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パンダの小説 オリバージョーンズの冒険  作者: 天才パンダ


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第5巻 地獄の学校 10話

第10話 怒りの鏡(映す処方)

 地獄庁・治療区画。白い灯りは薄く、鏡の表面にだけ光が溜まる。  今日のテーマは「怒り」。他者を傷つけ、優越を誇り、憎しみで歪むその表情は、魂の空席を映す病だ。生前、苛めや暴力を繰り返し、自分の顔を直視しなかった者たちがここに集う。

 リリカが端末を操作し、青いベッドに座る少年の輪郭を確認した。名札には「ケイ」。生前、仲間と共に弱者を追い詰め、嘲笑の快感に浸った。最後は自分の怒りが跳ね返り、孤立の淵で立ち尽くした者だ。

「怒り指数、八二。鏡避け反応、重度。自省曲線、ほぼゼロ」  リリカが淡々と読む。

 オリバーは頷き、ポケットのチョークを握り、黒板に一文字だけ書いた。「映」。

「——今日は講義をしない。怒りの第一処置は“映す”ことだ。鏡に顔を晒してから、動かす」

 ケイの瞳の奥に、生前の記憶がよぎる。叫ぶ声、怯える顔、勝ち誇った自分の笑い。だが、鏡を見ると無意識に目を逸らし、他所行きの顔を貼り付ける。家庭の冷たい沈黙、狭い教室の息苦しさ、塩辛い食事の後の苛立。それらが怒りの火種だった。

「ケイ」  オリバーが、一度だけ呼ぶ。 「ここでは、誰も君を裁かない。怒りは空席の叫びだ。鏡でその顔を見ろ」

 ホログラム回線が繋がる。バード邸からカノンが現れ、チェンバロの鍵盤に指を置く。音は出さない。鏡の静けさだけを縁取る。

「導入、二段で行く」  リリカがスイッチに触れる。

 最初の音は、凍った湖面。  次の音は、ひび割れの始まり。  部屋の空気が、鏡のように澄む。

「導入」  モニタの波が、ゆっくりと整う。怒りの尖りは低くなり、ケイの肩がわずかに下がる。だが、鏡を見ようとせず、唇が震える。

          *

 以後の四十八時間、言葉は控えられる。  鏡は固定され、音は枠組みに使われる。  機械は視線を監視し、リリカは小さな抵抗だけを調整する。  カノンは周期に合わせ、遠隔で“反射の余白”を磨く。——鳴らすのではない。鏡の面を清め、次の視線が曇らないように。

 オリバーは毎日同じ時刻に入り、鏡の位置を確かめ、何も言わず、何も強要せずに出ていく。  “映す時間”が、魂の底で怒りの形を露わにすることを知っているからだ。  怒りは教育の逆ではない。教育の前段だ。  “見る器”が塞がれているとき、言葉は跳ね返る。まず映す。鏡で。

          *

 三日目の朝。  リリカが端末に目を落とす。「怒り指数、七一。鏡避け反応、中度。——映すよ」

 カノンの最初の音は、ほとんど音ではなかった。“見ろ”と鏡に触れる合図。  二つ目の音で、部屋の光が鏡に集まる。  三つ目の音で、鏡の表面に、ケイの顔が浮かぶ。

 ケイの目が開く。焦点はまだ定まらない。だが、鏡に映るのは、怒りに歪んだ自分の顔だ。眉が吊り上がり、口角が引きつり、瞳孔が広がる。無意識に他所行きの顔を作ろうとするが、動的鏡はリアルタイムで怒りを捉え、投影する。

「……これ、俺?」ケイが呟く。声に驚きと嫌悪が混じる。

「君の怒りだ」オリバーが答える。「これが、相手に見える顔だ。見続けて、どこから来るか探せ」

 ケイの拳が握られる。「見たくない……こんな顔、俺じゃない」 「なら、変えろ」オリバーは椅子を引き寄せ、腰掛けた。「怒りは隠せない。鏡は嘘をつかない。だが、変える手順はある」

 黒板に四文字。  オリバーはチョークで、ゆっくりと書く。  「映 静 水 対」

「一、映して見る。二、静める。三、水で洗う。四、対話する」  オリバーは指で順番を示した。 「まず鏡で怒りの顔を見る。次に静けさで火を抑える。水で身体を整え、最後に“対話”を与える。——憎しみじゃない。向き合う対話だ」

「対話?」ケイが眉を寄せる。 「鏡の向こうの自分と話す。ここでは“怒りの回廊”を使う」  壁が開き、長い廊下が現れる。両側に動的鏡が並び、歩くたびに表情が映る。怒りの顔、憎しみの歪み、勝ち誇った笑み——すべてがリアルタイムで投影される。

「ルールは三つ」リリカが指を立てる。 「①目を逸らさない。②怒りの形を観察。③歪みの前で止まる」  ケイはうなずき、立ち上がる。足元は震えるが、鏡が魂の中心に怒りを映し続ける。

          *

 最初のセッションは十分歩行+三分休憩+十分歩行。  ケイは鏡の自分の顔を数えた。怒りの表情が映るたび、胸が締め付けられる。憎しみに歪んだ顔は、かつての標的の怯えを思い起こす。三分の休憩で、塩を一つまみ溶かした水を飲む。喉が落ち着く。  再開。鏡に映る顔が、少しずつ変わる。額に汗、瞳孔がわずかに収縮。  怒りの針が動く——が、跳ね上がらない。波は来るが、鏡に映って砕ける。

 回廊の彼方で、オリバーが静かに見守る。 「怒りは空席を埋めるための偽の力だ。憎しみも、勝ち誇りも、刹那のショートカット」  彼は心の中で繰り返す。 「対話の本体は、映す・静める・水・向き合うこと。罰は回路を壊す。与える治療だけが、魂を繋ぐ」

 戻ってきたケイは、鏡にもたれ、息を整えた。 「……変だ。こんな顔、俺、嫌いだ」

「それが自前の鏡だ」オリバーが言う。「憎しみの顔は消える。作る対話は残る」

 リリカが端末を覗く。「怒り指数、歩行後に反動なし。良好。——次、対話」

「対話?」 「向き合う対話」オリバーが頷く。「鏡の自分と、終わり方のある会話を始める」

 小部屋に移動する。  柔らかい光。一枚の大きな鏡、椅子が二脚、木の匂い。  カノンのホログラムが薄く現れ、音の“縁”だけを置く。曲ではない。息が落ち着く余白。  リリカが小さなボウルを差し出す。「塩水、喉に。次に、鏡の自分に話しかけろ」

 ケイは鏡を見て、ためらいながら言う。「お前……なんでそんな顔してんだ?」  鏡の顔が、わずかに緩む。ケイは笑う。「馬鹿みたいだな、俺」

 オリバーは短くまとめる。 「——怒りの再起動手順。  一、映して見る。二、静める。三、水で洗う。四、対話する。  罰なし、説教なし、手順だけだ」

          *

 その午後。怒りの波が再び来る。ケイの瞳孔が広がり、手が震える。  リリカが一歩近づく。「避難する?」  ケイは頷く。

 オリバーが扉を指す。「鏡の避難所だ。——見るのは逃げじゃない。帰還だ」  ケイは鏡の前に座り、短い導入を受ける。十分の静かな対峙。  目覚めると、怒りの針は谷に落ちている。

 回廊へ。今度は八分+八分。鏡に映る顔は、憎しみから困惑へ、困惑から落ち着きへ。  戻って塩水。手首に温熱パッド。  カノンが“向き合う沈黙”を一分間だけ置く。  対話が、内側から生まれる。鏡の自分と、減らない、終わり方のある会話。

          *

 二日目の夕方、ケイはオリバーの前に立つ。 「先生、怖い。世界に戻ったら、またあの顔になるかも」 「なる」オリバーは即答する。「波は必ず来る。——だから手順だ。映す→静める→水→対話。崩れたら、戻る。どこからでもいい」

「俺、勝ち誇った顔が、頭から離れない……」  ケイは目を伏せる。「あれ、気持ちよかった。でも、鏡で見たら、気持ち悪い」

 オリバーは黒板に、もう四文字を書き足す。  「見 息 触 友」

「見る。呼吸。触れる。友。——対話は、これで作る」  オリバーは指で示す。 「①見:鏡で自分の顔を。二分でいい。  ②息:四つ吸って四つ吐く。怒りを流す。  ③触:手首を温める。自分で自分を落ち着かせる。  ④友:鏡の自分から始め、隣に誰かを並べる」

 ケイは顔を上げ、かすかに笑う。「俺、できるかな」

「できるまで“映す”。それから“静める”。」  オリバーは静かに言う。「怒りの治療は、勝利じゃない。手順の反復だ。飾りはいらない。手順が君を運ぶ」

          *

 退室前、ケイは回廊の入り口で振り返った。 「先生。対話って、こんな静かなんだな」 「本物は静かだ」オリバーが答える。「勝ち誇るのは崩れる。対話は残る」

 リリカが承認印を押す。「次回、現実側の対話計画へ移行。怖くなったら?」 「鏡を見る。——それから、静める」  ケイは自分で答え、軽く笑った。

 カノンのホログラムが薄れ、光の糸は細い塵になって空気に溶ける。  治療室の音は、再び機械の呼吸だけになった。

 オリバーは治療記録に、一行を加える。  ——「教育:停止、処置:映す→静める→水→対話、転帰:自製対話の回復」

 リリカが横目で見る。「今日も短いね」 「短くていい。——主語は彼だ」  オリバーは黒板の八文字を囲む。  「映 静 水 対 見 息 触 友」

「これ以上でも、以下でもない」  帰り支度をしながら、彼は思う。  怒りは、魂が空席を力で埋めようとするときに生まれる。  対話は、鏡で自分を映し、静かに向き合い、友と並ぶことで育つ。

 講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。  授業の合図ではない。  ——誰かが、向き合う対話に辿り着いた音だった。

(了)

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