第2話「はじめての音」
****
夕暮れのチャイムが校舎に響き、教室にはゆるやかな放課後の空気が流れていた。窓際の席に座る夜水奏都は、ノートを閉じたままじっと外を眺めている。
──数日前の屋上。あの茜色に染まる空の下で、彼女が言った言葉が胸に残っていた。
“私は、みんなを幸せにしたい。想いを守りたい。”
今でも、その言葉が心のどこかをずっと掴んでいる。
「おーい、奏都~!」
机を軽く叩く音とともに、有栖川蒼司の元気な声が響く。明るく、どこか懐かしい雰囲気を持ったクラスメイト。転校初日からやたらと話しかけてきた彼の存在に、奏都は初めこそ戸惑ったが、いつしかその距離感が心地よくなっていた。
「放課後もボーッとしてんなよ~。もうすぐ鍵閉められるぞ」
「ああ……そうかもな」
「なーなー、今日ゲーセン行かね? 新しい音ゲー入ってんだって」
「……音ゲー?」
「お前、得意そうじゃん? 黙ってガチるタイプって感じ」
「……まぁ、嫌いじゃない」
「決まり! 行こーぜっ」
そんな会話の最中、廊下から足音が近づいてきた。
「あ、夜水くん。有栖川くんも一緒だったんだ」
姿を現したのは、朝霞柚葉。声徒会長として知られる学園の“顔”だった。
「おお!? 朝霧さん!? え、なに、声かけてくれた!?」
「さっき教室の前を通りかかったら見えたから。今日も二人で一緒なんだね」
「……何かおかしいですか?」と奏都が返すと、蒼司が慌てて笑う。
「いやいや、そういう意味じゃなくてさ。奏都って意外と付き合いよくて、気も合うしさ。ねぇ朝霧さん、今から奏都とゲーセン行くんだけど、よかったら一緒にどう?」
柚葉はきょとんとした表情を浮かべた。「ゲーセン……? 音ゲー……?」
「もしかして行ったことない? ゲーセンってのはさ、いろんなゲームが並んでてさ。音ゲーってのは音楽に合わせてボタン押すやつ! 奏都、めっちゃ上手いんだぜ?」
「私も行っていいの? えっと……迷惑じゃなければ、行ってみたい、かな……」
「……え!?」
「じゃあ決まりっ! 三人でゲーセン行こーぜ!」
だが、その空気を奏都の一言が切り裂いた。
「……朝霧さんは声徒会で忙しいでしょ。そんな暇ないんじゃない? こんなところで油売ってていいの?」
「え? あ、えっと……そう、だね。ごめん」
「おい、奏都! 朝霧さんに失礼──」
「忙しい人を引き留めちゃだめでしょ。ほら、もう行こう」
「お、おうっ……朝霧さん! また今度ね! 声徒会が休みの時に一緒に行こうね!」
「……有栖川君、ありがとう。また今度ね、……夜水くん」
****
夕暮れの光が街を金色に染める中、二人はゲームセンターの中へと足を踏み入れていた。外の空気とはまるで別世界のように、色とりどりの光と音が空間を満たしている。
「マジか!? 初見でこれ!? お前絶対やってたろ!」
「……昔、ちょっとだけな」
「センスあるって……つか、奏都、お前笑ってね?」
「……気のせいだ」
少し沈黙が流れたあと、蒼司がぽつりと口を開いた。
「……そういえばさ。さっきの、朝霧さんへの言い方さ。ちょっとキツくなかった?」
「別に。あれが普通だよ」
「朝霧さん、すげー気にしてたっぽいぞ? せっかく一緒に遊べるチャンスだったのに~」
「……俺は、誰かと遊ぶために来たわけじゃない」
「そう言うなって。別に全員と仲良くしろってわけじゃないけどさ、たまには誰かと笑ってもいいんじゃね?」
「……笑う理由がない」
「俺は好きだけどな、奏都のそういうとこ」
「……また茶化す」
「おう。あとさ、朝霧さんにはもうちょい優しくしとけよ。お前のこと、結構気にしてるっぽいぞ?」
「……あの人のことはよくわからない」
その時だった。突然、店内の空気がひずんだような異音が響く。
ガガガ……という電子の断末魔のような音。照明が瞬いて落ち、ざわつく人々の声が一斉に止まる。
『炎邪反応、確認。周囲の一般人は直ちに退避してください』
アナウンスとともに、空間の奥から何かが現れた。
蒼司が前に出た。「くっ……奏都、下がれっ!」
「蒼司……!? 血……」
「大丈夫……っ、お前は……逃げろ……」
──何だ、この感じ……呼吸が、うまく……できない……。
蒼司が、血を流してる。目の前の……化け物。
脚が、動かない……心臓が、痛い……。
“まただ”……何もできない……俺は……。
だが、そのとき──
****
鋭い風が空気を裂き、放たれた矢が炎邪の肩を貫いた。
「そこから離れて、夜水くん!」
朝霞柚葉が駆けつけていた。
その瞳はまっすぐに炎邪を射抜き、彼女の背には光の残滓を纏った弓が浮かぶ。
「朝霞……さん……?」
「大丈夫、任せて。私が抑える!」
彼女の歌声が響く。
──♪ 光よ、導け──
だが、放たれた矢は命中しても、炎邪は怯まない。
「効いてない……? あれだけの攻撃を受けても……」
「逃げろ! 朝霧さん、このままだと、あんたまで……っ」
「逃げない!」
「でも、あれは普通じゃない……! あんたまでケガをしたら──」
「夜水くんは、ここで無理をしても何も変わらない。だけど、私は──」
──この人は……本気で、戦おうとしてる。俺なんかとは違う……覚悟がある。
「大丈夫。私には、“歌”がある。まだ、終わってない──」
次の瞬間、爆発のような衝撃が柚葉を弾き飛ばした。
「くっ……動きが、速い……!」
「朝霧さんっ!」
****
爆風が舞い上げた塵の中で、柚葉の身体が無防備に倒れていた。
目の前で何かが壊れていくような音がした。それは照明でも、ゲーム機でもない。奏都の胸の奥、深く沈めていた何かが――音を立てて、軋んだ。
「……また、守れないのか……」
柚葉の腕には擦り傷があり、制服はところどころ裂けている。だが彼女はまだ、必死に立ち上がろうとしていた。
奏都の呼吸が浅くなっていく。頭の奥がしびれる。何もできない自分が、ただ見ているだけの自分が――無性に悔しかった。
──まぶたの裏に、別の光景がちらつく。
白い部屋。ぼんやりした音。誰かの声。鍵盤を叩く幼い手。
“かなと、きみの音が好きだよ”
忘れたはずの記憶が、断片となって蘇る。
「……俺も、守りたいんだよ……!」
その瞬間、彼の足元に光が集まり、パチパチと弾けるような魔力の音が響いた。空気が震え、奏都の目の前に一台のキーボードが顕現する。
息を呑む蒼司の視線を背に、奏都は指先をそっと鍵盤に置いた。
──その瞬間、風が変わった。
「……夜水くん?」
柚葉が顔を上げる。
「……その音……」
「俺の旋律を聴け。……君の“歌”に、重ねる」
震える指で、奏都は最初のコードを打ち鳴らす。
すると柚葉の背後に再び弓が浮かび、先ほどよりも眩い光を纏う。
彼女の唇が動く。旋律に導かれ、再び歌が響く。
──♪ この手はまだ、届くから──
炎邪が動いた。咆哮とともに突進してくる。
だが、今の柚葉は怯まなかった。奏都の音が、彼女に力を与えている。
「夜水くん、もう少しだけ、このまま!」
「……ああ。大丈夫、支える」
音と声が重なる。
旋律と詞が、互いを補い合い、空気を切り裂く力となって放たれる。
柚葉の放った光の矢が、炎邪の中心を正確に貫いた。
次の瞬間、音もなく、炎邪はその身を霧のように崩していった。
──静寂が訪れる。
****
ゲーセンの天井から落ちたパネルが、カラン、と軽い音を立てて転がる。
割れたモニターの光がちらちらと点滅する中、三人は無言でその場に立ち尽くしていた。
「……終わった、のか?」
蒼司がぽつりと呟く。
「……ああ」
奏都が静かに答える。その隣で、柚葉は息を整えながら立っていた。
「ふたりとも……怪我は、大丈夫?」
「ちょっと腕切ったけど、かすり傷だって」
蒼司は笑って見せた。いつもの調子で明るく振る舞おうとしているのが、逆にありがたかった。
「奏都、すげーじゃん。あのタイミングで音、出してくれて。マジでかっこよかったぞ」
「……俺は、ただ……無我夢中で間に合えって思って……」
「うん。本当にありがとう。そんでもってお前は間に合った。だから今、俺らはここにいる。な?」
柚葉も微笑みながら頷く。
「夜水くんの“音”が、私の“歌”を導いてくれた。……ちゃんと、届いたよ」
奏都は視線を逸らすように目を伏せるとぽつりとつぶやいた。
「……そうか」
「そうだよ!」
蒼司が柚葉に向き直る。
「朝霧さんも、めちゃくちゃかっこよかったっす。あの瞬間、光の戦士かと思った!」
「えっ、そんな……別に私は……」
頬を赤らめながら照れる柚葉に、蒼司はいたずらっぽく笑いかけた。
「てかさ、もう“朝霧さん”ってのも堅くね? 柚葉って呼んでもいい? 俺も“蒼司”でいいし」
「えっ……あ、うん……わかった。蒼司くん……じゃなくて、蒼司」
「よし、いい響き!」
蒼司はすぐに奏都に目を向けた。
「奏都も、そう思うよな?」
「……俺に聞くな」
そんな奏都の言葉に、ふたりはくすりと笑った。
戦いのあとに訪れた、一瞬の平穏。
だが、その静寂の先に、また何かが近づいていることを、奏都はまだ知らなかった。
****
夜の帳が街を包み、街灯がぽつりぽつりと歩道を照らし始めた頃。
その喧騒の影、静まり返ったビルの屋上に、一人の女が佇んでいた。
長く伸びた黒髪が風にたなびく。漆黒の制服に身を包み、赤く光る瞳が遠くの空を見つめていた。
「……共鳴、か」
その声は、どこか虚ろで感情の起伏が薄い。
彼女の名は、焔。 フレイマーの一員にして、“観測者”と呼ばれる女。
指先でくるくると回していたペンダントが、わずかに光を放った。
「夜水奏都、朝霞柚葉……ようやく“音”が動き出した」
その言葉に応じるように、ビルの縁にもう一人の影が現れる。
男は仮面をつけており、言葉少なに焔へと尋ねた。
「次は、どう動く?」
焔は一拍の間を置いて、静かに告げた。
「観察を続ける。彼の“音”がどこへ向かうのか……まだ、調律は終わっていない」
そして風の中に消えるように、二人の姿もまた闇の中へと紛れていった。