【幕間】『呪術師』
月は高く、夜も深い。
平楼京東都の高級娼館が建ち並ぶ通りから遠く離れた地に、その廃屋は存在する。
以前は高位貴族が住んでいたのだろう。主を失って以来、長年館の手入れはされていない。
そのため、『悪い魔物』たちに目をつけられてしまった。
土で汚れた畳の一室。屋根板が外れ、月明かりが差し込んでいた。
そこには二人の人間の姿がある。
一人は狐の面を被った、十代なかほどと思える小柄な少女だ。
赤く派手な着物を大胆に着崩して、胸元や太ももを惜しげなく曝け出している。その細い両腕には、大陸でも人気のあるクマのぬいぐるみが抱えられていた。
もう一人は、頭巾を深く被り、肌を極力見せぬ侍の装いをした男だ。
少女よりも頭二つほど背が高い彼は、年齢不詳である。
彼の腰元には脇差や太刀が数本。それと背丈ほどもある大太刀が背負われていた。
相反する二人に共通するのは、腰に届く長く美しい黒髪だ。
少女は重ねた座布団に片膝を立て、椅子のように座っている。柱に体重をかけるように立つ男に、少女は言った。
「ねぇ、『九十九威』ちゃん。聞いて聞いて~。あたしね、今推しているヒトがいるの!」
年齢に見合わず、甘く、それでいて艶のある声だ。
言葉をかけられた『九十九威』だが、しかし返事はない。
彼が話を聞かないのは常なので、少女は男に視線を向けながら、ひとり続ける。
「知ってる? 殺生鬼。ビックリするほど綺麗な鬼なんだよ? でもね、たぁくさんいたのに『詩織葉』ちゃんがアリさんみたいに踏みつぶしちゃったのぉ! うぅん……?」
そこで彼女はコトン、と首を傾げる。
「踏みつぶしたんじゃなくて、食べちゃったんだっけ? 〈悪死鬼〉がバクバク~って。アハハ! あのコたち貪欲だから、あればあるほど食べちゃうんだよねぇ」
少女はまるで喰らうかのように、片手でぬいぐるみの頭を掴むと、首元からもぎ取った。
中から白綿がたわわにこぼれる。
無残なクマのぬいぐるみに、しかし彼女は一瞥もしない。
「でも、生き残ったの! 殺生鬼、『紅焔』。鬼の中でも、一際キレイな顔をして、そしてとってもとっても強いんだよ? もうね、一目で『推し』になっちゃった!」
そこで初めて『九十九威』が口を開いた。
「『恋灯』。殺生鬼『紅焔』は『詩織葉』が狙っている。その魂を喰らいたいとな」
『九十九威』は低いが、若い男の声をしていた。少女『恋灯』とは異なり、感情の色はひどく薄い。
少女はぬいぐるみを放り投げ、バタバタと両手を座布団に叩きつける。
「そうなの! 『詩織葉』! あいつ、〈悪死鬼〉よりよっぽど食いしん坊よね? でもね、あたしは食べたいんじゃないの。推しの幸せをただ願いたいだけなの。だってあたし、愛に生きてるから!」
「ふっ」
『九十九威』は口の端を僅かに持ち上げて、嘲るように笑いをこぼす。
すると『恋灯』は手をピタリと止めて、『九十九威』を非難した。
「あー! ひどぉい『九十九威』ちゃん。今、あたしのこと馬鹿にして笑ったでしょ?」
ぷい、と拗ねたように顔を背けて『恋灯』は続けた。
「でもいいもん。誰に理解されなくたっていい。それがあたしの愛だから。推しが誰かに恋をして、愛して、愛し合う。その幸福な姿を遠くから眺めるのが、あたしにとっての至上の喜びだから!」
「では『詩織葉』とは相容れぬな」
「そうなの!」
『恋灯』は勢いよく立ち上がる。蹴った拍子に座布団の山がドサドサと崩れた。
「だからね、『詩織葉』ちゃんは邪魔ぁ! 消したいのっ、殺したいのっ! ねぇ、『九十九威』ちゃあん、手伝ってよ~?」
軽い調子で残酷な頼みをする『恋灯』に、『九十九威』は腕を組み、吐き捨てた。
「下らぬ。貴様が同胞をどう思い、手を下すかは勝手だが、吾輩を巻き込むな」
「ええ~。『九十九威』ちゃん、冷たぁい。そんなんじゃ誰からも、愛して貰えないよ?」
『九十九威』に近寄った『恋灯』は、厚い胸元に指を滑らせる。ちょうど心臓のあるあたりで指を止めた。ここに魂があると、人々は信じているけれど。
『九十九威』の心音は聞こえない。
「吾輩は『白夜王』に愛される身故、それ以外の愛は不要だ」
「うわぁ、その自信と余裕がある感じ、超腹立つ~」
『恋灯』はひらり、と身を翻すと、部屋の窓枠に足を乗せる。
「じゃあ、同期に振られて傷心のあたしは『詩織葉』ちゃんと遊んでくるね! そしてね、めいっぱい、推しの恋愛を楽しむの! 推しの恋路を邪魔する奴らは、あたしがみんなみんな殺してあげるんだ!」
「楽しんだ後は、どうする?」
『白夜王』にしか興味を抱かない。同胞たちと一線を引いている彼が踏み込むのは珍しいことだ。
『恋灯』は意外に思いながら、仮面の下でニィ、と残忍な笑顔を作ると言った。
「決まってるでしょ? 玩具に飽きたら、ポイしない。最後は綺麗に後片付けしないとね!」
***
「――目覚めよ、心魂よ」
短い祝詞が、ほの暗い執務室に響いた。
すると、机に突っ伏するように寝ていた男は呻き声をあげながら、目を覚ます。
「うっ……私は……」
「『紅焔』を仕留め損ねたね、無能」
「貴様は……」
館の主――シノノメは闖入者の姿を注視する。
存外若い男だ。年の頃は二十に届かないくらいか。
背が高い。手足が長いので、ひょろりとした印象を受けるが、暗がりの下よく見れば、彼の肉体は程よく均整がとれていることが分かる。
黒い長髪は頭の上で一つに結われていた。彼の目元は何やら札のようなもので秘されているが、整った鼻筋や口元を見るに、彼がたいそうな美形であることは想像できる。
彼と会うのはこれが二度目だ。
初めて出会ったとき、彼は己を『晴明』と名乗っていた。
「ああ、憎き『紅焔』! 私はあれを殺そうとした! だが、邪魔が入った。男のふりをした女だ。彼奴の『呪術』が……」
シノノメはギョロリ、と『晴明』を睨みつけると問いただす。
「そうだ、あれはたしかに『呪術』だ! あの女、貴様らの仲間ではないのか!?」
「違う」
『晴明』は透き通った美しい声に嫌悪を滲ませて、否定する。
「だったらなぜ――」
食い下がるシノノメの言葉を最後まで聞かず、『晴明』は祝詞を唱える。
「眠れ、眠れ、心魂に永遠の眠りを」
耳に心地よいそれは、懐かしい子守唄のようで。
シノノメを永遠の眠りに誘った。
***
「愚かな」
もう声も聞こえないだろう男に、『晴明』は語り掛ける。
「あの美しいひとは、私たちの同胞ではないよ」
本エピソードにて、第一部が完結となります。
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