第5巻 地獄の学校 15話
第15話 顔の迷宮(笑顔を選ぶ処方)
地獄庁・治療区画。白い灯りは鋭く、壁一面に200枚の顔写真が並ぶ。100枚は流行の美男美女、似通った輪郭、整った目鼻。もう100枚は個性的な顔、流行に縛られない独特の美しさ。その中に、ひっそりとユナ自身の顔——整形前の、満面の笑みを浮かべた若い頃の写真が紛れている。今日のテーマは「顔の迷宮」。整形依存に囚われ、理想の顔を追い求め、魂の空席を埋めようとした者がここに立つ。完璧を求めた心は、鏡の前でざわめく。
リリカが端末を操作し、ベッドに座る一人の女を確認した。名札には「ユナ」。生前、整形依存に苛まれ、10回以上の手術で顔を流行に寄せたが、満足を得られなかった。鏡を見るたび「まだ足りない」と呪い、自己評価が崩れ続けた者だ。
「ユナ:自己評価曲線、不安定。強迫指数、九二。脳波、前頭前野低活性」 リリカが静かに読む。
オリバーは頷き、ポケットのチョークを握り、黒板に一文字だけ書いた。「選」。
「——今日は講義をしない。顔の迷宮の第一処置は“選び直す”ことだ。自分の顔を、他人でなく自分で選ぶ」
ユナの瞳に、鏡の記憶がちらつく。手術後の顔、ネットの「理想」、称賛と嘲笑の視線。彼女は完璧を追い、だが心は空っぽになった。前頭前野の低活性が、強迫的な「足りない」を増幅した。脳のザワメキが、彼女を迷宮に閉じ込めた。
「ユナ」 オリバーが、一度だけ呼ぶ。 「ここでは、誰も君を裁かない。理想の顔は君の呪いだ。この200枚の顔から、自分の心を選べ」
ホログラム回線が繋がる。バード邸からカノンが現れ、チェンバロの鍵盤に指を置く。音は出さない。顔写真と心の静かな枠だけを縁取る。
「導入、三段で行く」 リリカがスイッチに触れ、壁の写真が光る。
最初の音は、静寂の振動。 次の音は、心拍の響き。 三つ目の音で、部屋の空気が200枚の顔と共鳴する。
「導入」 モニタにユナの心拍と脳波が映る。脈は速く、強迫回路が尖る。
*
以後の七十二時間、言葉は慎重に選ばれる。 顔写真の壁は固定され、音は枠に閉じられる。 機械はユナの前頭前野と強迫回路を監視し、リリカは心拍と表情を記録する。 カノンは周期に合わせ、遠隔で“選び直す余白”を磨く。——鳴らすのではない。執着を清め、正しい枠に収まるように。
オリバーは毎日同じ時刻に入り、写真の選択と脳波を確かめ、何も言わず、何も強要せずに出ていく。 “選び直す時間”が、魂の底で執着の形を露わにすることを知っているからだ。 顔の迷宮は教育の逆ではない。教育の前段だ。 “感じる器”が乱れているとき、理想は暴走する。まず選び直す。写真で。
*
初日の朝。 リリカが端末に目を落とす。「ユナ:強迫指数、九一。自己評価、不安定。——始めるよ」
オリバーが言う。「この200枚の顔を見て、選べ。お前はどの顔が良い?」
ユナは壁を見上げる。流行の顔、整った目鼻、完璧だが同じ。個性的な顔、傷や非対称、だが生き生きとしている。彼女は流行の顔を指す。「これ、完璧。私の顔、こうなるべきだった」
リリカが写真を撮る。ユナの選択が記録される。脳波は尖り、心拍は速い。強迫回路が「足りない」と叫ぶ。
オリバーが言う。「選んだ顔は、君の心だ。なぜ選んだ? 感じてみろ」 ユナ:「この顔、完璧なのに……まだ足りない。私の価値、これじゃないと」
オリバーが頷く。「選び直せ。君の顔は、君が決める。明日、また選べ」
魂浴場へ。薄暗い部屋、温かい湯がユナを包む。心拍が落ち着き、強迫回路がわずかに緩む。ユナが呟く。「完璧、追いすぎた。空っぽだ」
*
二日目。ユナは別の流行の顔を指す。「これ、もっと完璧。みんなが求める顔」 写真が撮られる。脳波はまだ尖るが、揺れ始める。ユナが呟く。「この顔、価値がある。でも、なんか……空っぽだ」
魂浴場で、湯が心を洗う。ユナの心拍がさらに落ち着く。「空っぽ、嫌いじゃないけど……何か足りない」
三日目。ユナは迷い、個性的な顔を指す。「この顔、変だけど……落ち着く。完璧じゃないのに」 写真が撮られる。強迫指数が下がり、前頭前野の活性が上がる。ユナが呟く。「この顔、私じゃない。でも、静かだ」
魂浴場で、ユナが目を閉じる。「静か……でも、私の顔はどこ?」
四日目の朝。リリカが端末を覗く。「ユナ:強迫指数、八三。自己評価、揺れながら上昇。——次、共感」
オリバーが言う。「今日、選ぶのは自分じゃない。誰かのために選べ。君が思う『価値ある顔』を」 ユナは壁を見回し、個性的な顔を指す。「この顔、誰かの笑顔みたい。完璧じゃないけど、温かい」 写真が撮られる。脳波が整い、心拍が穏やかになる。ユナが呟く。「温かい……これ、私の心?」
魂浴場で、湯がユナを包む。「温かい顔、追いかけなくていいのかな」
*
五日目の夕方。ユナは壁の前に立つ。 彼女の目が、200枚の顔をゆっくりと見渡す。流行の顔、個性的な顔。そして、隅にひっそりとある一枚——整形前のユナ、満面の笑みを浮かべて笑っている若い頃の顔。彼女は立ち止まり、指を伸ばす。
「この顔……私だ。笑ってる。完璧じゃないけど、私の顔」 リリカが写真を撮る。ユナの脳波は静かになり、強迫指数は谷に落ちる。心拍は穏やかで、初めて安定する。
魂浴場で、湯がユナを包む。彼女が呟く。「あの笑顔、私だった。空っぽだった私、温かいよ」
オリバーが言う。「選んだのは、君の心だ。理想も強迫も、浴場で洗われた」
リリカが端末を覗く。「ユナ:強迫指数、反動なし。自己評価、安定。——共感、完了」
オリバーは黒板に四文字を書く。 「選 感 浴 共」
「一、選んで映す。二、感じる。三、浴場で洗う。四、共感する」 オリバーは指で示す。 「まず写真で心を映し、感じる。浴場で身体と心を整え、共感を与える。——理想や強迫じゃない。並ぶ共感だ」
「共感?」ユナが目を細める。「完璧じゃない私が、温かいなんて」 「なら、続けろ」オリバーは静かに言う。「顔の迷宮は、君の枠だ」
オリバーは黒板に、もう四文字を書き足す。 「見 息 触 隣」
「見る。呼吸。触れる。隣。——共感は、これで育つ」 オリバーは指で示す。 「①見:写真で選んだ自分を。二分でいい。 ②息:四つ吸って四つ吐く。ザワメキを流す。 ③触:浴場の湯で自分を落ち着かせる。 ④隣:自分の顔から始め、隣に誰かを並べる」
ユナは顔を上げ、かすかに頷く。「私、できるかな」
「できるまで“選ぶ”。それから“感じる”。」 オリバーは静かに言う。「顔の治療は、勝利じゃない。手順の反復だ。飾りはいらない。手順が君を運ぶ」
*
退室前、ユナは壁の前で振り返った。 「共感って、こんな静かで温かいんだね。あの笑顔、私だった」 「本物は静かだ」オリバーが答える。「理想の波は崩れる。笑顔は残る」
リリカが承認印を押す。「次回、現実側の共感計画へ移行。怖くなったら?」 「写真で選ぶ。——それから、感じる」 ユナは自分で答え、静かに頷いた。
カノンのホログラムが薄れ、光の糸は細い塵になって空気に溶ける。 治療室の音は、再び水の呼吸だけになった。
オリバーは治療記録に、一行を加える。 ——「教育:停止、処置:選ぶ→感じる→浴→共感、転帰:自製笑顔の回復」
リリカが横目で見る。「今日は笑顔だね」 「笑顔で良い。——主語は彼女だ」 オリバーは黒板の八文字を囲む。 「選 感 浴 共 見 息 触 隣」
「これ以上でも、以下でもない」 帰り支度をしながら、彼は思う。 理想の顔は、脳の強迫回路が空席を埋めようとするときに生まれる。 共感は、笑顔を選び直し、温かさを感じ、隣に並ぶことで育つ。
講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。 授業の合図ではない。 ——誰かが、静かで温かい笑顔に辿り着いた音だった。
(了)




