第9章:「フェレットと少女と緑の罠」
第9章:「フェレットと少女と緑の罠」
(オリバー・ジョーンズの回想録より)
春になると、gifted学園の中庭は息を吹き返す。
柔らかな陽射しに包まれて、あらゆる植物が芽吹き、色彩の濃度が日ごとに変化していくのを感じる。
温室の扉を開けた瞬間に押し寄せてくる熱気と香り――
あの時のことを、俺はいまもよく覚えている。
中央に立っていたのは、ケイティ・バードだった。
クリーム色の髪を軽く揺らしながら、彼は自分の鉢植えたちにひとつひとつ、奇妙な名前をつけていた。
「これは“ミケランジェロ3号”。こっちは“ルネッサンスの風”……」
静かな時間のはずだった。
だが次の瞬間、その鉢のひとつが、ぐらりと揺れた。
「……ん?」
ぴょん。
跳ねたのは、あいつ――フェイ太郎だった。
「この悪魔っ!!また掘ったのか、俺の“ミケランジェロ3号”を!!」
ケイティの叫び声が温室に響いた。
フェイ太郎は背中を丸め、ピクリと耳を立てて、「クックック……」と低く笑うように鳴いた。
「やるか?やるのか?俺は本気だぞ!今日こそ決着つける!」
「やらないよー。だって君、すぐ疲れるじゃん」
軽やかに跳ね回るフェイ太郎を前に、ケイティの声はもはや怒号というより哀愁だった。
そこに、ラファエラが現れた。
ため息交じりに、まるで何度目かの“仲裁役”のように。
「フェイ太郎、またケイティの鉢を掘ったの?」
「しょうがないじゃん、フェレットの本能だもん」
「……本能じゃ仕方ないわね」
「なんでそうなる!? 俺の“ミケランジェロ3号”が犠牲になってるんだぞ!?」
ケイティが絶叫したとき、温室の入り口からエミールとリリカがやってきた。
姿は9歳の少年、エミール。
けれど、その瞳に宿る静かな知性は、少年のものではなかった。
「またか。あの悪魔……」
隣で、リリカがやわらかく笑った。
「私、フェレット好きなんだけどなぁ。フェイ太郎くんって名前、可愛いし」
その言葉に、フェイ太郎の動きが止まった。
ぺたりと座って、じっとリリカを見上げている。
「……女の子には弱いのか、こいつ」
「エミール、ちょっと黙ってて」
「え?僕、なんか悪いこと言った?」
リリカがしゃがんでフェイ太郎に向かって言った。
「フェイ太郎、次にケイティの鉢を掘ったら、“ごはん抜き”だよ?」
あいつは一瞬硬直して、「クックック……」と口を引きつらせながら、こくんと頷いた。
あの瞬間、俺は思わず吹き出しそうになった。
ケイティは悔しそうに鉢を直しながら、呟く。
「……この悪魔め。なんで俺には反抗するくせに、女には弱いんだ……」
そんなケイティを見て、リリカがふと問いかける。
「ラファエラ、フェイ太郎の玩具ってちゃんとあるの?」
「ええ。でもすぐ壊しちゃうの。ぬいぐるみだけは壊さないけど。全部ゲージに隠しちゃうのよ……。今度、“掘ってもいい鉢”って名前の鉢を買ってあげようかと思ってる」
「名前のセンスよ……」とリリカが笑った。
その時だった。
中庭を横切ってきたハチコウが、じっとフェイ太郎を見つめて、一発だけ「ワン!」と吠えた。
フェイ太郎は肩を震わせ、「……犬こわい」と言いながら、ぴょんとラファエラの肩に跳び乗り、服に顔を埋めた。
「はいはい、よしよし。ハチはケイティのこと、大好きだったものね。フェレットにはちょっと厳しいのよ。でもフェイ太郎、一体何を探してるの? そんなに毎回、穴ばかり掘って」
ラファエラがそう言って、フェイ太郎の頭を撫でた。
その瞬間、俺の中で何かがざわついた。
ハチコウが、再び遠くで「ワン!」と吠えた。
その声が、胸の奥に残る記憶を揺さぶる。
(――母さん)
そうだ。
フェイ太郎が穴を掘り始めたのは最近の事らしい。1年前の春――母ヘラは花の季節に亡くなった。
笑い声に包まれたこの穏やかな光景の裏には、確かに喪失がある。
癒えない傷もある。
けれど、それでも。
この場所も。
この仲間も。
フェレットの“本能”さえも――全部、俺は守っていくと決めたんだ。
それが、俺がgifted学園にいる理由のひとつだった。
第9章・了