【2】紅蓮の雪女
「ヒバナは、我が最も心血を注ぎ、身骨を砕き育て上げた、娘だ」
むん、と仁王立ちになったグレンが、草むらに土下座するヒバナとツバキをギロリ、と見下ろした。
グレンは女だてらに警邏隊第一部隊長を務める武人であり、ヒバナの剣の師匠である。
彼女は派手な美人だ。細い眉を吊り上げ、緑色の瞳を爛々と怒りに燃やせば、躰が震え上がるほどの迫力がある。ヴィオレットのネットリとした静かな怒りとは正反対だ。
「ヒバナ。我は貴様の母も同然。しかし何故、結婚の報告がない。そも、恋人を匂わせもしなかったではないか?」
「……け、結婚はしていないし、彼は何というか……」
よくよく考えれば、ツバキとの関係性を適切に言い表す言葉が見つからない。
世間一般で言われる恋人という枠組みとは、また違うように思う。愛に飢えた獣が一人前の人間になるまで、面倒を見る。それはどちらかと言えば、親のようにも思えるけれど。
ヒバナがなんとか言葉を探していると、ツバキは傾国の美貌に華やかな笑みを浮かべて言った。
「なるほど、なるほど。お母様でしたか。挨拶が遅れ申し訳ございません。わたくし、名をツバキと申します。ヒバナはわたくしの旦那様で、愛するお方」
「『旦那様』、だと?」
不快そうにグレンは繰り返す。
「ええ。わたくしに愛を教えてくれた、唯一のお方です」
「愛」
「ええ。ふふっ。昨晩もヒバナの腕に抱かれ、たくさん、愛していただきました」
恥ずかしそうに口にするツバキに、途端に殺気が向けられる。
「ま、待ってくれ。誤解だ、師匠!」
ヒバナは慌てて割って入った。ツバキの言葉には語弊がある。彼もあえて、誤解するように言っているのだ。
確かに、「一人で眠るのは寂しいので、共寝をしても?」とモジモジ可愛らしく強請られてしまい、何もしないなら……という条件付きで、彼と寝台をともにしたが。
彼を胸に抱きしめて寝た。それ以上のことは誓って、何もしていない。
当然、兄には秘密である。
「わたくしを抱くヒバナの心音は激しく高鳴っていました。ヒバナ、わたくしが貴女に焦がれて胸を熱くするように、貴女もわたくしを想ってくださったのでしょう? ……ああ愛おしくてたまらないよ、俺のヒバナ」
「お、俺のって、ツ、ツバキ!?」
ヒバナは顔を真っ赤に染めて、くちびるをわななかせた。
ツバキはたまに、丁寧な口調を崩す。自らを俺と言う。その二面性に、ヒバナはまだ慣れていない。
そしてこっちの方が、より甘えん坊なのだ。
「ねえ。さっきの続き、しようよ」
「つ、続き……?」
「うん。くちづけして? 恥ずかしいけど、頑張って目、開いてる。愛するヒバナだけに、俺の瞳、一番近くで見せてあげるから」
狼狽するヒバナの手を取り、頬に摺り寄せるツバキは、もうすっかりヒバナのことしかその赤い瞳に映らないようだ。
「し、師匠……」
引き攣った顔でグレンを見上げれば、彼女は気難しい顔で黙り込んでいた。
「そうか」
やがてフゥと絞り出すようにして息を吐いてから、彼女は呟いた。
「確かに、愛する者を得て、人は強くなる。ヒバナ。我の強く愛しい弟子。貴様はまた、強くなるのだな」
「ええ。わたくしの旦那様は、とても強いのです」
ウンウンと自慢げに頷くツバキに、グレンは冷たい声で応じる。
「我がヒバナのつがいに相応しいのは、強者のみ。最強の一角と名高い我、警邏隊第一部隊長を越えられる存在でなければ、ならぬ」
「わかります。それはこの東都では……いや、大陸中を探してもわたくしくらいしか、いないでしょう?」
強気にも豪語するツバキと、凍てつく視線を向けるグレンとの間に、バチバチと火花が散っているように見えるのは、きっと気のせいではない。
グレンは太刀を引き抜くと告げた。
「小僧。たいそうな自信だな。それでは、我にその実力、示してみろ」
***
勝敗の結果で、物事を決めるのはわかりやすくて、よい。生粋の武闘派であるヒバナも同意する。
だが、片や警邏隊第一部隊長。片や殺生鬼。
その私闘が無事に終わるわけがない。
「師匠。そのな。わたしが誰といようが、それはわたしの自由だよ」
ヒバナは立ち上がり、毅然として言い張れば、グレンは口の端を持ち上げて笑った。
「黒髪赤目の美鬼。彼奴は〈黒卿のしもべ〉の殺生鬼の生き残りだろう?」
「ああ」
おそらくサクヤかユツ、あるいはヴィオレットあたりに聞いたのだろう。
ヒバナは否定せず、素直に頷いた。
「警邏隊第一部隊長として、かの殺生鬼を野放しにするわけにもいかぬのでな。その実力、見極めさせてもらう」
「見極めるって……」
不安になって口にすれば、グレンは不敵な笑みを浮かべて言った。
「安心しろ。今はただ、実力を測るだけだ。噂に聞く殺生鬼はかねてから、腕試しをしたいと願っていたからな」
つまり、ヒバナの夫に相応しいか試す、というのはこじつけで、強者と剣を交わしたいだけの話なのだ。
確かに、ただ戦いを挑んだところでツバキは応じなかっただろう。
(今は、というのが引っかかるが……)
ヒバナがツバキを見下ろせば、彼はニコリ、と微笑んで口にする。
「安心してください。ヒバナ。わたくしは只の人間に、負けはしません」
「ふん。ほざけ。我も殺生鬼ごときに、遅れをとらぬよ」
口の減らない応酬に、まったくもって、安心要素がない。
ヒバナがハラハラとしている間に、起立したツバキとグレンはほどよい距離を取り、対峙する。
ヒバナは十歳を数える前から、武術の稽古をうけている。だから、グレンの本気が手に取るようにわかった。
とにかくやる気と殺気が漲っているのだ。
向かい合うツバキはおっとりとした微笑を浮かべている。殺気こそ感じられないが、狙った獲物を逃さない、どこか獣のような気迫があった。
「あっはっは。殺す気で立ち向かってこい。我の刀で愛してやるぞ?」
「御冗談を。わたくしを愛していいのは、ヒバナ、愛する旦那様だけです」
「ほう? 貴様に最後まで意識があれば、その戯言の続きを聞いてやろう」
口にしながらグレンは太刀で素早く切りかかる。
早い。そして真剣を手にしながら、一切の遠慮がない。
ツバキは暗器を得意とすると、ヒバナには思い込みがあった。しかしなるほど、暗殺者。脇差もうまく扱えるようだ。
(これは圧倒させられるな……)
二人が刀を交わすその動きは剣舞のようで、ヒバナはこれが私闘であることを忘れ、思わず見惚れてしまった。
ツバキはわかりやすく急所を狙うが、グレンはそのいずれも跳ね除けている。
何度か刀を打ち合ったのち、二人は距離を取った。
激しい動きをした後なのに、互いに呼吸は落ち着いている。グレンはフハッと息を吐いて笑った。
「ふん。殺生鬼。貴様、なかなかやるではないか」
「お母様も、さすが警邏隊の隊長を務めるだけはありますね」
「ははっ。まだ、実力の半分もみせてはおらぬよ」
グレンは緑色の瞳を細めると、すう、と息を吸い込んだ。
それから、彼女は伸びやかな声色で、歌うように祝詞を口にした。
雲一つない、乾いた秋空に、しんしんと雪が降り積もる。
――氷の魔術だ。
見た目は燃える炎のようで、激しい気性を持つグレンだが、得意とする魔術の属性は氷である。
〈紅蓮の雪女〉。優れた氷の魔術師である彼女につけられた、ふたつ名だ。
(雪……)
ブルリと身を震わせて、ヒバナはツバキを見る。ツバキは寒いのがあまり得意ではない。だって夜眠る時も、「寒いのでヒバナの体温で暖めてください」とひっついてくるのだ。
心配になったが、彼は平然とした様子だった。
さすが殺生鬼。ヒバナは感心した。生きるか死ぬかの戦いとなれば、窮地において環境に左右されないらしい。
しかし、ただ雪を降らせるだけでは勝負はつかない。
彼女の魔術の真髄はここからだ。
祝詞が終わる。生み出されたのは氷の剣が六本。グレンの身を護るようにクルクルと周遊していた剣は、彼女が手をスウ、と伸ばした途端に、一斉にツバキに襲い掛かる。
「なるほど、なるほど……」
ツバキにはまだ余裕が見えた。
彼は何事か小さく呟くと、さっと軽く脇差を一振りする。
すると、氷の剣はすべて打ち砕かれた。
ヒバナはバラバラになった氷の塊に視線を注ぐ。その断面はわずかに濡れていた。
おそらく、炎の魔術を使ったのだろう。
(殺生鬼『紅焔』……。なるほど、その名は魔術の才を示していたか)
氷の魔術と炎の魔術は、やはり炎が圧倒的に有利だ。だが両者とも未だに、本来の実力を出し惜しみしている。
(まだ、やるか?)
吹雪ながらも、躰はじっとりと汗をかいていた。手をギュウと握りながら、ヒバナはただ戦いの行く先を見守ることしかできない。
しばらくして、グレンは刀を納めた。
「おや、もう終わりですか?」
そう言いながらも、ツバキは脇差を腰に戻す。
グレンはああ、と頷いて続けた。
「ああ。貴様の実力は十分に知れた。合格だ。殺生鬼。いや、ツバキよ」
「つまり、わたくしをヒバナのつがいとして、認めていただけると?」
「うむ」
それから彼女は満面の笑みを浮かべると、告げる。
「ヒバナ。ツバキ。貴様ら二人を、我が警邏隊に迎え入れよう」