェイ太郎とハチ公が拍手する。
「アリア、今の最高!」
「ワン!」
カノンが微笑みながら言った。
「下手でも、自分らしく歌える人は少ないの。
あなたは、ようやくスタートラインに立ったわ」
リリカが承認印を押す。
「教育:停止、処置:息→響→練→笑、転帰:自律発声の回復」
オリバーは黒板を見上げて呟いた。
「……歌は、声の形をした勇気だな」
講堂の方角から、静かな鐘が鳴る。
アリアの声に応えるように。
(了)




