第4巻 エピローグ 後編
エピローグ(後編)
「閻魔庁広間、きょうは祝祭」
いつものように、閻魔庁の広間は人でいっぱいだった。
ただし今日は、沈痛な列も、すすり泣きも、恨みがましい視線もない。代わりに、色とりどりの花輪、紙のガーランド、天井から垂れるリボン、長机の上を埋め尽くす皿、皿、皿。重厚な黒い柱に取り付けられたランタンは、いつもの蒼白い光ではなく、どこか蜂蜜色の暖かい灯りを放っていた。
「——静粛にっ! 並ぶのは好きだけど騒ぐのも好き、な皆さん!」
壇上のマイクの前で、ネイビーのスーツに銀のタイピンを光らせたケイティが、手のひらをひらひらさせた。
「本日は、我らが記録者——いえ、主役の、オリバー・ジョーンズのお誕生日会です! 拍手!」
わっと歓声。
「なお、司会進行はわたくしケイティが務めます。ラファエラの兄、そしてカノンの夫でもあります。家庭内権力はカノンが強いです!」
「そこは余計!」
舞台袖のチェンバロの前で、カノンがむっとしながらも鍵盤の蓋を開ける。軽く指を乗せ、音を確かめるように一度だけ和音を鳴らした。
その和音が、高い天井にふわりと拡散して、祝祭の空気に背骨を入れる。
「ケイティ兄さん、張り切りすぎ」
ラファエラがオリバーの隣で小声で笑う。
「いいのよ。こういう時の兄さんは頼もしいから」
「うむ、頼もしい」
オリバーは頷き、広間を見回した。
バーンズ・ダンとマグナス・ケインが杯を持ち、何かを囁き合っては笑いを堪え、
ゼウスとヘラは少し離れて、穏やかな眼差しで全体を見守っている。
少年の姿に留まるアルテミスとアポロンは、蝶ネクタイを直し合い、鏡合わせのように同じ角度で頷いた。
マハラジャはいつもの気の抜けた笑顔で、しかし目だけは機器の稼働状態を確認する経営者のそれだ。
レイは……もう騒いでいる。
「おい、押すなって! 並べ! 列は崩すな! 俺はおじいちゃんじゃない!」
その言葉に、即座に周囲から笑いと野次が飛んだ。
「レイ、おじいちゃん!」
「おじいちゃーん!」
「ちがーうっ!」
エミール(外見は23歳)とリリカが、小さな三つ子の手を引いて現れる。
黒髪の褐色の肌の子が右、レイによく似てる。金色の髪の色の白い子が左。リリカによく似た女の子。3人とも二歳にして足がやたらと速い。
「待って、走らない——」
間に合わない。3人はつるりと滑って、勢い余って尻餅をついた。
「いたー!」
「つめたい!」
泣きだすかとハラハラしたが、レイがすかさず派手に転んでみせる。
「いててて、わしは大事故だ!」
三つ子は目を丸くしたあと、けらけら笑って立ち上がった。拍手。
「……ナイス助演」
リリカが苦笑いでレイに親指を立て、エミールが肩をすくめる。
「おじ——」「次それ言ったら泣くぞ!」
レイ、未然に防いで自分で笑う。場がまたふわりと緩んだ。
「では、音楽を」
ケイティが片手を挙げる。
カノンの指が走る。**《ゴルドベルク変奏曲》**のアリア。
初めの一音で、喧噪がすっと引いた。
音は蜂蜜色のランタンを渡って、柱を撫で、天井の梁をくぐり、広間全体にやわらかい膜をつくる。
人の呼吸が、音に合わせて自然に長くなる。
アリアが一巡する頃合い、ケイティが小声で舞台袖に合図を出した。
暗転。
「ワン」
控えめな一声。
ハチ公が、二足歩行でケーキを載せたカートをヨチヨチ押して現れた。
ケーキは日本人パティシエのクローン、kasaharaの作った色取り取りの小振りのケーキが5段のトレイに綺麗に乗せられている。
タルトのケーキの層、ムースのケーキの層、カステラのケーキの層、3種類のモンブランがそれぞれわけて置かれている層。1番上がチョコレートで作られた彫刻とマカロンの山。
子供達も大人達も好きなケーキを選んで食べる事が出来る。オリバーは大きなケーキは余り好きでは無いらしい。
その足元、フェイ太郎が小さな胸を張って先導する。
「フェイ太郎、方向は任せた」
ケイティが指示する。
「(キュイッ)」
フェレットは鼻先で空気を切り、ハチ公はヨチ、ヨチと慎重に進む。
ユリウスとネロ(7歳の双子)が前に飛び出しかけ、ミレーユとノア(5歳の双子)が手を引っ張って止める。
「だめ、こぼれる!」
「こぼれたら食べられない!」
理由が超現実的で、周囲に笑いが漏れた。
「誘導します!」
ケイティが両腕を広げて、空港のマーシャラーみたいに合図する。
「はい、もっとゆっくり……はいそこ段差……よし、クリア……はい、ストップ!」
ハチ公が最後の一歩を押し出す。ぷるん。
全員の喉が同時に鳴った。
——持った。
歓声。ハチ公、ドヤ顔。「ワン!」
フェイ太郎は、ハチ公の頭の上迄登り、ケーキを覗き込み、鼻にクリームをちょっと付けた。「(キュ…)」
「かわ……」「食べ物は粗末にしない!」
ケイティの一喝に、子どもたちが「はーい」と返す。場内に笑いの波が立って、すぐ収束した。
「それでは」
ケイティがマイクを持ち直す。
「主役の言葉の前に、家族代表から一言ずつ。短めで! 兄としてのお願い!」
「兄、仕事増やすね」
ラファエラが笑い、オリバーの背を軽く押した。
「……先に、子どもたちから」
オリバーが目で合図を送ると、ユリウスが胸を張って一歩前に出た。
「とうさん、たんじょうびおめでとう! ぼくは——」
「ぼくは、裁かれませんでした!」とネロがなぜか自白調に続け、広間が爆笑に包まれる。
「次、ミレーユ」
「おとうさんの、かお、きょうはやさしい」
「ノア」
「おとうさん、すき」
オリバーの肩に、ラファエラの手の温度が乗る。彼は小さく頷いた。
「エミール、リリカ」
ケイティが促すと、二人は二歳の3つ子を抱えたまま前に出た。
「オリバー、誕生日おめでとう」
エミールは短く、でもはっきりと言った。
「ぼく、4歳のマハラジャを護ったこと、ずっと隠してたけど——」
「知ってたよ」
マハラジャがひょいと手を振る。「最初から」
レイがすかさず胸を張る。「護衛の家系だからな! おじ……いや、レイです!」
また笑い。
リリカが続ける。「あなたが残してくれた“書き方”で、私たちはやっと家族になれたよ」
エミールが照れたように目を伏せ、二歳の3つ子が「いちご!」「いちご!」と勝手に要望を提出した。
「フルーツのトレイはこっちだぞ!全部日本産の日本人が管理した高級フルーツだ!桃に苺にメロンにマンゴーにりんごにシャインマスカットに柿だぞ!偽物じゃないからな!」
マハラジャが楽しそうに言う。
その言葉に来場者がどよめき立つ。幾ら金掛けたんだよ?マハラジャ!!
フカフカのパンを使ったサンドイッチや、焼き菓子や、フルーツの入ったよく冷えたドリンクや、冷たい緑茶、ウーロン茶、アルコール類が猫型配膳ロボットに乗って行儀良く運ばれて来る。
「ゼウス陛下」
ケイティが恭しく振ると、ゼウスは軽く頷いて前へ出た。
「オリバー。帰還はまだ終わらない。だが、今日くらいは“滞在”していいだろう?」
「もちろん」オリバーが笑う。
「ありがとう。ヘラと、アルテミス、アポロンも同じ気持ちだ」
少年の姿の双子が、同じ角度で一礼する。
「おめでとう」
声が揃った。広間が少しだけ震える。
「ケイン」
ダンが目で合図する。
マグナス・ケインは、子どもたち(カイン、アベル、ルルワ)を促して前へ出た。
「……オリバー。お前が“書く側”へ踏み出したのは、俺には朗報だ」
「監視者の長い孤独を、誰かが言葉にしておいてくれ」
カインがぴょんと手を挙げる。「あとでダンさんともう一回ハグしてね!」
アベルが乗る。「さっき照れて離れるの面白かった!」
ルルワが微笑む。「良かったね、ケイン」
ケインの耳まで赤くなり、広間はまた笑いに包まれた。
「——それでは」
ケイティが深く息を吸い、マイクをオリバーに渡した。
カノンが、アリアから短い間奏へと移る。
音の膜が、言葉を受け止めるために、静かに厚みを増す。
オリバーは、ゆっくりと前に出た。
いつもの玉座は、今日は布が掛けられている。裁きの槌も、今日は机の引き出しにしまわれたままだ。
彼は一度だけ皆の顔を見渡し、ラファエラの方へ目を戻した。
ラファエラが頷く。
オリバーは、話し始めた。
「ありがとう。おめでとうを、ありがとう」
笑いが起きて、すぐに引いた。
「この広間は、本来、裁きのためにあった。
列に並び、名前を名乗り、罪を語り、弁明し、泣き、怒り、うなだれ、天秤に乗せられる場所だ。
俺は長いあいだ、それを“仕事”だと思ってきた」
彼は一歩、玉座に近づく。
布がかかった背もたれに手を置き、指先で布の感触を確かめる。
「けれど、俺はもう知ってしまった。俺の仕事は書くことだ。
記録し、伝えることだ。
誰がどう生き、どう間違え、どうやって立ち上がったか。
どの言葉が誰を救い、どの沈黙が誰を傷つけたか。
それを、次の人に渡すことだ」
呼吸が合う。
子どもたちの視線も、大人たちの視線も、古い柱の影も、蜂蜜色の灯りも、全部が彼の言葉に耳を傾けているように思えた。
「だから、俺は決めた。
——ここを、裁きの場から“学びの場”に変える」
その瞬間、ランタンの光がひときわ強くなり、天井の梁に仕込まれていたクリスタル板が、静かに角度を変えた。
暗かった梁の間に、柔らかな反射光が流れ、壁の古い碑文が浮かび上がる。
“罪”の文字の上に、薄く“問い”の文字が重なる。
列をつくる床の白線が、淡い色の円へと書き換えられた。
円の中心には、低い講壇。
槌の代わりに、ペン立てが置かれる。
「今日からここは、講堂だ」
オリバーは笑った。
「間違いを数えるのではなく、答え方を学ぶ場所だ。
恐れで口をつぐむのではなく、言葉の選び方を練習する場所だ。
俺は裁かない。教える。
人も魂も、未来を生きるために」
静寂。
そして——大きな拍手。
最初に両手を打ち鳴らしたのはラファエラだった。続いてカノンが、アリアをダ・カーポへ。
音楽に引かれるように、皆の手が重なっていく。
「主役にケーキを!」
ケイティが叫ぶ。
ハチ公が「ワン!」と吠え、カートのストッパーを鼻で外した。
ユリウスとネロが両側でカートを支え、ミレーユとノアがイチゴの位置を真剣に見定める。
フェイ太郎は、今度はちゃんと鼻のクリームをぺろりと舐めてから、胸を張った。
「おめでとう、オリバー!」
ケインとダンの三人の子供達。今は15歳のティーンエイジャーの姿だがが、また同じタイミングで叫ぶ。
「おめでとう!」
エミールとリリカ、腕の中の3つ子は「いちご!」のままだけど声は元気だ。
「おめでとう」
ゼウスとヘラ、アルテミスとアポロン。少年の声は鈴のよう。
「おめでとう!」
ダンが笑い、マハラジャが笑い、
クローンの家族が「もう一人の自分」と同じタイミングで「おめでとう」を重ねる。
広間が揺れるほどの、おめでとう、おめでとう、おめでとう。
オリバーは、笑った。少し泣いた。
ラファエラがそっと彼の頬に口づけして、囁く。
「おめでとう、オリバー。そして、ありがとう、先生」
笑いと拍手と音楽のなかで、オリバーはペン立てから一本のペンを取り上げた。
インクを確かめ、細い線で最初の文字を書く。
“第一講 嘘と物語の違い(導入)”
彼が顔を上げると、みんなの視線がまっすぐ返ってくる。
もうここは、裁きの広間ではない。
未来のための講堂だ。
「——さぁ、始めよう」
オリバーは微笑んだ。
「俺は裁かない。教える。
人も魂も、未来を生きるために。」
ケーキのろうそくに灯りがともり、ハチ公が胸を張って「ワン」と吠えた。
フェイ太郎が尻尾を高く掲げ、子どもたちが息を吸い込む。
そして——大きな声で、歌が始まった。
——おめでとう。おめでとう。おめでとう。
(了)




