【5】殺生鬼『紅焔』
「オイオイ、なんだってんだよぉ……。俺様の部屋の前で、イチャコラと美しい兄妹愛見せびらかしやがって。モテない俺様への当てつけか?」
(ユツ!)
ヒバナはパッと廊下を振り向いた。
視線の先には、ワシャワシャと明るい茶髪を掻きながら歩く男――ユツの姿がある。
助かった。本当に助かった。
ヒバナはさりげなくヴィオレットの躰を振りほどくと、ユツに捲し立てるように言う。
「当てつけるつもりはないのだ! 姉にぞんざいにされる君に、美しい兄妹愛を見せつけてすまない。兄上は愛情表現がいささか過剰でな」
「うーん、前から思ってたけどさぁ、過剰で済むレベルか?」
「多少行き過ぎているが……兄上はそれだけ、わたしを大切に想ってくださるということなのだ」
「うん。愛してるよ。私のヒバナ」
ヴィオレットはチュッと音を立てて、ヒバナの額に接吻を落とした。
勘弁してくれよぉと、いよいよ嫌そうな顔をするユツに、ヒバナは口にする。
「ユツ。お前を探していたのだ。実は困ったことになってだな……」
「あん? 困ったこと?」
ユツは基本的に、お人好しだ。あの子お人好しが過ぎるのよね、と彼の実姉ユノからも苦言を呈されるほどである。
ヒバナより一つ年上の十八歳。彼は男娼ではなく、裏方として働いている。料理の腕を見込まれて雇われているのだ。
絶世の美女である姉ユノに似て顔立ちは悪くねぇが、教養がない、発言が馬鹿丸出し、イイ女と見れば目の色変える、とてもじゃないが客前に出せたもんじゃねぇ――というのはサクヤの評価である。確かに口を開けば三枚目、というのがヒバナの忖度のない彼への評価だった。
しかし、気さくな性格や『副職』のおかげで、何かと伝手も多い。
何とかツバキの働き口も用意できるだろうとヒバナは見込んだのだ。
だが。
ヒバナは恐る恐る、ヴィオレットの様子を窺う。
「なあに?」
甘い笑みを浮かべる兄の前では、その悩み事を相談できない。
だから、この場は一旦、一時しのぎすることにした。
「実は、サクヤにおつかいを頼まれて……その、うっかり買ったものを途中で置いてきてしまったのだ」
「はぁ? またかよ。ヒバナって結構、ドジだよなぁ~」
「そういうところが可愛いんだよ。私のヒバナは」
「妹馬鹿も拗らせすぎると、逆に尊敬するわぁ」
感心したような、呆れたようにもとれる口ぶりのユツに、ヒバナは頭を下げた。
「ユツ頼む。わたしはこれから、用心棒としての仕事がある。だから、代わりに用立ててほしいのだ」
「んー頼れる俺様、力になりたいのはやまやまだけど、これから仕事で離れられねーし」
「調理場にグレン師匠の酒のストックがあっただろう? あれを何本かイイ感じに、ちょろまかしてほしいのだ。後で必ず補填するから!」
「あ~、うん。分かった。それくらいならお安い御用。けど……いいのか?」
歯切れの悪い口調で、ユツが問う。
ヒバナは自信満々に頷いた。
「支障ない。あの人が勝手に持ち込んだのだ。明日にでも戻せば、バレやしないさ」
「……もしバレても、俺様知らねーからな?」
それでも助かる。ヒバナは丁重に礼を言って、仕事場に向かうユツの姿を感謝の心で見送った。
〈夜鷹〉の開店も近い。だから、ヒバナも仕事に向かわねば。
歩き出そうとするヒバナを遮るのは、ヴィオレットだった。
「……兄上?」
「私の可愛いお姫様にお使いだなんて、サクヤはひどい雇い主だね」
「そうだよな。わたしは用心棒なのに。小間使いではないのだぞっ」
思い出すとちょっとムカッとする。
ヒバナがくちびるを尖らせて言うと、ヴィオレットは細長い指先をヒバナのくちびるに宛てた。
「? うぁにうぇ?」
「私の可愛いヒバナ。兄と妹の間に、秘め事はあってはならないよ?」
甘い甘いおねだりに、しかしヒバナの躰はピシリと固まった。
「続きは仕事の後で。私の膝の上で、事細かに教えておくれ?」
妹にとびっきり甘い兄は、心の底を見透かしているのだろうか。
彼はヒバナの頭を軽く撫でると、その場を後にした。
これはいよいよ、誤魔化しようがない。
さてどう言い訳したものか。残されたヒバナはひとり、天を仰いだ。
***
「太陽を見つけられたら、旅人は安息を得るだろう~……」
ヒバナは歌うのが好きだ。
憂鬱な気持ちを吹き飛ばして、鼓舞してくれる。そう思えるからだ。
そして、魔術の鍛錬にも繋がる。
いまひとつ物覚えの悪いヒバナは、魔術式を『歌』として覚えるよう、師匠に徹底的に叩きこまれたのだ。
「月の魔物の仮面を剥がし、進め、楽園へと~……」
昔、ヴィオレットが歌ってくれた唄を口ずさみながら、〈夜鷹〉の屋根の上で、ヒバナは胡坐をかきつつ、まったりと夜を過ごしている。
屋根の上から見える人の流れは、大河のように轟いていた。
毎夜眺める景色だ。人の波が途絶えることは決してなく、常に流動する。それこそ、人々はもみくちゃに揉まれながらも、目的の地へと向かうべく波の中を彷徨い歩くのだろうか。
見上げれば、月は遥か天頂で青白く滲む。負けじと、地上の明るさは彩とりどりに咲き誇っている。
深夜はとうに過ぎていた。
それでも街は、未だ眠らない。それは東都が『夜の街』だから。
街が眠りにつくのは、月が隠れ、日が天頂で輝いている、そのときだけなのだ。
(夜に眠らない街――か)
明るさに目が冴えて、眠気はすっかりと吹き飛んでいる。
屋根の上にいれば、喧騒に呑まれながらも、窓から漏れ出るすべての音がヒバナの耳へと届く。誰がどの部屋にいるか、ヒバナは理解したうえで、〈夜鷹〉の最頂点で、下界を見る。
窓を有事の出入り口とするヒバナのために、サクヤは窓を開けるよう、娼婦たちに命じている。
時には喘ぎ声も聞こえるが、ヒバナもいい加減、羞恥を覚える年齢ではない。時には楽しげに歓談する声も聞こえてくる。どうやら今日も、異常はなさそうだ。
街の雑音と、混じる甘い嬌声。
(このまま平穏でありますように。今夜も頼むぞ、神様)
天頂で瞬く星に、らしくもない願掛けをする。
だが、世の中というものは、そうそううまくできてはいないらしい。だからこそ困りものなのだ。
「――いやぁ!」
ヒバナの後方から、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
ヒバナは歌うのを止め、気持ちを切り替えると、屋根の上を駆ける。それから、悲鳴が聞こえたベランダへとフワリと飛び移った。
ベランダ沿いに、部屋の様子をこっそりと窺う。
服をはだけさせた娼婦に、中年の男が抱き着いているのが見える。
「マツリィ、僕と一緒に、死んでくれよぉぉぉ」
どうやら、客人は娼婦と心中を目論んでいるらしい。
だいぶ酔っているのだろうか。客人の顔は赤ら顔だ。
彼に抱きすくめられた娼婦は、恐怖からだろう、真っ青な顔色でカタカタと震えていた。
(なんと卑劣な男かっ……!)
ヒバナの頭に、カッと血がのぼる。
〈夜鷹〉の娼婦や男娼は、ヒバナにとって、家族も同然。
そんな彼女たちが傷つけられることは、度し難い。
ヒバナは脇差に手を伸ばしつつも、部屋に押し入る。
「その手を離せ。下衆が」
「……なんだぁ、お前?」
ベランダからの闖入者に気づくと、客人――狼藉者は濁った目線を向ける。
それがまだ若い『少年』の姿と認識して、男はフン、と鼻を鳴らす。
「目障りなガキの分際で、僕とマツリの、愛を邪魔するなぁ!」
男はどこからか短刀を振り回すと、娼婦の白い喉元に突きつけた。
娼婦はヒィ、と哀れにもか細い悲鳴を上げる。
これにはヒバナもギョッとした。
「貴様、何故武器を持ち込んでいるんだ……!?」
〈夜鷹〉では武具の類の持ち込みは禁止され、所持品を厳しく検められる。
入念なチェックをかいくぐり、密かに持ち込んだというのか。
いや、今はそんなことを考えている場合ではないと、首を振る。
ここでヒバナが下手な行動に移せば、彼女の細い首は容易く切り裂かれるだろう。
(失敗した……)
ヒバナはくちびるを噛みしめる。娼婦の悲鳴に惑わされ、いささか冷静さを欠いていた。
ただ錯乱した男程度であれば軽くいなせるが、武器を手に人質に取られては、どうにもやりづらい。
(使いたくはなかったが、奥の手を使うか?)
奥の手は奥の手だ。できれば、使わずに解決したい。
躰に負担はかかる。それ自体は大した問題ではない。
〈夜鷹〉に身を置くために、使うことを封じたのだ。
――それはヒバナが『化け物』になってしまうから。
迷ったのはほんの一瞬だった。
刻もわずか。ヒバナの頬に、ピチャリと熱い何かが飛び散る。
ヒバナは目をパチパチと瞬かせて、頬を拭う。
指にぬめりつく。熱い。何だこれは。
赤い。
血だ――鮮血だ。
見れば、短刀を持った男の指先がない。切り落とされたのだ。
ヒバナが〈悪死鬼〉の首を切り落としたように、鮮やかな手口だった。
(……いったい、誰が)
男は悲鳴を上げて、ずるりと崩れ落ちる。
男から解放された娼婦は目を見開いて、ヒバナの背後を見つめていた。
「愛しい旦那様。どうか、貴女の御身は、わたくしに、守らせていただけますか?」
ヒバナの躰をスルリと背後から包むのは、意外とたくましい腕。
誰だ。考えずともわかる。
だって彼は、声すら美しい。
声の主は。ヒバナが拾った、ヒバナを旦那様と呼ぶ、美しい男だ。
彼は力ない存在だったはず。
けれどどうして。ヒバナの躰は恐怖から震えているのだろうか。
「もう、何も恐ろしくはございません。貴女を脅かす存在は、退けました。ですから、安心してください」
いつかヒバナが、彼を安心させるように言った台詞を口にして。
けれどその暖かさは、まるで真逆ではないか。
「…………ツバキ。君は、本当は、何物だ……?」
「名は、ありません。過去とともに、捨てましたから」
美しい鬼は、ヒバナに頬をすり寄せて、囁く。
「あえて、かつての身分を名乗るとすれば。わたくしは暗殺者集団〈黒卿のしもべ〉、殺生鬼のひとり、『紅焔』」
ですから、と彼は力強く抱擁する。
その白い手に不似合いな小刀を握りしめて。
「愛しい愛しい旦那様。貴女がわたくしを救ったように、今度は、わたくしは貴女の命を守りましょう?」