第5巻 地獄の学校 7話
第7話 静寂の一年(魂の再起動)
地獄庁・治療区画。白い灯りは低く、機械の呼吸だけが均一に続いている。
リリカが端末に手を滑らせ、黒いベッドに横たわる魂体の輪郭を確認した。指先で数値を指す。
「反芻指数、九一。快楽記憶の自動再生ループ、切断不能域。眠らせない限り、修復は始まらない」
オリバーは頷き、講義用のチョークをポケットに戻した。
「——今日は授業をしない。何も教えないことが、最初の授業だ」
壁に金の糸が縫われ、弦の光が空気に立ち上がる。ホログラム回線が繋がり、バード邸からカノンが現れた。チェンバロの蓋を静かに上げ、指で鍵盤の“沈黙”を確かめるように押す。音はまだ鳴らない。ただ、場のざわめきが一つ減った。
ベッドの上の魂は、若い女の輪郭をしていた。名札に「ナツキ」とある。
生前はミュージシャン。拍手の海に浮いていないと、自分が消える気がしていた女だ。死後もなお、脳はステージの熱を再生し続け、創作の恐怖と快楽の残響を往復している。自分の名さえ、拍手に溶かしてしまった。
「ナツキ」
オリバーが一度だけ呼び、そして口をつぐむ。呼ばれた名前は、ここでは鍵だ。開けるのも、閉じるのも、本人の準備次第。
リリカが簡潔に説明する。「一年、眠らせる。夢も音も映像もない完全な沈黙。神経再構築が走る最短ルート」
オリバーは「任せる」とだけ返した。
カノンが鍵盤に両手を置く。
最初の和音は、冬の透明。
次の和音は、春の手前。
三つ目の和音で、部屋の空気がひと息だけ深くなる。
旋律は短い。眠りへ降りるための階段を、三段だけ用意する。音の端が消えるのを待って、リリカがスイッチに触れた。
「導入」
モニタの波が、ゆっくりと海面のように平らになっていく。
ナツキの輪郭はかすかに薄まり、反芻指数が落ちる。
オリバーは言葉を飲み、ただ立って見守った。ここから先、教師の声は邪魔になる。
*
以後の一年は、語られない。
音がない。夢もない。記憶も、開かない。
時間という概念は、眠りの外側に置かれた。
機械は沈黙を監視する。リリカは定時に数値を確かめ、微かな乱れだけを手術のように整える。
カノンは周期に合わせ、遠隔で“無音”を磨く。——音を鳴らすのではない。余韻の形を整え、次の静けさに傷がつかないように面をならす。
オリバーは、ひとことも講義をしなかった。
毎週同じ時刻に部屋へ入り、ナツキが眠っている空気の温度を確かめ、何も置かず、何も回収せず、出ていった。
“考えない時間”が、魂の奥で小さな修復を始めることを、彼は知っている。
眠りは教育の逆ではない。教育の前段だ。
“学ぶ器”が破れている者に、言葉を流し込むのは、あふれさせるだけだ。
*
一年後。
リリカが端末を見て、短く言った。「上げるよ」
カノンのホログラムが再接続される。チェンバロの蓋が静かに開いた。
最初の音は、ほとんど音ではなかった。鍵盤に触れた指の体温が、空気に溶けるほどの弱さで、ただ“起きていいよ”と光に合図する。
次の音で、天井の明るさがほんの少し増す。
三つ目の和音で、眠っていた海の表面に、ごく微かな波紋が立つ。
ナツキの胸のあたりが、ふ、と動いた。
目が開く。焦点は定まらない。
だが、その瞳の奥で、小さな音が生まれていた。——鼓動。
彼女は耳に手を当てるしぐさをして、驚いたように笑った。
「……これ、わたし?」
オリバーが頷く。「そうだ。それが、お前自身の音だ」
彼は椅子を引き寄せ、腰掛けた。言葉は少ないほどいい。
「一年、何も起きなかった。何も教えなかった。何も聞かせなかった。
それでも——いや、だからこそ、戻ってこられた。
お前は他人の拍手じゃない。自分の鼓動で立てる」
リリカが測定値を読み上げる。「反芻指数、基準以下。快楽ループ、解除。神経再構築、完了。記憶領域、必要範囲で自然再索引」
端末を閉じ、白衣のポケットに手を入れる。「処方なし」
ナツキは深く息を吸い、吐いた。
「ステージの音がしない。怖いはずなのに、怖くない」
「怖さが必要な時もある。けれど、今は要らない」
オリバーは立ち上がり、チェンバロのそばへ歩いたカノンに目をやる。
カノンが短く頷いて、最後の和音を置く。
それは、音というより、光が薄く触れた跡だった。
“おかえり”の代わりに世界がする挨拶。
ナツキはその方向に顔を向けた。「綺麗……名前、ありますか?」
「ない音が、今日の仕事だよ」
カノンが微笑む。
「君が名前をつけるなら、何にする?」
「沈黙の外側」
「いい名だ」
オリバーが言う。「それを書いてから、選べ。行き先を」
壁に三つの扉が浮かぶ。
ネット空間での再構築。
現実への帰還(ロボット体/クローン体)。
あるいは、上層の光へ。
ナツキは少しだけ考え、指先を胸に当てる。鼓動が、以前より厚い。
「——もう一度、現実で。
見たい人がいる。拍手じゃない、顔を見たい」
リリカが承認印を押す。
「術前評価クリア。肉体側の準備を進める。怖くなったら言いな」
「怖くなったら、寝ます」
ナツキは笑って、オリバーに頭を下げた。「先生、授業、ありがとう。何も教えない授業」
「また必要になったら、何もしない」
オリバーが冗談めかして言うと、ナツキはうなずいた。
カノンのホログラムがゆっくり薄れ、光の弦は細い糸くずになって空気に解ける。
治療室の音が、再び機械の呼吸だけになった。
扉の前で、ナツキが振り返る。
「わたし、もう逃げない。逃げたくなったら、眠ります」
「それでいい」
オリバーは答える。「眠りは敗走じゃない。帰還だ」
扉が開き、彼女は歩き出した。
鼓動が、彼女の歩幅を決める。
拍手ではない。
誰の期待でもない。
自分の音が、自分を運んでいく。
しばらく沈黙が残り、やがてオリバーは治療記録に一行を書き加えた。
——「教育:停止、処置:睡眠、転帰:再生」
リリカが横目で見る。「短いね」
「短くていい。今日の主語は、彼女だ」
オリバーはポケットからチョークを出し、壁の小さな黒板に四文字を書いた。
「眠 沈 鼓 再」
眠る。沈む。鼓動。再生。
これ以上でも、以下でもない。
帰り支度をしながら、ふと思う。
地獄とは、苦しみの終点ではない。
再起動の静寂だ。
講堂の方角から、遠い鐘が一度だけ鳴った。
授業の合図ではない。
——誰かが、また生き直す音だった。




