【15】わたしとともに、生きろ
愕然とするツバキはそのままに、ヒバナは机に倒れる男の様子を窺う。
死んではいない。ただ深く眠っているだけ。
彼は二日、三日程度目を覚まさないはずだ。
「驚いたか? 『呪術』は何も〈悪死鬼〉を生み出すだけではないよ。存外できることが多いのだ」
静かな声でヒバナは口にする。
目が灼けるように熱い。それが慣れない禁術の代償だと、ヒバナは知っている。
「ヒバナ、目が……」
「ああ。赤くなって、君とお揃いだな?」
ヒバナの虹彩は赤く染まり、眦からは血がつう、と垂れた。
『呪術』は人の躰に強力な作用を及ぼす半面、術者への負担が大きい、極めて危険とされる禁術だ。
その気になれば、容易く人間の命も奪える『呪術』を、ヒバナはとある事情から使いこなせるのだが、その使用は固く封じていた。
「ヒバナ、ヒバナ、お体に問題はございませんか……!?」
カタカタと震えるツバキに、ヒバナは呆れた。
「流血はじきに止む。それより、それはこちらの台詞だぞ。君、全身血で真っ赤に染まっているが、返り血か? 怪我はないか?」
「傷ひとつございません。……わたくしは、また、死に損ないました」
口惜しそうに、彼は呟く。
ヒバナは力なく落とされた彼の両手を取ると、言った。
「君が死を望むなら、わたしは止めやしないよ。でもその前に、話をしようではないか」
***
ヒバナが連れられたのは奥まった場所にある寝室だった。
使用人が使う部屋ではない。館の主の家族の寝室か。広く、豪勢な部屋だ。
掃除は行き届いているが、長年使われた形跡はないように思えた。
「ここは、初めて『紅焔』が人を殺した場所です」
ヴィオレットから事の詳細を聞き出していたので、彼に言われる前にヒバナは察しがついていた。
「〈黒卿〉に命じられて、当時十歳だったわたくしは、館主の息子の一人を、殺すよう命じられました。殺生鬼の中でも暗殺者として才覚を認められたわたくしは、訓練から二年足らずで初めての殺しを任されるようになったのです」
ツバキはベッドに腰かけると、重苦しい声で続ける。
「わたくしには、自由が許されなかった。ですが、その中で、幾度か選択の機会はあったのです。〈黒卿〉の政敵である男の息子の暗殺。柔らかくフカフカのベッドで眠る、まだ十五歳の男の子。その小さな胸にナイフを突き立てる。わたくしの、初めての選択」
殺すか、殺さぬか。
どんなに技術が優れていようと、覚悟ができず、『紅焔』には躊躇いがあった。
そうしているうちに、少年が起きてしまった。
自らの置かれた状況に気づいて、彼は騒ぎだす。
計算違いだ。『紅焔』は焦って、彼の口を塞いで、殺した。
「彼は苦しんで死んだ。彼が眠っているうちにすべてを終わらせていれば、安らかに死ねたのです。わたくしが迷わなければ。選ぼうとした故に、彼は苦しんだ」
どのみち、彼が手を下さずとも、少年は死んでいただろう。
だが、任務に失敗すれば、死体は増える。幼い『紅焔』のそれが。
「選んだ結果が、彼に無用な苦痛をもたらした。やはりわたくしは、不自由な身だと、身に染みて思わされ
たのです」
「ツバキ……」
「〈黒卿〉の元から逃げる、という選択肢はありました。けれど、逃げたあと、殺ししか知らないわたくしが生き延びられるとは思えませんでした。怖くて仕方がなかった。自分の選択で間違いを選び取ることが。だから、わたくしは選択することから、目を背け続けていた」
「……」
「そんなわたくしを、ヒバナ、貴女は助けた。あの日貴女は、何も心配することはないとおっしゃった。その言葉に甘えて、わたくしは久しぶりに選んだ。貴女を旦那様とする選択を」
ですが、と彼は続けた。
「その結果、貴女を危険に巻き込んでしまった。俺は、『紅焔』は、貴女の傍にいる資格はないんだよ」
それっきり、ツバキは黙り込む。
(ああ、彼は本当に……)
話を聞いていて、ヒバナの胸に沸々と湧き上がるのは、純粋な怒りだった。
「ツバキ」
「俺は、その美しい名で呼ばれる、価値もない」
「……資格だとか、価値だとか、ふさわしくないだとか、そういうのはな、全部全部」
ヒバナは怒りのまま、ツバキを勢いよく押し倒す。
ツバキは赤い瞳を限界まで開いて、ヒバナを見上げていた。
こいつは馬鹿だ。とんだ愚か者だ。
だからヒバナは、分からせてやらねばなるまい。
言葉はそのひととなりを現すからな、サクヤのように口汚く罵るのではないぞ、と師匠に言い含められて、ヒバナはそれなら……と憧れの師匠の口調を真似た。
だから暴言は、極力使わないようにしているが。
「くそくらえ、だっ!」
「ヒバ、ナ……?」
「誰かの隣に立つのに、他人の許可を得なければならないのか? 資格も価値もなければ、許されないのか? ただ一緒にいたい、それは理由にならないのか?」
「…………ヒバナ」
「これだけ教えろツバキ。君はわたしの傍に、いたいと思わぬのか?」
彼の手首を押さえつけ、両膝をついて、ヒバナは問いただす。
ヒバナの剣幕の押されながら、どこか脅えた表情のツバキは首を横に振る。
「いたくないわけ、ない……そんなの、決まっているではありませんか……! しかし、わたくしが貴女の傍にいれば、危険に巻き込んでしまうから……」
「そんなこと、些末な問題だ。あの時わたしは何も出来なかったが、今度はわたし自身を、そして君も守るからな」
ときには禁術『呪術』を用いても。ヒバナにはそれだけの覚悟があった。
「……どうして」
「わたしが君の傍にいたいからだ! 悪いか!」
堂々と言い放てば、彼はまだ納得が行かないようで、泣きそうな声で言う。
「でも、ヒバナは……わたくしを愛していない。それは、同情だ……」
「同情で、悪いか?」
開き直れば、ツバキは悲しそうに眼を伏せる。
「ああ、そうだよ。確かに、可哀想な境遇のツバキ。君にわたしは同情しているよ。惨めに思うか?」
「……思いません。ただ、貴女に心を向けられて、嬉しく感じます」
「君は笑ってしまうほど、わたしのことが好きすぎるな。だったら、わたしが大好きな君のために、醜い本性を晒してやろうか」
ヒバナは太々しく笑うと続けた。
「わたしは君に旦那様と慕われて、いい気分になっていたよ。美しい君を侍らせて、自分がそれだけで特別な人間になったような気がした。どうだ、見損なったか? 軽蔑したか?」
薄々と感じてはいたのだろう。しかし彼は首を振る。
「思いません……。貴女の心に喜びを与えられるのであれば」
「そうか。それなら、お役目を果たせ、ツバキ」
「え?」
ヒバナは覚悟を決めた。
此方は与えられるばかり。だったら、ヒバナもその想いに答えなければならない。
「わたしに尽くせ。わたしを愛せ。その見返りに、……愛してやろう。旦那様であるこのわたしがな」
「ヒバ――」
名を呼びかけた彼のくちびるを強引に塞ぐ。
「んっ」
くちびるを静かに離すと、呆然とした顔のツバキが、ヒバナを見つめる。
(旦那様なら、接吻のひとつやふたつ、かまわぬだろう)
濡れたくちびるを味わうように、舌でぺろりと舐めたのは、ヒバナなりの羞恥心のごまかしだ。
「ハッキリ言って、わたしが今君に向ける感情に、明確な名前はつけられない。ただ、下心故にな、手放すのが惜しいと思っている。君を好ましく思う、それだけは嘘ではないのだ」
もしかしたら、これこそが恋や愛と呼ぶそれなのかもしれない。
この歪んだ独占欲が愛であるというなら、なんと罪深い感情なのだろうか。
「ヒバナ……」
「さあ選び取れ、ツバキ。わたしとともに生きるか。わたしの傍を去るか」
ツバキの瞳に、じわりと涙が滲む。彼は震える声で、ヒバナに訊ねた。
「わたくしは……貴女とともに生きることを、選んでも、良いのですか……?」
「ああ」
ヒバナは力強く頷くと、ニッと歯を見せて笑った。
「『ヒバナとともに生きる』。それを『ツバキ』としての初めての選択にしよう。何、失敗は恐れるな。頼れる旦那様が手を握っていてやろう」
すると彼は困ったように微笑んだ。
「その、ヒバナ。貴女に押さえつけられているので、握れません……」
「おや、失礼した」
ヒバナは手首から彼の手のひらに滑らせると、強く握りしめる。
「次に、何を望む?」
恍惚とした表情のツバキに問いかけると、彼は夢見がちに呟く。
「愛しい旦那様、ヒバナ……。わたくしを一番に、愛していただけますか?」
「欲張りだなぁ、君は。だがそれは簡単には叶えてやれぬよ。わたしの心を奪うよう、君の魅力で堕としておくれ?」
「……はい」
幸せそうに微笑むツバキのくちびるに、ヒバナはたまらなくなって、再び接吻を落とす。二度目のそれに躊躇いはない。
(わたしは、ツバキと対等でありたい)
いつか彼は、ひとりで選択できる、自由を得られるだろうか。何も恐れず、飛び立てるようになれるだろうか。
今は一方的な関係でも、いつかは隣に立ちたいと思う。
そのとき初めて、ヒバナの胸を熱く焦がすこの感情に、名前がつけられるのだろう。
雨は上がって、雲の隙間からは月明かりが覗く。
花街の夜と、ヒバナとツバキのまだ名前のない関係は、まだ始まったばかりだ。