【3】お父様の必死のお願い
「わたしたちが、警邏隊に入るだって!?」
ヒバナはギョッとして声を張り上げた。そんな話、そもそも持ち掛けていない。
(もしかして、ユツやサクヤが手を回していたのか?)
だとしても何故、ヒバナも。
確かにツバキは現在職を求めているが、ヒバナには用心棒としてのお役目がある。
柔らかい雪がフワリと積もる裏庭にドカリと腰を下ろしたグレンは、寒さを物ともせず口にする。
「なあ、ヒバナ。我は長年、騙されていたんだ……」
どこか哀愁漂う口ぶりに、ヒバナはものすごく、嫌な予感を覚えた。
「だ、騙されたって、何のこと?」
「我の酒をくすねる盗人がいてな。大陸から取り寄せた貴重な酒が、幾度となく安酒にすり替えられていたのだ。我はそれがサクヤのしわざだと、長年思い込んでいた。だが、真犯人は別にいた」
「……」
「何度取られたか。覚えているぞ。その被害額もな」
身に覚えがありすぎる。これから続くであろう断罪を予見し、ヒバナはビクビクと身をすくませた。
寒さによる震えと勘違いしているのか。ツバキはそっとヒバナを包み込むように抱いた。
「子の不始末は親が責任を取るべきだと問い詰めれば、彼奴から『躰で返済する』と言質を取った。つまり、そういうことだ」
「……サクヤが身売りすると言ったのか?」
「いや、子を売ると言った」
「……」
「金に困り子を売る。ああ、世知辛い世の中だな。ヒバナ」
つまりはしばらく無償で、ヒバナは働かなければならないらしい。
身から出た錆なので、文句を言うとしたら、過去の自分だ。
「ふふっ。一緒に働けて嬉しいです、ヒバナ」
ニコニコと笑いながらツバキは言うが、ヒバナはしょんぼりと項垂れるしかできなかった。
とはいえ、ヒバナが撒いた種ではある。その返済にはヒバナの責任が問われるだろう。
「……わかった。いつから警邏隊として働けばいい?」
どんなに悲観的な状況であっても、切り替えの早さはヒバナの長所だ。
訊ねれば、しかしグレンは困ったように眉を寄せた。
「我としては、今すぐにでも手足として使いたいのだぞ? だが、警邏隊の入職には厳しい審査が待っている。我の口添えがあろうと、孤児のヒバナやツバキが突破するのは、まず厳しいだろうな」
「暗部を担う、暗殺者としても?」
おっとりと首を傾げながらツバキが問うと、グレンはくしゃりと顔を顰めた。
「ツバキ。貴様が殺生鬼の身分を明らかにすれば、諸手を上げて迎え入れられるだろうな。だが、二度と陽の元には出られまいよ。愛しい旦那様との離別の覚悟があるのか?」
「それは嫌です」
ツバキは即答し、ギュウと拘束を強めた。
「わたくしは生涯ずっと、旦那様を離しません故」
「はー。我が娘は愛されているな」
紅蓮の冷やかしをヒバナは笑って流した。
無論、ヒバナとて彼だけに辛い思いはさせたくない。彼の腕に手を添えながら口にする。
「しかし、あのユツの力を持ってしても、綺麗な戸籍を手に入れるのは難しいぞ」
情報通であるユツは伝手が多く、戸籍を手に入れることは朝飯前らしい。
だが、国を騙すほどの戸籍となれば、難易度は格段に跳ね上がる。
「幸いと言っていいのか、警邏隊は人手不足でな。公的に実力さえ示せれば、緩い条件で入隊が許されるだろう」
「公的に、実力を示す?」
鸚鵡返しに繰り返すヒバナに、グレンは挑戦的な視線を向けた。
美しい緑色の瞳が子どものように輝く時――大抵は嫌な予感しかしない。
「できぬ、とは言わせないぞ。我が弟子ヒバナと、その夫ツバキよ」
ツバキは夫ではない、と口にしかけて飲み込む。
そんなこと、今は些末な問題なのだ。
「しかし、どうやって?」
「近々、東都で武術大会が催される。何も優勝せよとは言わぬ。そうさな、上位の優秀な成績を残しさえすれば、その実力を買って、警邏隊に迎え入れられるだろうな」
東都中の武人が競って集う武術大会が毎年行われているのはヒバナも知っている。当然、出場者はいずれも強者揃い。
娼館の用心棒なんて、霞む経歴だ。
「我は貴様が勝つと信じているよ。しかし、万が一もある。負けたら躰ではなく、金で払うのだぞ?」
幼い頃から母のように厳しく躾けてくれた彼女は、やはり血も涙もない。
「……なんとか勝ち上がろうな、ツバキ」
ヒバナにはそう呟くのが精いっぱいだった。
***
情事を前に整えられていた寝台は、グシャグシャに乱れていた。
乱れた寝台に横たわるのは二つの裸体。
娼婦ユノ。そしてユノの一夜を買った、客人だ。
「愛しているよ、ユノ……」
客人は裕福な商家の息子だ。淡い金髪と紅茶色の瞳の青年は、大陸の出なのだろう。
彼は汗ばんだ躰でユノを力強く抱きしめて、耳元で囁いた。
(愛してる、ね……)
対して、ユノは冷めていた。
ユノを『愛する』客は、いくらでもいる。彼はその金蔓の一つでしかない。
義理を果たすようそっと抱きしめ返せば、しかし彼は真剣な眼差しで口にする。
「ユノ。……僕は君を、身請けしたい」
「……」
いずれ、この日が来ることが、ユノだってわかっていた。
〈夜鷹〉でも人気の娼婦ユノ。ユノの指名が途切れることはない。
だがユノも今年で十九歳になる。この仕事を続けるのは難しいと、いつの頃からか思い始めていた。
〈夜鷹〉は春を売る店だ。だが、ユノの芸事を気に入って買ってくれる人もいる。
色恋のない、つまらない話をするだけで、満足する者もいる。ここを何だと思っているのかと、ユツは呆れているが。
そろそろ潮時なのかもしれない。こうして求められるうちが花だ。そう思いつつも、ユノは彼の物になるのは嫌だ、と思ってしまった。
(馬鹿ね、あたし。これからのことを思えば、彼の手を取るべきなのよ)
それでも脳裏にちらつくのは、別の男の姿。
泣きそうな、だけど温かい笑顔を浮かべては、手放し難いと思ってしまう。
きっと、ユノにとって、初恋だった。
(でも、娼婦の初恋なんて、叶うわけないもの)
ユノは客人の躰をギュウと抱きしめて、けれど、最後に抵抗するように、口にする。
「あたしは、強い男に惹かれるの」
いつだったか、食事を摂っているときに、弟が興奮気味に言っていた。
『近頃、お貴族様主催で、武術大会が行われるんだぜ! 優勝者には、世にも貴重な宝物が贈呈されるんだって! あの、『白百合の乙女』に送られた、簪を手に入れる、滅多にない機会なんだよ!』
正直ユノは話半分に聞いていたが、いい機会だ。客人の胸に頭を預けながら、ユノは強請るように口にした。
「あたしを愛しているなら、東都で一番の男である、印を見せて? そうしたら、あたしのこと好きにしていいから」
褥での密やかなやり取りは、何故か、瞬く間に広がった。
それは、不本意な尾ひれを付けて。
――武術大会で優勝すれば、あの高級娼婦ユノを身請けできる。
権利、という部分が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。
当然、その噂を耳にして、金にがめつい主が黙っているはずはなかった。
***
武術大会を目前にして、ヒバナはサクヤから呼び出しを受けていた。
呼び出しを受けるのは珍しいことではないが、ヒバナにその心当たりはなかった。
何か、しでかしただろうか。あれ以来、師匠の酒をちょろまかす真似はしていないし、用心棒としてのお役目は果たしているはずだが。
何故かともに呼び出されたツバキとともに長椅子に座ると、サクヤは目と目の間の皺を揉みながら、溜息をこぼした。
「ヒバナ。ツバキ。テメーら、武術大会に出るんだよな?」
「ああ」
警邏隊に入るために、武術大会で実力を示す必要があるとは、サクヤにも伝えていた。
ヒバナが頷けば、サクヤは血走った目で、端的に命令する。
「優勝しろ」
(そんな無茶な)
ヒバナは耳を疑いつつも問い返す。
「サクヤ。今、優勝しろと、言ったか?」
「ああ」
「……本気か?」
「この俺が冗談を言ってる顔に、見えんの?」
「いや、見えないが……」
するとサクヤは大真面目な顔で続けた。