第5巻 地獄の学校 16話
第16話 不足の自己物語(現実に並ぶ処方)
地獄庁・治療区画・もしもルーム。
白い灯りはやわらかいのに、部屋全体はどこか無音の手術室みたいに冷たい。壁一面がスクリーンで覆われ、静止した未来と、並行していたかもしれない過去が、まるで標本のように並んでいる。
今日のテーマは「不足の自己物語」。
——私は持っていない。
——私の人生には何もない。
——こうじゃなかったら、私はもっと良かった。
それを信じることで生き延びてきた魂の治療。
リリカが端末を操作する。黒いベッドではなく、今回は柔らかい椅子。そこに少女が座っている。名札には「アリア」。髪は肩で切られ、背もたれに投げるみたいに体重を預けている。あごは上がっていて、笑っている。笑っているが、その笑いは自分のためではなく、世界を茶化すための笑いだ。
「アリア:自己価値曲線、低下。逃避指標、九一。現実受容率、断片化。」
リリカが静かに読む。
オリバーは頷き、ポケットのチョークを握り、黒板に一文字だけ書いた。「現」。
「——今日は講義をしない。」
オリバーはそれだけ言って、椅子をアリアの正面にゆっくりと引いた。
「不足の自己物語の第一処置は、“現実に並べる”ことだ。」
アリアは笑った。肩を上下させて、わざと大きく。
「現実ぅ? はいはい、わたしの現実言いましょうか? 金持ちの父親いません。おしゃれに全部教えてくれる女神みたいな友達もいません。母親もまともじゃない時がありましたー。人生ハズレガチャ乙ってやつ。」
それはほとんど勢いのある早口で、漫談のようで、本人は楽しそうに見せている。が、リリカはその間ずっとアリアの心拍と皮膚電気反応をモニタに記録していた。心拍は高い。笑っているほどには楽しんでいない。
「始めるよ」
リリカが端末を操作する。
壁が、光った。
*
一つ目のスクリーンが起動した。
投影名:【もしも1:綺麗で優しい友達がいる世界】
そこに映るのはアリアの“隣”。
大きな瞳、整ったメイク、流行りを自然に着こなす柔らかい雰囲気の少女。彼女はアリアの肩に手を置き、笑って言う。
『この色似合うよ。アイラインはここ、ちょっとだけ跳ねると強く見えすぎないから』
アリアはスクリーンの中でも笑っている。満足そうに見える。
——ここまでは、アリアが何度も語ってきた「理想の友達」の再現だ。
だが投影は終わらない。
少しずつ部屋の角度が変わる。友達の顔がこちら側に寄る。
声が小さくなる。
そこから先は、アリアが知らなかった部分だ。
『ねえ、昨日の夜さ、家でまたやられたからさ、今日ちょっと遅刻でいい? 先生には適当に言っといて』
“綺麗で優しい友達”の袖から、痣のような跡が見える。
彼女は鏡の前で笑いながらファンデーションを重ねる。手慣れている。
頬のあたりに入った線を消すのが、もう習慣になっている。
アリアの投影の中のアリアは、その動きを見ている——が、何も反応しない。話題にも乗らない。ただ「うん、わかった」とだけ言う。
実際の椅子のアリアが吹き出した。
「それ、それそれそれ! わたしの友達キャラはそういう役割じゃないから! そういうのいらないから! そういうのあったら面倒くさいじゃん。わたしに寄りかかられても困るし。」
声は明るいが、笑い方が少し荒い。喉にひっかかる、飾りのない笑い。
「止めろ」
オリバーが低く言った。
部屋が少し静まる。カノンのホログラムが現れる。チェンバロの前に座っているが、音は出さない。彼女は音ではなく“沈黙の枠”だけを置くのが役目だ。
オリバーはアリアの方を見た。
「今、君は彼女の痣に何も感じなかった。君の“理想の友達”は、君を着飾ってくれるけど、その子自身は誰にも守られてない。——それでもいいか?」
「いいよ」
アリアは即答した。
「だって、私の問題じゃないじゃん。」
リリカが視線だけ動かす。オリバーは頷いた。
「記録。“共感応答、回避傾向。自己中心ではなく防衛反応。”」
アリアが目を細める。「は? 防衛とか言われたんだけど」
オリバーはそれには答えない。
「次だ。」
*
二つ目のスクリーンが起動した。
投影名:【もしも2:金持ちの父親がいる世界】
大きな家。広い部屋。ブランドの箱。
スクリーンの中のアリアは、机に並んだコスメやゲーム機を当然のものとして受け取っている。父親が夜遅く帰り、何かしらの袋を置いていく。
『お前も、そろそろちゃんとした学校行けよ。投資なんだからさ』
声は優しいふりをしているが、目はアリアを見ていない。
アリアの机には「やるべきスケジュール表」と「達成率」のグラフが並んでいる。
父親が、フォルダを開くような声音で言う。
『これだけ金かけてるんだからさ、元取るくらい努力しろよ』
椅子のアリアが顔をしかめる。
「いやだ。うざい。そういうのうざい。絶対いや。」
「これが“理想の父親”だ」オリバーは言う。
「金はある。だが、君は常に測られている。失敗したら“投資失敗”って呼ばれる。泣いた時、『泣いても価値は上がらない』と言われる。——それでもいいか?」
アリアは口を開いたが、何も出ない。
その代わり、喉の奥でかすれた笑い声が転がる。
「はは……それはそれでムリ。」
それは初めて“ムリ”と言った瞬間だった。
「ムリ」とはつまり「嫌だ」のことだ。
「嫌だ」は、まだ希望が残っている場所にしか起きない感情だ。
リリカが記録する。
「記録。“理想世界への拒否反応、初出。”」
オリバーは頷きもしない。淡々としている。
「次だ。」
*
三つ目のスクリーンが起動した。
投影名:【もしも3:母親が安定していた世界】
そこには“穏やかな家庭”が映る。
食卓は整い、声は荒れない。感情の波もない。
アリアはそこに座って、静かにご飯を食べている。
しかしスクリーンは今度も少し角度を変える。
その母親は、ずっとアリアを見ている。
寄り添うというより、監視に近い形で。
『今日は落ち込んでない? 大丈夫? ほんとに大丈夫? 本当に本当に? ねえ言って? ちゃんと言って?』
アリアが黙ると、母親の顔が不安で強張り、涙目になり、「私のせい? 私のせいだよね?」と繰り返す。
アリアはスクリーンの中でため息をつく。
今度は笑わない。
ただ、疲れていた。
椅子のアリアが舌打ちに似た息を吐く。
「……めんどい。それもめんどい。放っといてほしい。」
オリバーは小さく頷いた。
「“安定した母親”は、“壊れない母親”ではない。“壊れないように君にしがみつく母親”のこともある。」
「いやだ」
アリアははっきり言った。
「いやだってば。息できない。」
カノンがわずかに目を閉じ、何も奏でないまま、沈黙の輪郭だけを部屋に置く。
沈黙で、呼吸する余白を作る。
オリバーは静かに言った。
「君が欲しがっていた“完璧な周囲”のほとんどは、君をただ楽にしてくれる天国じゃない。別の形の地獄だ。」
アリアは笑わない。長い沈黙のあと、短く言った。
「それでも、私は今の現実が嫌い」
それは正直だった。
*
オリバーは黒板に向かい、四文字を書いた。
「捨 逃 演 笑」
「——これが、君のやり方だ。」
オリバーはチョークを置かずに続ける。
「捨。できることをわざと捨てる。“やればできるらしい私”を潰すことで、期待を受けないようにする。」
「逃。動ける場所から逃げる。嫌われる前に離れる。失敗する前にやめる。」
「演。“私なんにも持ってないから”という役を演じる。自分はハズレだったって物語を先に宣言しておけば、他人に欠点を指摘される前に自分で済ませられる。」
「笑。それを全部、ふざけて言う。“マジやばくない? 私終わってるんだけどw”って笑えば、本気の痛みを見られなくて済む。」
アリアは肩をすくめた。
「そうやって生きるしかないんだって。文句ある?」
「ない」
オリバーは即答した。
「これは、防衛だ。壊れないための処置だ。生き残るための手順だ。」
アリアの表情がわずかに変わる。
笑いでも反発でもなく、一瞬だけ、聞き取れなかったものに耳を傾ける顔。
オリバーは淡々と続ける。
「君は逃げた。逃げるのは悪じゃない。逃げたせいで、まだここにいる。壊れきらずに座っている。それは弱さじゃない。命継続の手段だ。」
それでも、オリバーはそこで止めない。
「だが——」
チョークが黒板に小さな音を立てる。
「その処置が、今は過剰投与になっている。効きすぎて、君を動けなくしている。」
アリアは眉をひそめる。
「……それって何? 薬飲みすぎたみたいな言い方しないでくれる?」
「同じだよ」
オリバーは静かに言う。
「君は“何も持ってない私”っていう薬を自分に打ってる。効きすぎて、もう立ち上がろうとすると吐き気がする。」
アリアはそこで、はじめて笑わなかった。
笑っていないアリアは、年相応に見えた。いや、少し幼くも見えた。
*
オリバーは黒板の別の場所に、四文字を書き足す。
「映 現 息 隣」
「これが、次の手順だ」
オリバーは一文字ずつ、ゆっくりと指で叩いた。
「映。欲しかった世界を映す。いま見せたような“もしも”を、自分の逃げ場所としてじゃなく、検査用の試料として見る。『こうだったら良かったのに』を、ただの嘆きじゃなく、分析材料にする。」
「現。現実を言う。ただし“私はもうダメ”とか“私はゴミ”とかの雑な言葉じゃなくて、具体の事実を言葉にすること。『期待されると怖い』『比べられるのが嫌だ』『役割を押しつけられると息ができない』——そういう言葉に落とす。評価じゃなく、状態を言う。」
「息。四つ吸って、四つ吐く。ここは手順だ。感情は爆発じゃなくて、流す。」
「隣。“私だけ不幸”っていう一人称の劇から出て、誰かを自分の横に並べる。たとえば“あの優しい友達も痣で痛かった”“金持ちの父親も圧だった”“母親も壊れかけていた”“あの子も同じように息ができなかった”。君だけが呪われたわけじゃないことを、並列で置く。」
アリアの喉が上下する。
彼女はスクリーンの一つ目を見た。
あの「綺麗で優しい友達」が、袖を下ろしながら、ファンデーションで痣を隠している映像。
それでも笑おうとしている顔。
「……その子さ」
アリアがぽつりと言った。
「かわいそうって思った方がいいの?」
オリバーは即答しない。
すぐに答えないのは、押しつけの共感を教えないためだ。
「そう思え、とは言わない」
オリバーは言った。
「ただ、“あの子はあの子の地獄だった”っていう一文は、君の中に置いていい。」
アリアはしばらく黙った。
「私だけがハズレってわけじゃない、ってこと?」
「そう」
オリバーは言う。
「君が不幸だから何もできないんじゃない。“世界の方が公平に残酷だから、君も動く気がなくなってる”だけだ。」
アリアは一度、短く笑った。いつもの嘲りではなく、力の抜けた笑いだった。
「世界の方が公平に残酷って言われてもさ。なんか全然安心できないんだけど」
「安心はさせない」
オリバーはきっぱり言った。
「安心を渡すと、君はそれを壊して遊ぶ。だから渡さない。」
「はぁ?」
アリアがむっとする。
リリカは端末を見ながら、小さく口角だけ動かした。
「記録。“反発:生存反応。安堵よりも対抗を選ぶ傾向、良好。”」
オリバーは続けた。
「安心は渡さない。その代わりに、避難所は渡す。」
アリアはまばたきした。
「何それ」
「崩れたら、ここに戻れ」
オリバーは言う。ゆっくりと、しかし押し付けではなく、宣告のように。
「手順のどこからでもいい。“映”からでも、“息”からでもいい。途中で投げてもいい。途中で寝てもいい。途中で泣いてもいい。怒ってもいい。ただ、その途中で“私はダメだ”って自己評価に逃げる代わりに、“今、私は期待されるのが怖いから止まってる”って現実を言葉にしろ。」
アリアは黙っている。
スクリーンの光が瞳に反射して、目の中に別の人生が揺れる。
「言える?」とオリバーは聞かない。
彼は絶対に「できるよ」とも「きっと君は大丈夫」とも言わない。未来を保証しないのが、彼のやり方だ。
代わりに、こう言った。
「崩れたら戻れ。君が壊れたときに、君を叱る者はここにはいない。」
その言葉だけで、アリアはふっと顔をそむけた。
顔をそむける、という形の、ギリギリの受け入れだった。
*
しばらくの沈黙のあと、アリアがぽつりとこぼす。
「……私さ、『私には何もない』って言ってたんじゃなくて。」
喉が詰まって、そこで言葉が止まる。
それでも、無理やり続ける。
「『私に期待するな』って言ってただけかもしれない。」
リリカの指が止まる。記録の手を止めて、アリアを見た。
モニタには、心拍の乱れがわずかに落ち着く波形が出ている。
オリバーは、黒板の四文字「映 現 息 隣」を囲むように円を描いた。
「今のそれが“現”だ。いい。」
アリアはふっと息を吐いた。
「別に、頑張りたいわけじゃないけど。」
「頑張れとは言ってない」
オリバーは即答した。
「並べろ、と言っている。“私は期待されるのが怖い”と。“私は比較されるのが息できない”と。“私は『強い子』って役を押しつけられるのが嫌だ”と。“私はかわいそうって扱われるのも嫌だ”と。全部並べろ。それはわがままじゃない。状態報告だ。」
アリアはそこで、はじめて泣かないまま目頭だけ熱くなるという顔をした。
涙は落ちない。それも意地だ。
代わりに、笑い声がひとつだけ漏れた。小さく、奥の方で。
「なんか、めんどくさいね私。」
「めんどくさいのは、生きてる証拠だ」
オリバーは言う。
「めんどくさいものは、まだ死んでいない。」
カノンのホログラムがゆっくりと薄れ、チェンバロごと光の粒に戻っていく。音は最後まで鳴らない。沈黙だけが部屋に残される。
*
終了記録の時間。
リリカは端末に一行ずつ入力していく。
——「教育:停止。
処置:映す→現実化→呼吸→隣に並べる。
転帰:不足物語からの離脱の芽。『私は何もない』から『私は期待が怖い』への転換を確認。
反応:笑いによる防衛は継続。ただし自己否定台詞の使用率低下。」
オリバーが黒板の八文字を囲む。
「捨 逃 演 笑 映 現 息 隣」
「これ以上でも、以下でもない」
彼はそう言い、チョークをポケットに戻した。
アリアは立ち上がりかけて、ふと振り返る。
「さ。次から私どうすればいいわけ?」
オリバーは答える。
「崩れたら戻れ。“私はダメだから何もできない”って言った瞬間に戻ってこい。それは嘘だからな。」
「嘘?」アリアが眉を上げる。
「そうだ」オリバーは言った。
「君は“ダメだから何もできない”んじゃない。“期待されるのが怖いから止まってる”だけだ。正確に言え。」
アリアは、ほんの少しだけ笑った。今度の笑いは、他人をあざける笑いではなかった。
「……そう言うの、けっこうダサいけど」
「いい。ダサいものは本物に近い」
オリバーはそれだけ言って部屋を出る。
もしもルームの光がひとつ消える。
アリアが座っていた椅子だけが、しばらくあたたかく残る。
講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。
授業の合図ではない。
——不足の自己物語から、一人の魂が半歩だけ離れた音だった。
続く




