第5巻 地獄の学校 8話
ep.73 第5巻 地獄の学校 8話
第8話 依存の回廊(満足の処方)
地獄庁・治療区画。白い灯りは低く、機械の呼吸だけが均一に続いている。
今日のテーマは「依存」。麻薬、酒、ギャンブル、画面、評価、恋。名を換えても、魂が同じ箇所で擦り切れていく病だ。
リリカが端末を操作し、黒いベッドに横たわる男の輪郭を確認した。名札には「ユウト」。生前、覚醒剤と鎮静剤を往復し、入退院を繰り返した。最後は電気ショック療法の白い閃光を“罰”として記憶したまま逝った者だ。
「渇望曲線、上昇。反芻指数、八九。睡眠断片化、重度」
リリカが短く読む。
オリバーは頷き、ポケットのチョークを握ったまま、使わずに戻した。
「——今日は講義をしない。依存の第一処置は“眠り”だ。眠らせてから、動かす」
ユウトの瞼の裏に、白い稲妻の残像が走っている。病棟の天井、革の匂い、歯を噛みしめた顎の痛み。彼の魂は、過去の治療を恐怖の鎖として抱きしめていた。
「ユウト」
オリバーが、一度だけ呼ぶ。
「ここでは、誰も君に電気を当てない。思い出は眠らせる。目覚めたら、歩く」
ホログラム回線が繋がる。バード邸からカノンが現れ、チェンバロの蓋を開ける。鍵盤に指を置くが、音は出さない。沈黙の輪郭だけを確かめる。
「導入、三段で行く」
リリカがスイッチに触れる。
最初の和音は、冬の透明。
次の和音は、春の手前。
三つ目の和音で、部屋の空気がひと息だけ深くなる。
「導入」
モニタの波が、ゆっくりと海面のように平らになっていく。渇望の山は低く、丸くなる。ユウトの顎の緊張がほどけ、肩が沈む。反芻指数が落ち始める。
*
以後の七十二時間、語られることは少ない。
夢は閉じられ、音は引き出しにしまわれる。
機械は沈黙を監視し、リリカは小さな乱れだけを手術のように整える。
カノンは周期に合わせ、遠隔で“無音”を磨く。——鳴らすのではない。余韻の面をならし、次の静けさに傷がつかないように。
オリバーは毎日同じ時刻に入り、空気の温度を確かめ、何も置かず、何も回収せずに出ていく。
“考えない時間”が、魂の底で接着を始めることを知っているからだ。
眠りは教育の逆ではない。教育の前段だ。
“学ぶ器”が裂けているとき、言葉は漏れる。まず縫う。眠りで。
*
四日目の朝。
リリカが端末に目を落とす。「渇望曲線、底値。反芻指数、基準近傍。——起こすよ」
カノンの最初の音は、ほとんど音ではなかった。“起きていいよ”と光にだけ触れる合図。
二つ目の音で、天井がわずかに明るくなる。
三つ目の和音で、眠っていた海の表面に、ごく微かな波紋が立つ。
ユウトの胸が、ふ、と動いた。
目が開く。焦点はまだ甘い。だが、瞳の奥で小さな音が生まれる——鼓動。
彼は自分の手を見て、かすれ声で言った。
「……ここ、病院じゃない?」
「治療区画だ」オリバーが答える。「だが“罰”は無い。ここにあるのは“手順”だ」
ユウトの眉が寄る。「俺……またやるかもしれない」
「だから、手順にする」オリバーは椅子を引き寄せ、腰掛けた。「依存に倫理説教は効かない。効くのは順番だ」
黒板に四文字。
オリバーはチョークで、ゆっくりと書く。
「眠 動 水 満」
「一、眠る。二、動く。三、水。四、満足を与える」
オリバーは指で順番を示した。
「まず眠りで器を直す。次に有酸素運動で自前の報酬を出す。水で身体を洗い、最後に“満足”を与える。——薬じゃない。奪わない満足だ」
「有酸素?」ユウトが訊ねる。
「ウォークかバイク。ここでは“風の回廊”を使う」
壁が開き、長い廊下が現れる。微風が一定の速度で流れ、床は弾力を持つ。歩くと、ごく薄い波紋が足元に生まれるよう設計されている。
「ルールは三つ」リリカが指を立てる。
「①会話禁止。②息を観察。③痛みの前で止まる」
ユウトはうなずき、立ち上がる。脚はまだ心もとないが、眠りが骨の中心に静けさを留めている。
*
最初のセッションは十二分歩行+五分休憩+十二分歩行。
ユウトは自分の呼吸を数えた。四つ吸って、四つ吐く。足裏、ふくらはぎ、肋骨。
五分の休憩で、水を二口。
再開。脈が少し上がる。額に薄い汗。
渇望の針が動く——が、跳ね上がらない。波は来るが、崩れない。
回廊の彼方で、オリバーが静かに見守る。
「依存は“奪われた満足”のショートカットだ」
彼は心の中で繰り返す。
「満足の本体は、安全・睡眠・息・汗・食・触・つながり。奪う治療は長持ちしない。与える治療だけが、回路を生やす」
戻ってきたユウトは、壁にもたれ、息を整えた。
「……変だ。欲しい、が、薄い」
「それが自前の報酬だ」オリバーが言う。「奪う快楽は刹那。作る満足は残る」
リリカが端末を覗く。「渇望曲線、運動後に反動なし。良好。——次、満足」
「満足?」
「奪わない満足」オリバーが頷く。「身体が理解できる、“終わり方がある快”だ」
小部屋に移動する。
温い光。椅子が二脚、膝掛け、木の匂い。
カノンのホログラムが薄く現れ、音の“縁”だけを置く。曲ではない。息がほどける余白。
リリカが小さなボウルを差し出す。「塩を一つまみ溶かした水。砂糖は入れない。喉と神経の“渇き”を別々に満たす」
ユウトは少し笑って、飲む。「まずいけど……落ち着く」
オリバーは短くまとめる。
「——依存の再起動手順。
一、眠る。二、動く。三、水を整える。四、満足を与える。
説教なし、罰なし、優越なし。手順だけだ」
*
その午後。渇望が波打つ時間が来る。ユウトの瞳孔がわずかに広がる。手が膝を叩き始める。
リリカが一歩近づく。「避難する?」
ユウトは迷い、うなずいた。
オリバーが扉を指す。「眠りの避難所だ。——寝るのは敗走じゃない。帰還だ」
ユウトは横になり、短い導入を受ける。
十五分の微睡み。
目覚めると、渇望の針は谷に落ちている。
回廊へ。今度はバイクで八分+八分。
汗が一枚、皮膚から剥がれる。
戻って水。手首に温熱パッド。
カノンが“頬杖をつく沈黙”を一分間だけ置く。
満足が、内側から膨らむ。
奪わない、減らさない、終わり方のある満足。
*
三日目の夕方、ユウトはオリバーの前に立つ。
「先生、俺、怖い。世界に戻って、また渇望が来たら」
「来る」オリバーは即答する。「波は必ず来る。——だから順番にする。眠る→動く→水→満足。崩れたら、順番に戻る。どこからでもいい」
「俺、電気の白い光が、まだ……」
ユウトは目を伏せる。
「思い出すだけで、喉が締まる」
オリバーは黒板に、もう四文字を書き足す。
「息 触 食 友」
「呼吸。触覚。食。人。——満足は、これで作る」
オリバーは指で示す。
「①息:四つ吸って四つ吐く。二分でいい。
②触:手首を温める。毛布を肩に。自分で“自分に触る”。
③食:よく噛む。甘味は最後に少し。“終わり”に印をつける。
④友:言葉よりも並走。歩く、漕ぐ、黙って隣にいる」
ユウトは顔を上げ、かすかに笑う。「俺、やれるかな」
「やれるまで“眠る”。それからまた“歩く”。」
オリバーは静かに言う。「依存の治療は、勝利じゃない。手順の反復だ。飾りはいらない。手順が君を運ぶ」
*
退室前、ユウトは回廊の入り口で振り返った。
「先生。満足って、こんなに静かなんだね」
「本物は静かだ」オリバーが答える。「拍手は鳴りやむ。満足は残る」
リリカが承認印を押す。「次回、現実側の歩行計画へ移行。怖くなったら?」
「眠る。——それから、歩く」
ユウトは自分で答え、軽く笑った。
カノンのホログラムが薄れ、光の糸は細い塵になって空気に溶ける。
治療室の音は、再び機械の呼吸だけになった。
オリバーは治療記録に、一行を加える。
——「教育:停止、処置:睡眠→有酸素→水→満足、転帰:自製報酬の回復」
リリカが横目で見る。「今日は長いね」
「長くていい。——でも、主語は彼だ」
オリバーは黒板の八文字を囲む。
「眠 動 水 満 息 触 食 友」
「これ以上でも、以下でもない」
帰り支度をしながら、彼は思う。
依存は、魂が“空席”を急いで埋めようとするときに生まれる。
満足は、空席の周りに椅子を並べ、皆で座ってから配られる。
講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。
授業の合図ではない。
——誰かが、奪わない満足に辿り着いた音だった。
(了)




