第5巻 地獄の学校 13話
第13話 幻と罠の回路(解放する処方)
地獄庁・治療区画。白い灯りは冷たく、壁に脳波の波形と現実の記録が投影される。 今日のテーマは「幻と罠」。一人目は、統合失調症の幻聴に苛まれ、脳の回路が偽の声を鍛える病。二人目は、ガスライティングの罠に嵌まり、嘘と操作で現実が砕ける病。魂の空席が、幻と罠でそれぞれ叫ぶ。生前、異なる傷を負った二人がここに集う。
リリカが端末を操作し、並んだ二つのベッドを確認した。一つには「ミサ」。生前、統合失調症の幻聴に支配され、囁く声に唆され、他人を傷つけた。もう一つには「レイ」。ガスライティングの標的となり、嘘と嘲笑で心が砕けた。
「ミサ:幻聴指数、九二。脳波、前頭前野低活性。レイ:現実混乱指数、九〇。扁桃体過剰」 リリカが静かに読む。
オリバーは頷き、ポケットのチョークを握り、黒板に一文字だけ書いた。「解」。
「——今日は講義をしない。幻と罠の第一処置は“解放する”ことだ。回路の暴走と現実の嘘を捉え、正しい枠に編み直す」
ミサの瞳に、幻聴の記憶がちらつく。囁く声、「お前は正しい」と唆す影。彼女はそれに従い、悪人の目で仲間を追い詰めた。レイの瞳には、ガスライティングの記憶。捏造されたミス、嘲笑する上司、崩れた現実の土台。二人の脳は、異なるザワメキに囚われた。
「ミサ、レイ」 オリバーが、一度ずつ呼ぶ。 「ここでは、誰も君たちを裁かない。幻は回路の乱れ、罠は現実の毒だ。自分で鍛えた声と信じた嘘を、解放しろ」
ホログラム回線が繋がる。バード邸からカノンが現れ、チェンバロの鍵盤に指を置く。音は出さない。脳波と現実の静かな枠だけを縁取る。
「導入、三段で行く」 リリカがスイッチに触れる。
最初の音は、霧の揺れ。 次の音は、回路と現実の脈動。 三つ目の音で、部屋の空気が脳波と記録に共鳴する。
「導入」 モニタの脳波が、ゆっくりと整う。ミサの幻聴の尖り、レイの扁桃体の過剰が、わずかに落ち着く。
*
以後の七十二時間、言葉は慎重に選ばれる。 脳波モニタと現実検証画面は固定され、音は枠に閉じられる。 機械はミサの前頭前野とレイの扁桃体を監視し、リリカは乱れた波を手術のように整える。 カノンは周期に合わせ、遠隔で“解放の余白”を磨く。——鳴らすのではない。幻と罠を清め、正しい枠に収まるように。
オリバーは毎日同じ時刻に入り、モニタと記録を確かめ、何も言わず、何も強要せずに出ていく。 “解放する時間”が、魂の底で幻と罠の形を露わにすることを知っているからだ。 幻と罠は教育の逆ではない。教育の前段だ。 “感じる器”が乱れているとき、声と嘘は暴走する。まず解放する。脳波と現実で。
*
四日目の朝。 リリカが端末に目を落とす。「ミサ:幻聴指数、八六。脳波、前頭前野活性上昇。レイ:現実混乱指数、八四。扁桃体反応低下。——映すよ」
カノンの最初の音は、ほとんど音ではなかった。“感じろ”と脳波に触れる合図。 二つ目の音で、部屋の光がモニタに集まる。 三つ目の音で、モニタに二人の脳波と記録が浮かぶ——ミサの幻聴の脈動、レイの現実の断片。
ミサの目が揺れる。モニタには、生前の囁き。「お前は正しい」と唆す声、側坐核のスパイク。悪人の目が輝く。レイの目は濡れる。モニタには、ガスライティングの記録。捏造されたメール、嘲笑する上司、扁桃体の過剰な波。ニューロフィードバックと現実検証装置が、回路と記憶を投影する。
「……この声、私?」ミサが呟く。声にざわめきが混じる。「悪人の目で正しいって、誰もいないのに」 「……この嘘、本当だった?」レイが呟く。声に恐怖と怒りが滲む。「私のミスじゃなかったのに」
オリバーが静かに言う。「ミサ、君の回路だ。レイ、君の現実だ。編み直して、解放しろ」
ミサとレイの指がモニタに触れる。ミサは言う。「この声、強かった。悪人の目、ゾクゾクした。でも、虚しいだけ」 レイは震えながら言う。「この嘘、信じた私、ちっぽけだ。怖かっただけ」
オリバーは椅子を引き寄せ、腰掛けた。「レイ、いつまでも囚われる必要はないんだよ」 彼は一呼吸置き、続ける。 「君を追い込んだ奴らは、自分たちのことを正義だと思い、疑わなかった。だが、正義も悪もこの世にはない。また彼らも私の治療対象だ」 レイの目が揺れる。オリバーは静かに続ける。 「君が怯えて戸惑うとき、彼らは勝ち誇ったように嘲笑っていただろう? 彼らは正義のつもりだった。正義を演じていたんだ。自らの劣等感を癒すために」
レイの肩が震え、涙が落ちる。「……私、ちっぽけだと思ってた。でも、彼らの嘘だった」 ミサが呟く。「私の声も、ちっぽけだ。誰もいないのに笑ってた」
「なら、解放しろ」オリバーは言う。「回路も現実は隠せない。脳波と記録は嘘をつかない。だが、解放する手順はある」
黒板に四文字。 オリバーはチョークで、ゆっくりと書く。 「解 感 水 共」
「一、解放して映す。二、感じる。三、水で洗う。四、共感する」 オリバーは指で順番を示した。 「まず脳波と記録で幻と罠を解放する。次にその声と嘘を感じ尽くす。水で身体を整え、最後に“共感”を与える。——支配や嘘じゃない。並ぶ共感だ」
「共感?」ミサが目を細める。「声がザワザワするだけ」 「共感?」レイが首を振る。「嘘に潰されただけ」 「なら、試せ」オリバーは静かに言う。「ここでは“解放の回廊”を使う」 壁が開き、長い廊下が現れる。両側にニューロフィードバック画面と現実検証モニタが並び、歩くたびに脳波と記録が映る。幻聴の脈動、嘘の断片——すべてが枠に収まる。
「ルールは三つ」リリカが指を立てる。 「①目を閉じない。②回路と現実を観察。③ザワメキと恐怖の前で止まる」 ミサとレイは頷き、並んで歩き出す。足は重いが、画面が魂の中心に幻と罠を突き返す。
*
最初のセッションは十分歩行+三分休憩+十分歩行。 ミサは画面の脳波を数えた。幻聴のスパイクが映るたび、頭がザワつく。「悪人の目で正しいって、虚しいだけ」と呟く。レイはモニタの記録を数えた。嘘のメール、嘲笑する顔が映るたび、心が締め付けられる。「私のミスじゃない」と呟く。三分の休憩で、塩を一つまみ溶かした水を飲む。喉が落ち着く。 再開。ミサの脳波が揺れ、前頭前野の活性が上がる。レイの扁桃体反応が鈍る。 幻聴と混乱の針が動く——が、跳ね上がらない。波は来るが、画面に解放されて散る。
回廊の彼方で、オリバーが静かに見守る。 「幻は回路が偽の声で暴走する病。罠は現実が嘘で砕ける病」 彼は心の中で繰り返す。 「共感の本体は、解放・感じる・水・並ぶこと。薬は補助、罰は壊す。与える治療だけが、回路と現実を繋ぐ」
戻ってきた二人は、画面にもたれ、息を整えた。 ミサ:「この声、ゾクゾクしたのに、虚しいだけ」 レイ:「この嘘、怖かったのに、ちっぽけだ」
「それが自前の回路と現実だ」オリバーが言う。「幻と罠の波は消える。作る共感は残る」
リリカが端末を覗く。「ミサ:幻聴指数、反動なし。レイ:現実混乱指数、安定。——次、共感」
「共感?」 「並ぶ共感」オリバーが頷く。「画面の自分と、終わり方のある対話を始める」
小部屋に移動する。 静かな光。二枚の大きな画面、椅子が四脚、木の匂い。 カノンのホログラムが薄く現れ、音の“縁”だけを置く。曲ではない。脳と心のザワメキが落ち着く余白。 リリカが小さなボウルを二人に差し出す。「塩水、喉に。次に、画面の自分に話しかけろ」
ミサは画面を見て言う。「お前、なんでそんな声? 悪人の目で誰もいないのに笑うなんて、虚しいだけ」 レイは画面を見て言う。「お前、なんで信じた? 正義の嘘に潰された私、ちっぽけだ」 画面の波が、わずかに緩む。二人は静かに頷く。「ほんと、虚しいな」
オリバーは短くまとめる。 「——幻と罠の再起動手順。 一、解放して映す。二、感じる。三、水で洗う。四、共感する。 罰なし、薬は補助、手順だけだ」
*
その午後。幻と罠の波が再び来る。ミサの頭がザワつき、レイの心が締め付けられる。 リリカが一歩近づく。「避難する?」 二人は同時に頷く。
オリバーが扉を指す。「回路と現実の避難所だ。——解放するのは逃げじゃない。帰還だ」 二人は画面の前に座り、短い導入を受ける。十分の静かな対峙。 目覚めると、幻聴と混乱の針は谷に落ちている。
回廊へ。今度は八分+八分。画面の波が、乱れから調和へ、調和から静けさへ。 戻って塩水。手首に温熱パッド。 カノンが“並ぶ沈黙”を一分間だけ置く。 共感が、内側から生まれる。画面の自分と、減らない、終わり方のある対話。
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五日目の夕方、ミサとレイはオリバーの前に立つ。 ミサ:「先生、怖い。またあの声が来るかも」 レイ:「先生、怖い。また嘘に潰されるかも」 「来る」オリバーは即答する。「波は必ず来る。——だから手順だ。解放→感じる→水→共感。崩れたら、戻る。どこからでもいい」
ミサ:「この声、強かったのに……今、虚しいだけ」 レイ:「この嘘、怖かったのに……今、ちっぽけだ」 二人は目を伏せる。「ザワザワしてた自分が、ちっぽけだ」
オリバーは黒板に、もう四文字を書き足す。 「見 息 触 隣」
「見る。呼吸。触れる。隣。——共感は、これで作る」 オリバーは指で示す。 「①見:画面で回路と現実を。二分でいい。 ②息:四つ吸って四つ吐く。ザワメキを流す。 ③触:手首を温める。自分で自分を落ち着かせる。 ④隣:画面の自分から始め、隣に誰かを並べる」
ミサとレイは顔を上げ、かすかに頷く。「私たち、できるかな」
「できるまで“解放する”。それから“感じる”。」 オリバーは静かに言う。「幻と罠の治療は、勝利じゃない。手順の反復だ。飾りはいらない。手順が君たちを運ぶ」
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退室前、二人は回廊の入り口で振り返った。 ミサ:「共感って、こんな静かで虚しいんだね」 レイ:「共感って、こんな静かで軽いんだね」 「本物は静かだ」オリバーが答える。「幻と罠の波は崩れる。共感は残る」
リリカが承認印を押す。「次回、現実側の共感計画へ移行。怖くなったら?」 「画面で解放する。——それから、感じる」 二人は自分で答え、静かに頷いた。
カノンのホログラムが薄れ、光の糸は細い塵になって空気に溶ける。 治療室の音は、再び機械の呼吸だけになった。
オリバーは治療記録に、一行を加える。 ——「教育:停止、処置:解放→感じる→水→共感、転帰:自製共感の回復」
リリカが横目で見る。「今日は深いね」 「深くていい。——主語は彼女たちだ」 オリバーは黒板の八文字を囲む。 「解 感 水 共 見 息 触 隣」
「これ以上でも、以下でもない」 帰り支度をしながら、彼は思う。 幻は脳の回路が偽の声で暴走するときに生まれる。罠は現実が嘘で砕けるときに生まれる。 共感は、回路と現実を解放し、虚しさを感じ、隣に並ぶことで育つ。
講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。 授業の合図ではない。 ——二人が、静かで虚しい共感に辿り着いた音だった。
(了)




