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パンダの小説 オリバージョーンズの冒険  作者: 天才パンダ


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第5巻 地獄の学校 11話

第11話 殺意の鏡(止める処方)

 地獄庁・治療区画。白い灯りは鋭く、鏡の縁だけが冷たく光る。  今日のテーマは「殺意」。他者の命を奪おうとする衝動、憎しみと支配の極端な形。魂の空席が最も深く、暗く叫ぶ病だ。生前、暴力の果てに殺意を抱き、実行に移した者たちがここに集う。

 リリカが端末を操作し、黒いベッドに立つ男の輪郭を確認した。名札には「タケル」。生前、復讐と憎悪に駆られ、殺意を手に握った。だが、鏡に映った自分の顔を見て、足が止まり、逃げ出した者だ。最後は自らの衝動に追い詰められ、闇に沈んだ。

「殺意指数、九一。鏡接触反応、重度。自省曲線、断続的」  リリカが静かに読む。

 オリバーは頷き、ポケットのチョークを握り、黒板に一文字だけ書いた。「止」。

「——今日は講義をしない。殺意の第一処置は“止める”ことだ。鏡に映して、動きを止める」

 タケルの瞳の奥に、生前の記憶が閃く。刃の冷たさ、相手の怯える目、鏡に映った自分の顔——憎しみに歪み、殺意で膨らんだ瞳孔。無意識に他所行きの顔を作ろうとしたが、鏡は嘘をつかなかった。家庭の圧迫、裏切りの傷、塩辛い食事の後の怒り。それらが殺意の火を点けた。

「タケル」  オリバーが、一度だけ呼ぶ。 「ここでは、誰も君を縛らない。殺意は空席の叫びだ。鏡でその瞬間を止めろ」

 ホログラム回線が繋がる。バード邸からカノンが現れ、チェンバロの鍵盤に指を置く。音は出さない。鏡の凍った静寂だけを縁取る。

「導入、三段で行く」  リリカがスイッチに触れる。

 最初の音は、氷の軋み。  次の音は、ひび割れの予感。  三つ目の音で、部屋の空気が鏡のように硬くなる。

「導入」  モニタの波が、ゆっくりと平らになる。殺意の尖りは低く、丸くなる。タケルの肩が震え、鏡を避けるように視線が泳ぐ。

          *

 以後の六十時間、言葉は最小限に留まる。  鏡は動かず、音は枠に閉じられる。  機械は視線と心拍を監視し、リリカは小さな乱れを手術のように整える。  カノンは周期に合わせ、遠隔で“停止の余白”を磨く。——鳴らすのではない。鏡の面を清め、殺意の波が映らないように。

 オリバーは毎日同じ時刻に入り、鏡の位置を確かめ、何も言わず、何も奪わずに出ていく。  “止める時間”が、魂の底で殺意の形を露わにすることを知っているからだ。  殺意は教育の逆ではない。教育の前段だ。  “見る器”が曇っているとき、衝動は溢れる。まず止める。鏡で。

          *

 四日目の朝。  リリカが端末に目を落とす。「殺意指数、七四。鏡接触反応、中度。——映すよ」

 カノンの最初の音は、ほとんど音ではなかった。“見ろ”と鏡に触れる合図。  二つ目の音で、部屋の光が鏡に集まる。  三つ目の音で、鏡にタケルの顔が浮かぶ——殺意に歪んだ、かつての瞬間。

 タケルの目が開く。焦点は定まらない。鏡には、生前のあの瞬間。刃を握り、瞳孔が膨らみ、口角が獣のように引きつる。無意識に他所行きの顔を作ろうとするが、動的鏡は殺意の表情をリアルタイムで投影する。

「……これ、俺の顔か?」タケルが呟く。声に恐怖と拒絶が混じる。

「君の殺意だ」オリバーが答える。「これが、相手が見た顔だ。止めて、見つめろ」

 タケルの手が震える。「こんな顔……見たくない。俺、こんなんじゃない」 「なら、止めろ」オリバーは椅子を引き寄せ、腰掛けた。「殺意は隠せない。鏡は嘘をつかない。だが、止める手順はある」

 黒板に四文字。  オリバーはチョークで、ゆっくりと書く。  「止 観 水 和」

「一、止めて映す。二、観察する。三、水で洗う。四、和解する」  オリバーは指で順番を示した。 「まず鏡で殺意を止める。次にその顔を観察する。水で身体を整え、最後に“和解”を与える。——復讐じゃない。向き合う和解だ」

「和解?」タケルが目を逸らす。 「鏡の自分と向き合う。ここでは“止めの回廊”を使う」  壁が開き、長い廊下が現れる。両側に動的鏡が並び、歩くたびに殺意の顔が映る。憎しみの歪み、支配の笑み——すべてが投影され、止まる。

「ルールは三つ」リリカが指を立てる。 「①目を閉じない。②殺意の形を観察。③衝動の前で止まる」  タケルはうなずき、立ち上がる。足は重いが、鏡が魂の中心に殺意を映し続ける。

          *

 最初のセッションは十分歩行+三分休憩+十分歩行。  タケルは鏡の自分の顔を数えた。殺意の表情が映るたび、心臓が締め付けられる。かつての標的の恐怖が、鏡を通じて蘇る。三分の休憩で、塩を一つまみ溶かした水を飲む。喉が落ち着く。  再開。鏡の顔が、少しずつ変わる。瞳孔が収縮し、口角が緩む。  殺意の針が動く——が、崩れない。波は来るが、鏡に映って散る。

 回廊の彼方で、オリバーが静かに見守る。 「殺意は空席を力で埋める最悪の試みだ。憎しみも、支配も、刹那の逃げ道」  彼は心の中で繰り返す。 「和解の本体は、止める・観察・水・向き合うこと。罰は魂を壊す。与える治療だけが、回路を繋ぐ」

 戻ってきたタケルは、鏡にもたれ、息を整えた。 「……この顔、気持ち悪い。俺、こんな顔で人を……」

「それが自前の鏡だ」オリバーが言う。「殺意の顔は消える。作る和解は残る」

 リリカが端末を覗く。「殺意指数、歩行後に反動なし。良好。——次、和解」

「和解?」 「向き合う和解」オリバーが頷く。「鏡の自分と、終わり方のある会話を始める」

 小部屋に移動する。  柔らかい光。一枚の大きな鏡、椅子が二脚、木の匂い。  カノンのホログラムが薄く現れ、音の“間”だけを置く。曲ではない。息が落ち着く余白。  リリカが小さなボウルを差し出す。「塩水、喉に。次に、鏡の自分に話しかけろ」

 タケルは鏡を見て、ためらいながら言う。「お前、なんでそんな顔した? 俺、怖かったんだよ……」  鏡の顔が、わずかに緩む。タケルは笑う。「馬鹿みたいだな、こんな顔」

 オリバーは短くまとめる。 「——殺意の再起動手順。  一、止めて映す。二、観察する。三、水で洗う。四、和解する。  罰なし、説教なし、手順だけだ」

          *

 その午後。殺意の波が再び来る。タケルの瞳孔が広がり、拳が握られる。  リリカが一歩近づく。「避難する?」  タケルは頷く。

 オリバーが扉を指す。「鏡の避難所だ。——止めるのは逃げじゃない。帰還だ」  タケルは鏡の前に座り、短い導入を受ける。十分の静かな対峙。  目覚めると、殺意の針は谷に落ちている。

 回廊へ。今度は八分+八分。鏡に映る顔は、殺意から困惑へ、困惑から静けさへ。  戻って塩水。手首に温熱パッド。  カノンが“向き合う沈黙”を一分間だけ置く。  和解が、内側から生まれる。鏡の自分と、減らない、終わり方のある会話。

          *

 三日目の夕方、タケルはオリバーの前に立つ。 「先生、怖い。世界に戻ったら、またあの顔になるかも」 「なる」オリバーは即答する。「波は必ず来る。——だから手順だ。止める→観察→水→和解。崩れたら、戻る。どこからでもいい」

「俺、あの鏡の顔が、頭から離れない……気持ちよかったのに、気持ち悪い」  タケルは目を伏せる。「なんで、止まったんだろう」

 オリバーは黒板に、もう四文字を書き足す。  「見 息 触 友」

「見る。呼吸。触れる。友。——和解は、これで作る」  オリバーは指で示す。 「①見:鏡で殺意の顔を。二分でいい。  ②息:四つ吸って四つ吐く。衝動を流す。  ③触:手首を温める。自分で自分を落ち着かせる。  ④友:鏡の自分から始め、隣に誰かを並べる」

 タケルは顔を上げ、かすかに笑う。「俺、できるかな」

「できるまで“止める”。それから“観察する”。」  オリバーは静かに言う。「殺意の治療は、勝利じゃない。手順の反復だ。飾りはいらない。手順が君を運ぶ」

          *

 退室前、タケルは回廊の入り口で振り返った。 「先生。和解って、こんな静かなんだな」 「本物は静かだ」オリバーが答える。「殺意は崩れる。和解は残る」

 リリカが承認印を押す。「次回、現実側の和解計画へ移行。怖くなったら?」 「鏡で止める。——それから、観察する」  タケルは自分で答え、軽く笑った。

 カノンのホログラムが薄れ、光の糸は細い塵になって空気に溶ける。  治療室の音は、再び機械の呼吸だけになった。

 オリバーは治療記録に、一行を加える。  ——「教育:停止、処置:止める→観察→水→和解、転帰:自製和解の回復」

 リリカが横目で見る。「今日は重いね」 「重くていい。——主語は彼だ」  オリバーは黒板の八文字を囲む。  「止 観 水 和 見 息 触 友」

「これ以上でも、以下でもない」  帰り支度をしながら、彼は思う。  殺意は、魂が空席を暴力で埋めようとするときに生まれる。  和解は、鏡で自分を止め、静かに向き合い、友と並ぶことで育つ。

 講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。  授業の合図ではない。  ——誰かが、向き合う和解に辿り着いた音だった。

(了)


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