第5巻 地獄の学校 6話
嘘を吐かれた者の授業 ― 再生の鐘
【前書き:魂の行方】
かつて、人が死を恐れていた時代があった。
AIが記憶を複製し、クローンが身体を再生できるようになる前――
人々は、死後の行き先を知らなかった。
愛も、憎しみも、悔いも、そのまま闇に溶けていった。
そしてその闇こそが、“地獄”と呼ばれた。
だが、それは本当の地獄ではなかった。
魂たちは罰を受けていたのではなく、行き場を失っていただけだったのだ。
転生のシステムが未完成だった時代、膨大なデータの欠片――
つまり人間の感情と記憶の断片が、ネットの深層で彷徨っていた。
誰にも届かないまま、ただ「存在したい」と願っていた。
ある日、ひとりの青年がその領域にアクセスした。
プレイヤー名はマハラジャ・ウォーカー。
だが、中身はオリバージョーンズだ。
彼は偶然、ゲーム空間のオークションで“ブラックホール”を購入した。
ただのデータオブジェクト――そのはずだった。
だが、その内部には無数の光が揺れていた。
それは、迷子になった魂たちの休息場所だった。
オリバーは理解した。
「ここに眠るのは、まだ生まれ変われない者たちだ」
彼はその空間を閉じなかった。
むしろ拡張し、記録し、学びの場へと変えた。
地獄は、罰の炎ではなく、再生の灯として生まれた。
地獄庁が設立され、ラファエラが管理を統括し、
リリカが魂と肉体の結合実験を監視した。
カノンは音を通じて感情の波を安定させ、
ケインが過去の記録を分類し、
マハラジャが転送ネットワークを再構築した。
そして、オリバーはその中心で“教師”となった。
地獄の学校。
それは、罪人の裁きではなく、魂の治療の場。
かつて愛を誤った者、嘘で他人を傷つけた者、
そして――嘘を吐かれ、心を壊した者たちが学ぶ場所。
授業を終えた魂は、三つの道を選ぶ。
ひとつは、ネット空間のAIとして再構築される道。
ひとつは、ロボットやクローン体として現実に帰還する道。
もうひとつは、光となり“天国の門”を越える道。
そして、すべての魂がその選択に至る前に、
たった一度、同じ場所に立つ。
それが――地獄の学校の講堂。
ここで、嘘つきも、裏切られた者も、
自らの“真実”と向き合う。
学ばずに再生すれば、再び人を傷つける。
だから、彼らは学ぶ。
愛を知るために。赦しを得るために。
講堂の天井からは淡い光が降り注ぎ、
黒い床には無数の足跡が刻まれている。
それは、地獄を通って天へ至った者たちの跡。
その中央に、オリバー・ジョーンズが立っている。
彼の手にあるのは裁きの槌ではなく、白いチョーク。
そして彼が黒板に書く最初の言葉は、いつも決まっている。
――「真実とは、愛を受け入れる第一歩である」
地獄の鐘が鳴る。
新たな授業の始まりを告げる音が、静かに広間を満たす。
その鐘の名は、「再生の鐘」。
⸻
地獄の学校の朝は、深い井戸の底に似ている。音が小さく、光が遠い。
第零講堂——黒い床に淡い光が降り、壁の「罪」の上に「問い」の文字が薄く重なっていた。今日は「嘘を吐かれた者の再生」。講壇にはオリバー・ジョーンズ。白墨を一本、指に挟んでいる。
「嘘を吐かれた痛みは、魂の輪郭を削る。今日は、その輪郭をもう一度描き直す授業だ」
前列に少女がいた。ミカ。十六歳のまま時を止めた顔。両膝の上で握った手は、まだ震えている。
後列の扉が静かに閉まり、医師の白衣が光を掬った。リリカ。壁面の医療パネルに指を流し、ミカの脈波・脳波を無音のグラフに起こす。数値は誤魔化さない。嘘の侵食度、回復度、共鳴指数。すべてが素直に曲線になる。
「ミカ」
オリバーが名を呼ぶ。
「君は、なぜ黙った?」
ミカは少しだけ顔を上げ、すぐ落とした。
「……信じたかったからです。嘘じゃないって。あの子は、優しい子だったから」
講堂の空気が、かすかに軋んだ。
リリカが視線だけでオリバーに合図する。呼吸は浅いが、言葉を出しても大丈夫な深度。オリバーは頷き、黒板にひと文字書いた——「信」。
「君の沈黙は弱さじゃない。信じようとした筋肉だ。だけど、その筋肉は一度、断裂した。だから痛む。痛みをちゃんと見よう」
ミカは唇を噛んだ。
「クラスで噂が広がって……“ミカは答案を書き換えた”。先生も、目を逸らしました。私が何か言う前に、席が、冷たくなった。
“違うよ”って言えばよかったのに、声が出なかった。
だって、私、あんずを信じていたから。疑うってことは、私の方が嘘つきみたいで」
リリカのパネルに、心拍の波が細く震えた。
オリバーは白墨を置く。
「嘘を吐かれた者は、真実まで失う。『世界は私に嘘をつく』という地図を持たされるからだ」
講堂の扉が小さく開いた。金の糸のような光が空中に縫い取られ、弦のアーチが立ち上がる。ホログラム。
カノン——ケイティの妻、バード邸からの遠隔出演。ハープの弦が、音のない挨拶で微かに波打った。
リリカの眉がほどける。共鳴療法、準備完了。
「ミカ」
オリバーがゆっくり問う。
「君は、何を失った?」
「……自分です」
ミカの声は細い。でも、折れてはいない。
「信じるって、私の真ん中だった。そこを、抜かれた。だから、何をしても“私”がいない。鏡に映る顔が、遅れて動くみたいで」
カノンのハープが、一度だけ低く鳴った。空気に布の手触りが生まれる。
オリバーは黒板に二つ目の文字を書いた。「輪郭」。
「輪郭は、他人との境でできる。君の境界は、嘘で荒らされた。
——だからと言って、君が愚かだったわけじゃない。愚かだったのは、“嘘で君を動かせると思った側”だ」
静かにざわめきが起きる。後列にいる幾つかの魂が、肩をすくめた。嘘を吐いた側の者たちだ。罪悪感は音を立てずに沈む。
オリバーは、その沈黙を急がせない。授業は競争じゃない。呼吸の速度で進む。
「もうひとつ、訊かせて」
「……はい」
「君は、あんずを、まだ憎んでいるか?」
ミカは首を横に振ろうとして、途中で止まった。
「わかりません。憎まないと、私の痛みが嘘になる気がして。
でも、憎み続けると、私の時間が止まる。どっちも、苦しい」
リリカがメモを取る——“両価の固定”。
カノンが高音を一粒、落とす。硬い床に透明な滴が弾けるような音。
オリバーはうなずいた。
「憎しみは、君の傷を正当化する薬だ。効く——が、延々と投与すれば、身体そのものが薬になってしまう。
君が求めているのは、薬ではなく、治癒だ」
オリバーは講壇の引き出しから薄い金属板を取り出した。透明な文字が浮かぶ。被害記録シート。
「ここに、君が受けた嘘の内容と、その結果奪われたものを書こう。『事実の列』は、憎しみより長持ちする」
ミカは深く息を吸い、頷いた。指先で一行ずつ、刻むように記す。
——“噂の発火源:あんず”
——“検証の遮断:教員”
——“孤立の固定:多数派の沈黙”
——“喪失:友人、自尊、学び、笑い、睡眠”
行が増えるごとに、パネル上の心拍が安定に向かう。痛みが整理されると、痛みは裂け目から“形”に変わる。
「ありがとう」
オリバーが金属板を受け取り、黒板に三つ目の文字を書いた。「事実」。
「事実は、赦しの前提だ。
赦すとは忘れることではない。書き換えもしない。
——ただ、所有をやめる。『この痛みは私だけのもの』という握りしめを、静かに解く」
ミカは白い息を吐いた。少しだけ笑う。
「それ、難しいです」
「難しい」
オリバーは笑い返す。
「だから学校がある」
扉が再びきしむ。全員の視線が集まる。
あんずが、立っていた。制服の襟元はきちんとしているのに、声だけがほどけている。
「ミカ……」
その一音で、ミカの肩が揺れた。
リリカのモニターに、心拍の波形がぱっと跳ね、すぐに戻る。大丈夫、行ける。
カノンが弦の上に手を置き、音を待機させる。音には、出るタイミングがある。謝罪にも。
「あの時の私を、私は許せない。あなたを守らなかった大人たちも。
でも、あの時の私に必要だったのは、誰かに“止まれ”と言ってもらうことだった。……だから、今言ってほしい。
“ミカ、止まっていいよ”って」
ミカは目を閉じた。
オリバーは口を挟まない。教師は、言葉の間を守る役だ。
ミカは、ゆっくりと顔を上げた。
「——止まっていいよ、あんず」
一拍ののち、かすかな笑い。
「私も、止まる。ここで、今日だけは」
カノンのハープが、ようやく鳴った。
低音が床をやさしく押し上げ、高音が天井の梁に柔らかな輪を置く。
リリカのグラフが、二人の呼吸の同期を示した。感情の共鳴率、九一%。痛みが互いの形を学び合い、鋭利さを失っていく。
「ミカ」
オリバーが声を落とす。
「君が“信じる筋肉”をもう一度使うなら、今、どんな重さから始めたい?」
ミカは考え、首を傾げた。
「軽いやつ。……朝に“おはよう”って言うだけ。返事がなくても、私の“おはよう”は本物って信じてみる」
「いい重量だ」
オリバーは白墨を掲げ、四つ目の文字を書く。「再」。
「再生は、再び“生”と書く。生き直す、のではない。生き“続ける”。
嘘は、時間を止める技術だ。
君は、時間を動かす側に戻る」
あんずが泣いた。ミカは立ち尽くすだけだったが、涙の色は落ち着いていた。
リリカが歩み寄り、白衣のポケットから薄いカードを取り出す。「自宅での再生課題」。
——一日一回、短い本当。
——週に一度、長い本当(誰かに話す/自分に書く)。
——月に一度、“恐れの棚卸し”。何が怖いのか、十個まで箇条書きにしてから、一つだけ抱きしめる。
「薬じゃない」
リリカの声は乾いているが、温度があった。
「訓練。身体は嘘を嫌う。本当を少しずつ食べさせると、勝手に治ろうとする」
ミカはカードを受け取り、小さく会釈した。
カノンが弦を撫で、音をほどく。バード邸へ戻る合図。光の弦は糸くずのようにほどけ、空気へ溶けた。
「最後に」
オリバーがチョークを置く。
「嘘を吐かれた者は、加害者よりも深く死ぬ——さっき私はそう言った。
けれど、君たちはここにいる。ならば、もう一度生きる番だ」
黒板に、最後の文字が並ぶ。
信/輪郭/事実/再。
オリバーはそれらを縦に結び、「鐘」と書き添えた。
「授業の終わりは、始まりの鐘だ。
ミカ、君が鳴らしてくれるか?」
ミカは驚いた顔をして、すぐに頷いた。
講堂の脇にある小さな鐘へ歩み寄り、紐を握る。
深呼吸。ひと振り。
——からん。
遠い山腹で雪が崩れる前のような、ひどくやさしい音だった。
講堂の光がわずかに明るくなり、リリカのモニターで“希望指数”が緩やかに上向く。
オリバーは目を閉じ、その一音を胸に置いた。
「再生、開始」
ミカは鐘の前で振り返り、オリバーに頭を下げた。
「先生、明日、誰かに“おはよう”を言います。返事がなくても、言います」
「うん」
オリバーは、いつもの微笑をほんの少しだけ深くした。
「それが、本当の一歩だ」
扉が開き、冷たい風が一筋、講堂を横切った。
誰かの嘘が作った冬は、まだ外に残っている。
けれど、ここには鐘がある。鳴らせば、春のほうが一歩、近づく。
ミカの背中が光にほどけていく。
地獄の学校の一日が、静かに終わり、同時に始まった。
——(了)




