第5巻 地獄の学校 2話
嘘と愛の違い ―地獄の講堂より―
(原稿用紙約8枚・約3200字)
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静かな講堂に、二人の人影が並んでいた。
女は涙をこらえ、男は口を固く結んでいる。
閻魔大王オリバー・ジョーンズは、二人の前に立っていた。
「——お前たちは、“愛”の名で嘘をついたな?」
男は俯き、女は肩を震わせた。
「……愛していたんです。嘘なんかじゃない。」
「私もです。彼だけは、私を見てくれた。」
オリバーは静かに頷いた。
「では、問おう。お前たちの“愛”は、本当に愛だったか?
それとも、自分を満たすための“玩具”だったのか?」
空気が重くなる。
天井のランプが淡く揺れ、地獄の講堂に長い影が伸びた。
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「俺は、妻とは冷えきっていた。」
男がぽつりと口を開く。
「話せば喧嘩になる。彼女はいつも疲れていて、俺を見ようとしなかった。
だから俺も、見ないようにした。
……ただ、誰かに“あなたが必要だ”と言われたかった。」
女が続ける。
「私の夫は仕事ばかりでした。
家に居ても、パソコンを閉じることもなく。
わたしは“お疲れさま”の一言がほしかった。
でもそれを言わせるには、私が笑っていなきゃいけなかった。
笑えなくなって、嘘をつきました。
“幸せです”って。」
オリバーは二人を見つめる。
その瞳は裁くよりも、観察する光を宿している。
「なるほど。お前たちは“愛されなかった”と感じた。
だが、それは本当か?
愛されたことがない者はいない。
ただ、愛の形が自分の欲しい形じゃなかっただけだ。」
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オリバーは机の引き出しから、古びた木の玩具を取り出した。
それは歯車で動く仕掛け人形。
「これが、お前たちの心だ。」
二人は顔を上げる。
「子どもの頃、手に入らなかった玩具があっただろう。
“欲しい”と泣いて、誰にも買ってもらえなかったもの。
それが大人になっても心の奥で転がり続ける。
不倫とは、その“取りこぼし”を大人の顔で探しているにすぎない。」
男は拳を握った。
「俺は、成功しても満たされなかった。
金も地位も手に入れても、子どもの頃に褒めてもらえなかった“あの瞬間”を探していたんだ。」
女も目を伏せる。
「私は、美しくなれと言われ続けた。
誰かより綺麗でいなきゃ愛されないと思ってた。
だから今でも、比べることしかできない。」
オリバーは微笑を消して言った。
「つまり——お前たちは愛してなどいない。
自分の欠けた部分を、他人で埋めようとしただけだ。
愛は、他人を飾ることではない。
嘘とは、自分を飾ることだ。」
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オリバーは黒板にチョークで二つの文字を書いた。
“嘘”と“愛”。
その間に、一本の線を引く。
「似ている。どちらも“相手のため”という言葉を使う。
だが——」
チョークの先が止まる。
「嘘には恐れがあり、愛には勇気がある。」
男と女は顔を上げる。
「嘘は、相手を失うことを恐れて生まれる。
愛は、失っても相手の幸せを祈ることだ。
だから、不倫の中に愛はない。
あるのは恐怖と、欠乏だ。」
女の頬に涙が伝った。
「……私が欲しかったのは、玩具じゃなかった。
一緒にご飯を食べて、笑って、ただ“今日もお疲れさま”って言える日常だった。」
男の目も潤む。
「俺も、妻を守る言葉を、嘘で埋めてしまった。
“平気だ”と言ったけど、平気じゃなかったんだ。」
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オリバーは椅子に腰を下ろし、静かに言った。
「愛とは、相手を手放せる力だ。
嘘は、相手を所有しようとする力だ。
お前たちは物を愛した。人を欲した。
だが、人を欲することと、人を愛することは違う。」
講堂の天井が淡く光を帯びた。
オリバーは続けた。
「欲しいものを増やすと、心は嘘で満たされる。
けれど、誰かを思い出して胸が痛むとき——
その痛みこそが、本物の愛だ。」
男と女は互いに向き合う。
そこに、もう欲望はない。
残ったのは、静かな理解だけだった。
彼らの体が淡い光となり、ゆっくりと天へ昇っていく。
オリバーは黒板の“嘘”と“愛”のあいだに、もう一つの言葉を加えた。
“赦し”。
「嘘は欠乏、愛は再生。
そして赦しは、その境界に咲く花だ。」
ペンを置き、講堂を見渡す。
空席の中に、かつての自分の影を見る。
愛されたい少年。認められたかった少年。
彼もまた、嘘を使って生き延びた一人だった。
だが今は違う。
彼はもう、“教える者”だ。
「次の授業は、“所有と孤独”だ」
オリバーは小さく微笑んだ。
ランタンの光が、彼の横顔を照らした。
それは地獄ではなく、赦しの光だった。
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(了)




