第5巻 地獄の学校 5話
嘘吐きたちの授業――愛の授業
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嘘を吐く者は、いつだって孤独だ。
だが、彼らの嘘は、愛を求める叫びでもある。
地獄の講堂に、嘘吐きたちが集う。
そこは裁きの場ではなく、学びの場だった。
講堂の天井からは淡い光が降り注ぎ、黒い床に柔らかな影を落としていた。壁には「罪」の文字の上に「問い」が重ねられ、嘘と真実が交錯する場所であることを示していた。嘘吐きたちは静かに席に座り、心の奥に沈む記憶と向き合っていた。
オリバー・ジョーンズは講壇に立ち、チョークを手に持った。彼の瞳には、かつて両親に愛されながら、10歳の誕生日に遺跡泥棒に母親を奪われた少年の面影があった。だが、今、その瞳は穏やかで、嘘吐きたちの魂を優しく照らしていた。
「今日の授業は“嘘と愛の違い”だ」とオリバーが言った。声は静かで、しかし講堂の隅々に響いた。「お前たちは、なぜ嘘を吐いた? その嘘で、誰を傷つけ、誰を守ろうとした?」
沈黙の中、一人の女性が手を挙げた。彼女の名はあんず。20代後半、長い黒髪が顔を隠すように垂れ、目は遠くを見ていた。「私は……本当の自分を愛してほしかった」と彼女は囁いた。「でも、誰も本当の私を愛してくれなかった。だから、嘘をついた」
オリバーは彼女に近づき、静かに促した。「話してみなさい、あんず」
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あんずの記憶は、幼少期の家に遡る。この時代、憎しみや欺瞞は教育で減っていたが、完璧さを求める社会の目は厳しかった。あんずの母親、由美子は、近所では「良い人」と評される女性だった。温かい笑顔で挨拶し、PTAで積極的に活動し、子育てに熱心だった。だが、家の中では違った。由美子はあんずに完璧さを求めた。成績は常にトップ、態度は礼儀正しく、失敗は許されない。あんずがテストで2位を取った日、由美子は微笑んだが、その目は冷たかった。「次は1番になりなさい。私の娘ならできるわ」。あんずは母の愛を得るため、良い子を演じた。弱さや不安を隠し、笑顔の仮面を被った。
由美子の心の奥には、深い不安があった。彼女自身、若い頃に「完璧な女性」でなければ愛されないと感じ、夫や社会の期待に応えようと努力してきた。娘の成功は、彼女自身の価値の証明だった。あんずが失敗すれば、由美子は自分が否定されたように感じた。だから、ありのままのあんず――泣き虫で、怖がりで、失敗するあんずを認められなかった。彼女はあんずを愛していたが、それは「完璧なあんず」への愛だった。
近所の母親たちは、由美子の完璧主義を見抜いていた。「あのお母さんが、ありのままの子供を愛する? 絶対に無理よ」と陰で囁いた。彼女の温かい笑顔は、表面的なものだった。だが、あんずにはそれがわからなかった。母の抱擁は、彼女にとって唯一の救いだった。たとえそれが、嘘の自分への愛であっても。
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学校で、あんずは模範的な生徒だった。だが、ミカという親友が現れた。ミカはあんずと同等の成績を持ち、純粋で嘘を知らない少女だった。あんずはミカの笑顔に心を動かされたが、同時に嫉妬した。ミカがいる限り、母の求める「1番」になれない。あんずはミカに近づき、味方のふりをして嘘をついた。「ミカ、先生があなたの答案を疑ってるよ。答案を書き換えたって噂が広まってる」。それは嘘だった。だが、ミカの心は揺れ、クラスメイトの冷たい視線や噂に耐えきれず、彼女は学校に来なくなった。
あんずは1番になった。教員は「模範的な生徒」と褒め、母は「私の誇り」と抱きしめた。だが、ミカの空いた席を見るたび、あんずの心は冷えた。彼女は自分の嘘が純粋な友人を傷つけたことを知っていた。なのに、嘘をやめられなかった。良い子でいることが、愛される唯一の道だと思っていたからだ。
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大人になったあんずは、トモヤと恋に落ちた。彼は誠実で、彼女の「完璧な姿」に惹かれた。あんずはトモヤの前で、明るく、強く、失敗しない女性を演じた。「辛いことがあっても、私には関係ないよ」と笑い、「君には何でも話せる」と言うトモヤの言葉を、嘘で受け流した。本当の自分――弱く、不安に怯える自分をさらけ出すことを恐れた。母の声が響いた。「完璧でなければ愛されない」。
だが、嘘は綻びを見せた。トモヤが「あんず、君は本当に大丈夫? 何か隠してる気がする」と問うた夜、あんずは笑顔で「何も隠してないよ」と答えた。だが、その目は揺れていた。トモヤの疑念は膨らみ、やがて彼は言った。「君の心が見えない。まるで、君がそこにいないみたいだ」。彼は去った。あんずの嘘で築いた愛は、脆くも崩れ落ちた。
あんずの心は壊れた。トモヤを失った痛みは、彼女を孤独の底に突き落とした。仕事でも、友人関係でも、彼女は完璧な仮面を被り続けたが、心は空っぽだった。ある日、鏡に映る自分を見て呟いた。「本当の私を、誰も愛してくれない」。その言葉は、彼女の破滅の始まりだった。
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講堂で、あんずの声が震えた。「私の嘘は、母を喜ばせ、ミカを出し抜き、トモヤを愛したかった。でも、全部壊れた。私をこんな生き方に導いたのは母だ。母が、完璧な私しか愛さなかったから」
オリバーは静かに頷いた。「あんず、お前の母はなぜ完璧を求めた? 彼女もまた、恐れていたんだ。自分の価値を、お前の成功で証明しようとした。だが、それは愛の欠如ではない。愛し方の間違いだ」
あんずの目が揺れた。「でも、母は本当の私を認めなかった。ミカも、トモヤも、私の嘘に傷ついた」
オリバーは黒板に近づき、チョークで一文字を書いた。「愛」。粉が舞い、光の中で揺れた。
「愛とは、仮面を脱いだお前を受け入れることだ。あんず、お前の母は、良い子のお前を愛したが、それは彼女自身の恐れから生まれた。お前が自分で自分を閉ざした。ミカもトモヤも、本当のお前を待っていたかもしれない」
講堂の隅で、別の嘘吐きが呟いた。「私も…完璧じゃなきゃ愛されないと思ってた」。それはハリー、成功を求めて嘘をついたビジネスマンだった。「でも、嘘で得た愛は、空っぽだった」
リリアが手を挙げた。「私は恋人に嘘をついた。希望を与えたかったけど、本当の自分を隠したせいで、愛を失った」
オリバーは彼らを見つめ、言った。「嘘は愛の影だ。だが、真実は愛そのものだ。愛は、お前たちが本当の自分をさらけ出すことから始まる」
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あんずは目を閉じ、記憶をたどった。母の冷たい目、ミカの空いた席、トモヤの去る背中。だが、ミカの最後の言葉が蘇った。「あんず、辛い時は言ってね」。あの時、彼女は本当のあんずを待っていたのかもしれない。母もまた、内心では娘の全てを愛したかったのかもしれない。由美子の笑顔の裏に、彼女自身の不安が見えた。あんずは初めて、自分が母の恐れを背負っていたことに気づいた。
オリバーは続けた。「俺もかつて、愛を失った。母が遺跡泥棒に殺された日、俺は人を信じる心を失った。誰もが嘘をついているように思えた。だが、この時代は教えてくれた。教育は人を導き、愛は人を繋ぐ。母はロボットボディで戻り、俺に言った。『オリバー、信じなさい』と」
彼の瞳は、あんずを見つめていた。「あんず、お前を嘘に導いたのは母の恐れだ。だが、お前がその恐れを背負う必要はない。ミカを傷つけた嘘も、トモヤを失った嘘も、お前が自分を愛さなかった結果だ。恐れは赦される。真実を語る勇気を持て」
あんずの涙が黒い床に落ち、光となって消えた。彼女は呟いた。「本当の私を…愛してみたい」
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授業の鐘が鳴った。嘘吐きたちは、それぞれの心に小さな光を抱えて講堂を後にした。あんずは、ミカの笑顔と母の不安を思い出し、初めて自分の弱さを抱きしめるように歩いた。ハリーは本当の自分を家族に示す決意を、リリアは恋人の思い出を胸に刻んだ。誰も裁かれなかった。ここは地獄ではなく、学びの場だった。
オリバーは一人講壇に残り、黒板に最後の言葉を書き加えた。
――「愛とは、嘘を赦し、真実を抱くこと」。
彼は窓の外を見た。そこには、かつての自分が立っていた。母を失い、怯えていた少年の姿が。だが、今、その少年は微笑んでいた。ロボットボディの母の声が、遠くから聞こえるようだった。「オリバー、信じなさい」と。
オリバーは呟いた。「次の授業は、信じる勇気だ」
講堂の扉が開き、かすかな風が吹き込んだ。次の授業の予感を運ぶように、淡い光が講堂を満たした。オリバーは新たなページを開き、静かに次の言葉を書き始めた。
――「真実とは、愛を受け入れる第一歩である」。
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(了)




