【9】美しい鬼の本性
空いている部屋の一つを借りたヒバナは、ツバキとともに部屋を整えた。
数か月前に辞めた下働きが使っていた部屋だ。大きさはヒバナの自室と変わらないが、荷や家具のない質素な部屋である。簡単な掃除を終えることには、夕方に差し迫っていた。
調理場から二人分の食事を貰ってきたヒバナは、ツバキと共に部屋で食べることにする。
なにせツバキの容姿は嫌でも目立つ。注目を集めることは必至だ。
特に彼は、今は居候の身である。〈夜鷹〉に従事しない彼が館内を闊歩するのは、まずトラブルの元だ。
ユツは忙しそうにしていたので、相談する余裕はなかったが、何か仕事を与えなければ……とヒバナは考えていた。
(とはいえ、彼にはどのような仕事が向いているか)
当然、暗殺業は却下だ。
だが、暗殺者として生きてきた彼に、下働きがこなせるか。いささか不安である。実際に部屋の掃除さえも不慣れなようだった。
「旦那様?」
じっと観察するように見つめる視線に気づいたのだろう。
食後の茶を啜っていたツバキは、おっとりと首を傾げて言う。
「だから、旦那様ではなく、ヒバナと」
「失礼。……ヒバナ」
「えっ」
「おや。ヒバナ、と呼ばれるのはお嫌ですか?」
「いや、すまない。驚いただけで、けして、嫌ではないよ」
唐突にヒバナ、と呼ばれて驚いただけだ。
だって彼は今まで、『ヒバナ様』と呼んでいたから。
いったいどうした心境の変化なのだろう。
ヒバナが訝しげにしていると、彼は傾国の美貌に眩むような笑顔を浮かべた。
「わたくしは、貴女と対等な夫婦になりたいのです、ヒバナ」
「だから、夫婦では……」
「まだ、ね」
途端に彼の雰囲気がガラリと変わる。
湯呑を置いた彼は、ずい、とヒバナに身を寄せた。
「ツ、ツバキ……?」
「ヒバナ。俺の愛しい『旦那様』。俺がこの世界で唯一、好きだと言える存在」
彼は容易くヒバナを硬い床に押し倒す。手首を押さえつけられながら、ヒバナはゴクリと息を呑んだ。
(目の前にいるのは、本当に、あのツバキなのか?)
ぞっとするような美貌は変わらない。むしろ、ぐっと色気が増したようだ。
夕焼けのような深みのある赤い瞳。
その瞳に爛々と劣情を抱いて、彼はヒバナを見下ろしている。
「早く、本当の夫婦になりたいね、ヒバナ?」
「待って、わたしは……」
「ああ、美味しそう。今すぐ食べてしまいたいな」
彼の美しい顔が迫った。熱くざらついた舌が、ヒバナのくちびるをペロリと舐める。
食べられる、とヒバナは本能で悟った。
(いや、良くない。流されては、良くない……)
「おい、ツバキ。お願いだ……やめてくれ」
「承知いたしました」
掠れた声で請えば、ツバキはあっさりとヒバナの上から避けた。
「旦那様の可愛らしいお願いですし、今日はここまでにしましょう」
(今日は? ここまで?)
それでは、明日はいったいどうなってしまうというのか。
混乱するヒバナを優しく起こすと、彼は耳元で囁いた。
「ヒバナ。わたくしの愛しい旦那様。お慕い申し上げております」
愛しい。お慕い。
またそれだ。ヒバナは呆れながら彼に注意する。
「あのな、ツバキ。愛とか、お慕いとか、君は軽々しく言うけれど……」
「おや、ヒバナ。悲しいです。わたくしの愛を疑うと言うのです? でしたら」
すると彼はヒバナの手を取って、彼のわずかに開けた胸元へと触れさせる。
突然何をするのだ、ふしだらな、とヒバナが言い返そうとするも――驚いた。
彼の心臓はバクバクと音を立てている。
(えっ?)
その心拍はあまりにも尋常ではない速さだ。
ヒバナはついつい心配になり、思わず訊ねた。
「お、おいツバキ。君は何か、心の病を抱えているのか……? 心臓が大変なことになっているぞ?」
「ふっ、ふふっ。ああ、ヒバナは可愛いなぁ……。病気? そうだね、恋の病だよ」
くすくすと笑い声をこぼしたツバキは、とろけるような甘い顔をして言った。
「この高鳴る心臓が、貴女を愛する証左。わたくしは貴女に触れるたび、こんなにも胸が痛くなるほど、貴女を想うのに」
「なっ」
熱烈な告白に、ヒバナは顔を真っ赤にする。
彼の顔は赤くも恥じらってもいない。だが確かに、心臓は強く激しく脈打っているのだ。
「ええ、痛いのです。ですが、心地よいのです。貴女を愛しているのだと、躰中で感じられるのだから」
ですから、とツバキは続けた。
「いずれ貴女も同じ痛みを感じてください。そして、わたくしを愛してください。その時初めて――俺たちは本当の夫婦になろうね。約束だよ?」
美しい鬼ツバキ。
嫋やかで、従順で、献身的な夫。あるいは、獰猛な獣じみた男。
いったい、どちらが彼の本性なのだろう。
分からない。
けれど確かなことは、ヒバナの心臓は不穏なほど、高鳴っていて。これがどんな感情を表すのか、考えるが恐ろしかった。
***
ああ美味そうな『餌』が来た、と『家無き者』は喜びを感じた。
高級娼館の裏通り――とはいっても裏手の方は雑多で、衛生に優れているとはいえない。
廃棄物が置かれ、腐臭の香る小路。
影も見えぬ同胞たちは、しかし暗闇の中で潜んでいる。誰が獲物を手に入れるか、牽制しあいながら。
何故なら小路には、綺麗な紺色の着物を着た人間がひとり立っていた。
黒く腰ほどある長い髪を白い組紐で結っている。
成人しているのだろうか。背はやや高く、か細く頼りない体躯に見えた。
若いことはかろうじて分かるが、年齢を見極めるのは困難だ。
(ヒヒッ。若くて、美味そうな、『餌』……)
十代か、二十代か。肌は白く、張りがある。
だが目元を何か白い布のようなものでグルグルと巻いていた。目元を隠すことで、獲物の性別や年齢が不確かになっていたのだ。
『餌』は武器も持たず、連れもいない。ここがその身ひとつでは、危険な場所だと分かっているのか。不便な視界ながら、薄汚れた小路を何かを探すように歩いている。
黒く美しい髪を頭皮ごと引き剝がせば、高く売れるだろう。見るからに仕立てのいい着物や履物も同じだ。
(白く柔らかそうな肉体……どこから喰らおう、か)
『家無き者』が密かに算段していると、『餌』は不意に足を止める。
己を狙う視線に気づいたわけではなさそうだ。『餌』はひとつの死体を前に、跪いた。綺麗な着物が汚れるのも、厭わないようだった。
死体は少し前に亡くなった、同胞のものだ。同胞の死体を回収しても旨味はない。
食べても腹を壊すし、最悪の場合、悪い病にかかるだけだと、『家無き者』たちは知っている。
だが『餌』は、死体をそっと抱き上げると、愛おしい恋人にするように、頬を寄せた。
『餌』の白く滑らかな頬が泥で汚れて、もったいないな、と『家無き者』は不満に思う。
「ああ、虚ろの可哀想な子。魂が、欲しいよね?」
『餌』は美しい声を持っていた。やはり、性別は不確かで。ああ、だとか、うう、だとか低く粘ついた声しか出せない『家無き者』たちとは違う。もし、声帯も売れるのなら……と賤しくも想像する。
「あげる。あげる。たくさんお食べ? 空っぽの肉体が満ち足りるまで、魂をお食べよ?」
『餌』は歌うようにして言った。
するとどういうことだろう。同胞の死体が、ピクリ、と跳ねた。
その異様な光景に、『家無き者』は思わず視線を奪われる。
黒毛の薄い額から突き出したのは、黒い角。それはグングンと勢いよく伸びていく。
カサカサに乾いたくちびるから、白く尖った歯を覗かせて。
骨と皮だけの手に生えるのは、研ぎ澄まされた刀のような黒い爪。
痩せ細った肉体は、奇妙にも厚みが増している。
(これは、まるで……)
『家無き者』は身を震わせ、歯をガチガチと鳴らす。
気づけば、美しい『餌』の姿は消えていた。
〈悪死鬼〉は、人間を喰らう。餌を求めている。
(それでは、彼奴が狙うのは……)
『家無き者』は口元を塞ぎ、懸命に息を殺した。しかし、生理的な震えと涙はどうしたって止まらないのだ。
瞳を閉じていたそれは、カッと目を見開く。
その瞳は血に濡れたように、不自然に赤い。
不思議なほど静まり返った小路で、〈悪死鬼〉の瞳がグルリと周囲を見渡す。
まるで飢えた獣が、『餌』を求めるように。
その赤い瞳と視線がぶつかって、『家無き者』は声にならない悲鳴を上げた。
そして、夜は訪れる。
長い長い夜の始まりだった。