【1】甘い新婚生活
秋の空はカラリ、と晴れていた。
汗をかいて火照った躰に、乾いた風が心地よい。
グレンは水をグビグビと飲みながら、一息ついた。
(どいつもこいつも、弱すぎる)
警邏隊の訓練場。土の地べたに胡坐をかくグレンの目の前には、累々と戦闘不能となった隊員たちの哀れな姿があった。
警邏隊は東都を守るのが仕事だが、任務がない時は、こうして訓練に明け暮れている。
警邏隊第一部隊長グレンは、自ら隊員への戦闘指導を行っていた。
できれば書類仕事のほうも片してほしい……と懇切する副隊長は真っ先にブン殴った。彼は訓練場の片隅で、白目を剥いて伸びている。
(もっと、強い人間が必要だ。それと『器用』な人間が)
東都はその土地柄、非常に治安が悪い。
ただの人間を相手にするなら、グレンひとりで十分だ。しかしこの地には、〈悪死鬼〉のような化け物が出没する。
〈悪死鬼〉。それは自然に生まれた化け物ではない。
『呪術師』と呼ばれる外道術師によって、生み出された兵器。死体に〈呪術〉を施すことにより、〈悪死鬼〉は作られる。
『呪術師』は東都が『夜の街』となる以前から名を知らしめていた魔術師――〈白夜王〉末裔の子飼いだ。警邏隊は〈白夜王〉の末裔、及び『呪術師』を追っているが、その行方はつかみ切れていない。
先日『呪術師』のひとりを捕縛したが、うっかり殺してしまった。
不慣れな拷問をして聞き出そうとしたが、その前に彼の者は自害してしまったのだ。
(後ろ暗い仕事をさせる専門家たちはいるものの、数が不足している……)
警邏隊はおおっぴらに裏方作業の専門家を抱えてはいない。
例えば〈黒卿のしもべ〉の殺生鬼のような存在を、必要な時に借り入れていた。だから〈黒卿〉の存在は暗黙の了解として許されていたのだ。
しかし〈黒卿〉が死した今となっては、その頼りの綱、殺生鬼も頼れない。
(ああ、強く美しい殺生鬼。ひとりくらい引き抜いておけばよかったなぁ)
後悔するも、後の祭りだ。そも、忠誠心に厚いとされる殺生鬼が〈黒卿〉を裏切るはずがない。
どうしたものか。グレンはお上ともども、しばらく前から頭を悩ませていたのである。
「グレンさぁ~ん!」
頬に手を当てて溜息をつくグレンに、気さくに声をかける者がいた。
明るい茶髪を後ろでひとつにくくった青年だ。
隊員が転がる訓練場を遠慮なく歩くのは、高級遊郭の一帯に構える娼館〈夜鷹〉の料理人こと、ユツだった。
「ああ、よく来たな、ユツ」
ユツは幼い頃から面倒を見ているこどものひとりだ。グレンはにっこりと笑顔を浮かべて歓迎した。
「グレンさん、どーも。これ差し入れ!」
彼はゴソゴソと風呂敷を解くと、料理を次々に差し出した。
ユツの料理は美味い。ちょうど腹も減っていたので素直に嬉しい。
だがこれは絶対に裏がある。グレンの直感が語っていた。
何故なら彼は、サクヤが抱える情報屋でもある。
(先日、酒が入って愚痴をこぼしたが……余計なことを話しすぎただろうか?)
「ユツ。おまえ、何か詮索を考えているのか?」
握り飯を片手にグレンが率直に切りこめば、彼は困ったように頬をかいた。
「詮索じゃあない。警邏隊、人手不足らしいだろ。その……裏方仕事とか特に?」
「ああ、そうだが」
「今ウチでちょっと持て余してるやつがいるから、働かせてくれないかなー? って」
なるほど、願ってもない話だ。
グレンはその話に乗ることにした。
「はーん。そいつは拷問が得意か?」
「暗殺と死体の処理と、毒に通じてるとは聞いてるが、たぶんできると思うぜ。なんせ殺生鬼だからな」
「ほう。殺生鬼に生き残りがいたのか」
これにはグレンも目を見開いて驚いた。
〈黒卿〉の政敵であった高位貴族シノノメ。黒い噂が絶えない彼は、裏で『呪術師』と組んでいたらしい、
〈黒卿〉の館に〈悪死鬼〉を放ち、主ともども彼の手の者を根絶やしにした。残るのは食い散らかされた、人間の死体ばかり。
死滅したと彼の件は片付けられたが、まさか、生き残りがいたとは。
「なあ。その殺生鬼は、男か? 女か?」
「男だけど」
何となく察したような顔のユツは、先んじて言った。
「残念ながら妻帯者だよ。新婚アツアツだから、手を出さないでくれよ」
(ふむ。人の者に手を出すのは良くないな)
性に奔放なグレンだが、流石に良識はわきまえている。
ともあれ、殺生鬼は強くて美しい。機会があれば、味見したいと考えていた時期もあったのだが。グレンは握り飯を頬張りながら、口にする。
「しかし殺生鬼とつがいになるなど、奇特な人間もいるものだなぁ……」
「……その奇特な人間、あんたが可愛がってるお弟子さんだよ」
「ん?」
この男、今何と言ったか。
片眉を跳ね上げたグレンに、楽しげな笑いを浮かべながら、ユツは言う。
「あんたの大好きなヒバナが、その殺生鬼の『旦那様』になったんだよ」
***
娼館〈夜鷹〉の裏手には、足の短い雑草が生い茂る裏庭がある。
〈夜鷹〉の若き用心棒ヒバナは、夜の仕事の前に、ひとり訓練をするのが日課だった。
幼い日に〈夜鷹〉の主サクヤに拾われ、以来〈夜鷹〉はヒバナの帰る家となった。
だから、〈夜鷹〉の皆はヒバナにとっての家族。
大切な人たちを守れる、強い存在となりたい、それがヒバナの胸に抱く想いだ。
「ふふっ。ヒバナ。愛しい旦那様。お慕いしております」
「ああ、うん……」
「ヒバナ。わたくしをもっと、愛してくださる?」
しかし、漲るやる気を削ぐ、甘い誘惑。
日中からピッタリと張り付き、愛をねだるツバキに、ヒバナは正直辟易としていた。
「なあ、ツバキ。訓練したいから、少し離れていてくれないか?」
眉尻を下げてお願いを口にすれば、傾国の美貌の青年は悲しげな表情を形づくる。
彼の輝かんばかりの笑顔にも弱いが、今にも泣きそうな顔。これこそが特にヒバナの弱点だった。
そして彼はそれを知っていて、やっているのだ。完璧な悪い男である。
「ああ、わたくしのヒバナ。つれないことを。わたくしたち、新婚ですよね?」
(婚姻関係ではないが)
ヒバナの心を読んでか、彼は続けて言う。
「だってヒバナ。貴女はわたくしとともに生きて、愛してくださるとおっしゃった。わたくしだけの旦那様なのですから」
蕩けそうな笑顔を浮かべるのは、黒髪赤目の美貌の鬼、ツバキ。
かつての名を、殺生鬼『紅焔』という。東都の高位貴族〈黒卿〉に飼われていた暗殺者だ。
主と仲間を喪い、人売りに攫われた彼を助け出したことで、ヒバナは『旦那様』として敬われていた。どうやら愛に飢えていたらしい彼は、恩人であるヒバナに恋をしてしまったのだろう。
自由が許されなかった彼に、新たな生き方を提案したのはヒバナだ。
――わたしに尽くせ。わたしを愛せ。その見返りに、……愛してやろう。旦那様であるこのわたしがな。
そして、彼はその言葉に従い、隙さえあれば、ヒバナの『愛』を貪欲にも得ようとする。
(だが、『愛』とは何だろう……)
家族に向けられる『愛』をヒバナは知っている。兄ヴィオレットや、父親のようなサクヤが向けるそれだ。
だが、ツバキが求める『愛』はそうじゃない。恋人や夫婦に向ける情愛だろう。経験が圧倒的に不足しているヒバナは、手探りに彼に『愛』を与えているけれど。
「なあ、ツバキ」
「はい。ヒバナ」
「お望み通り、愛してやろう。くちづけても、いいか?」
すると彼は顔を真っ赤にしてコクコクと頷いた。
(愛して欲しいと、君が強請るくせに……)
いざ愛そうとすると恥ずかしそうにする。これが演技ではなく、素であることをヒバナはよく知っている。
愛を願い、大胆に口にするわりに、根っこは初心なのだ。だからつられて、ヒバナも気恥ずかしくなってしまう。
「す、少し、かがんでくれるか?」
「はい……」
ツバキは背が高い。彼は長い躰を折る。
それでも足りないので、ヒバナは踵を上げて、ツバキの白い頬を両手で包み込む。
「……目を、閉じるのか?」
「……だって、恥ずかしい、です」
「む。わたしは君の美しい瞳を、一番近くで見たいのだが」
「…………もう。しかたないですね。ヒバナが、望むなら」
長い睫毛が瞬き、赤い瞳が僅かに潤む。
ヒバナが赤いくちびるに触れようとしたその時。
――殺気とともに、氷の槍が飛んできた。
(敵襲か!?)
ヒバナはツバキを抱きしめ、柔らかい地面をコロコロと転がった。
少し離れたところに、氷でできた槍が突き刺さっている。ちょうど、ツバキが立っていたあたりだ。
あれで貫かれれば、いかに最強の殺生鬼である彼でも、命はないだろう。
「怪我はないか、ツバキ!?」
「ええ、ヒバナは」
「支障ない」
思えば、以前にもこんなことがあった。
ツバキと同衾した朝のことだ。だが、あの日槍は飛ばなかった。霜が降った程度だ。
氷の魔術は兄ヴィオレットが好んで使う。
そして、彼の師匠である彼女が最も得意とする戦技。
「我の可愛いヒバナ。我は貴様の嫁入りを許さん」
裏庭の草を踏み分けながら、凛々しい声で口にするのは燃えるような赤毛の美女。警邏隊の制服を身に纏い、腰には立派な拵えの脇差と太刀を差している。
「グ、グレン師匠……!?」
警邏隊でも最強と名高い、第一部隊長でありヒバナの師――グレンその人だった。