【14】閉じた未来を望む
頭がガンガンと痛む。
呻きながらヒバナが瞼を開けると、天女のような美貌に柔らかな笑みを浮かべるヴィオレットが顔を覗き込んでいた。
「兄、上……?」
ヒバナが身を起こそうとすると、彼の大きな手で押しとどめられる。
「まだ寝ているといい。私のヒバナ。頭を打ったようだけれど、痛みはない?」
「ああ、問題ない……」
口にしながら、ヒバナは冷静に状況を整理する。
どうやらヒバナは、〈夜鷹〉の自室の寝台で眠っていたようだ。
窓の外を見ると、陽が暮れていた。これから天気が崩れるのか、黒く分厚い雲が空を覆い始めていた。
「いや……夜が来るな。仕事に行かないと」
「仕事? 今日は非番だろう?」
まだ寝ぼけた頭で呟けば、ヴィオレットに呆れられたように言われる。
そうだった。今日は非番だったから、日課の鍛錬をして、ツバキたちと食事を摂って、そして――。
「ツバキは!? 彼は今どこに!」
大人しく眠っている場合ではない。
ヒバナは今度こそ、身を起こす。暗殺者を華麗に返り討ちにした彼だが、ヒバナが意識を失ったのち、彼は無事でいたのか。
(いや、わたしは何故、自室で寝ているのだ?)
ツバキが連れて帰ったのだろうか。問い詰めると、ヴィオレットはすっと笑顔を消した。
「あの間男が全身血みどろで〈夜鷹〉に帰ってきたときは、ぞっとしたよ。意識を失ったヒバナを抱えていたのだから、なおのことね」
「だから、ツバキはどこに……!」
もどかしい気持ちでヒバナはヴィオレットに詰め寄る。
すると彼は、口の端を持ち上げて、愉快そうに答えた。
「出て行ったよ」
「え……?」
「ああ怖い。殺生鬼『紅焔』。仇を討つのだと言っていたよ。フラフラとした足取りで〈黒卿〉を殺した男の元へ向かっていったね」
「なんで……」
彼は、元の主〈黒卿〉が死んだことに、何の感慨もなさそうに思えた。
過去よりも、漠然とした未来に不安を覚えているようだった。敵討ちを考えるような様子は微塵もなかったのだ。
そもそも何故、暗殺者たちはツバキを狙ったのか。ツバキの正体が知られたのか。
「あのおっかない殺し屋。もう、戻ってこないといいね」
まさか。考えたくもない可能性を、払拭できず、ヒバナは震える声で訊ねた。
「兄上が、知らせたのか……ここに、ツバキがいることを」
「だったら、どうする?」
彼の態度で答えは明白だった。
どうして、と呆然と呟くヒバナに、ツバキは物分かりの悪いこどもを諭すように言う。
「いいかい、私の可愛いヒバナ。『紅焔』は殺し屋だ。サクヤやグレン、ユツたちはまあ、特別に許してあげる。でも、彼は愛する妹の傍にいるのに、相応しい存在ではないよ」
「なんで、そんな……」
「分からない? 彼は平然と殺しができるような人間だもの」
「兄上がそれを言うのか……!」
ヒバナの怒りが爆発した。
「殺し屋を差し向けさせて、ツバキがどうなるかくらい、想像がつくだろう!? 実際に彼は殺されかけたのだぞ!」
顔を赤くして強い憤りを見せるヒバナを、ヴィオレットは優しく抱擁した。
「私だってずっと心を痛めていたんだよ? 可愛い可愛い私のヒバナ。あんな男に誑かされてしまったの? 美しい鬼に旦那様と慕われて、心を奪われてしまった?」
「……」
違う、とは言い切れなかった。
彼に頼りにされて、いい気になっていたのは本当だ。
ヒバナはくちびるを噛みしめると、ヴィオレットは細く冷たい指先で口元をなぞる。
「いいかい。私のヒバナ。私の心はお前だけのもの。そしてお前の心は私だけのもの。だって私たちは、たった二人だけの兄と妹なのだからね?」
暗い路地裏で、幼いヴィオレットとヒバナは生きてきた。彼の言葉に従った。そうすることでしか生きられなかったから。
(ああ)
かつてのほろ苦い記憶が蘇る。思い出したくもない、嫌な過去。
「……兄上は、わたしを勘違いしている」
「ヒバナ?」
ヒバナはヴィオレットの胸を押し返す。
困惑した表情で名を呼ぶ兄に、ヒバナは言った。
「ツバキが平然と殺しができる人間と言ったが、それならわたしも同じだ。わたしたちはあの地獄のような路地裏で、そうして生き延びてきただろう?」
こどもたちだけで生き延びるには過酷な環境で、奪い奪われる生活。命を脅かされる危険に晒されて、身を守るために人の命をも奪うことがあった。
いや、ヒバナ自ら、『奪う側』に立ったのだ。
その時ヒバナに躊躇いはなかった。生きるたびに必死だったから。場数をこなすうちに、いつしかヒバナは何も感じなくなっていた。
「ヒバナ。あの時とは状況が違うよ。私たちは生きるために、必要だったんだ」
「違いなどあるものか。ツバキとて同じなのに。生きるために、そうあらなければならなかったのだ。彼は、選べなかったのだ、自由を」
涙で滲む視界をグイ、と拭い、ヒバナは決意を胸に、告げた。
「だからわたしは、ツバキを連れ戻す。『君はもう自由なのだ』と教えて、二度と馬鹿な真似をしないよう、彼を抱きしめてやる」
***
〈黒卿〉とその精鋭たちの殲滅を指示した正体を、『紅焔』は知っている。
彼らが『紅焔』を殺そうとしている理由は、正直どうでも良かった。
生き残った殺生鬼『紅焔』の消息を漏らしたのが『あの男』であれば、度し難いことではあるけれど。
妹を愛するあまりの愚行だ。
結果として、彼は愛する妹まで危険に晒したのだから。
(ああ、でもすぐに、すべてが終わるね)
黒卿に〈悪死鬼〉を差し向けた『呪術師』。そして襲撃者の特徴から、その主がかつてのターゲットであることに気づいた。
屋敷を訪れるのは八年ぶりだが、忘れるはずがない。覚えている。
『紅焔』の心は、自身でも意外なほどに落ち着いていた。心とは反するように、空は荒れていた。暗雲が覆う空からは、細く冷たい雨が降りしきる。遠くでは雷鳴が轟いていた。
ひとりで赴いた『紅焔』を、しかし敵方は手厚くもてなしてくれるようだ。
数十もの瞳が、漲る殺意が、『紅焔』だけに向けられている。
さすがの『紅焔』も彼らすべてを相手にするのは厳しい。
けれど、ここで命を散らせるわけにはいかなかった。
***
(静かだな。世界にひとりきりになってしまったみたい)
思えば、あの夜も静かだった。
〈黒卿〉が殺され、剣士や魔術師、殺生鬼が殺され、敵の〈悪死鬼〉を殺し尽くして、そして『紅焔』ただ一人が生き残った。
月の美しい夜だった。その眩しさに、『紅焔』は異様なほどの不安を覚えた。
――俺は、これからどうすればいいのだろう。
だが、今は違う。何をなすべきか明確に分かっている。
屋敷にいた、戦う術のない人間たちは既に逃げ出していた。人影のない館を堂々と歩きながら、『紅焔』が向かう先はひとつと決まっている。
館で一番、豪華なつくりをした扉を開く。
「来たか」
執務室の椅子に座る男は、泰然と構えていた。彼の兵が皆殺しにされ、ここに『紅焔』が訪れる未来は、彼も想定していたのだろう。
五十歳を過ぎた頃合いか。ふくよかな体つきで、髪には白いものが混じる。
瞳はギラギラと、憤怒で滾らせて。
〈黒卿〉の政敵である彼の名を、『紅焔』は知らない。
だが、彼が安泰を得るために『呪術師』に命じて、〈悪死鬼〉で立ちはばかる者を一掃だにした――人道に反する所業については耳にしている。
武力による支配。それは〈黒卿〉にも通じるところはあったが、この目の前に座る男の行いは過ぎたものだ。
とある市場を独占するため。あるいは美しい女を手に入れるため。息子よりも優れた同窓を排除するため。時にはたわいもない理由で、無辜の民は〈悪死鬼〉に喰らわれたのだ。
(その彼への牽制として、数年前に国から密令を受けた〈黒卿〉は、殺生鬼を……俺たちを彼の館に向かわせた)
そして見せしめに、彼の息子たちは全員、殺されたのだ。
その一人を殺したのは、十歳にして殺しの才を秘める『紅焔』。
『紅焔』は執務室の机に飛び乗ると、胸元から取り出した小刀を男に手渡した。
これには予想外だったのだろう。男は警戒したまま、訝しげな声で問う。
「殺生鬼『紅焔』。貴様は私を殺しに来たのではないのか?」
「違う。俺は――殺されるために、貴方の前にいる」
すべてを終わらせるために。
窓の外で雷が鳴り光る。一瞬の光が、『紅焔』の白い頬を照らし上げた。
男の喉がゴクリとなる。
「どうしたの、殺さないの?」
「『紅焔』、貴様、何を考えている?」
「何も考えてはいないよ。ねえ、殺し方が分からない? だったら教えてあげる。こうして胸元に刃を突き立てるんだよ」
『紅焔』は小刀を握る彼に手を添わせながら、自らの心臓へと導いた。
「貴方の大切な息子も、柔らかい胸を貫かれて死んだよ。俺が殺したよ」
男の顔がこわばる。それから憎悪で彼の顔が赤く染まった。
「貴様……!」
「初めての仕事だったから、上手にできなくて。彼が眠っているうちに殺せればよかったのだけれど。起きてしまったから、口を塞いで、暴れる彼を組み敷いて殺した。痛かったかな。泣き叫んで、彼のくぐもった断末魔が耳にこびりついて、今も離れないんだ」
「貴様ァ!」
男が怒声とともに小刀に力を込めて、『紅焔』の胸元に押し込もうとする。
(ああ、これでいい)
彼が復讐を果たせば、すべてが終わる。愛する人が危険に晒されることもない。
『紅焔』は瞳を閉じる。
もう、愛する旦那様に会えない。それが心残りではあるけれど。
だが、『紅焔』が選んだ結果は、誰かを苦しめるそれなのだ。
最後に愛する旦那様の姿を浮かべて、『紅焔』の生涯は閉じられる。
しかし、『紅焔』の望む結末は訪れなかった。
「――眠れ、心魂よ」
短い祝詞が、執務室に響いた。
途端に、男が崩れるようにして意識を失う。
『紅焔』は目を見開いた。
気づけなかった。意識は死へと導かれていたから。
彼女がどうしてここに。
信じられない思いで、『紅焔』は後ろを振り返る。
開いた扉の前に立つのは、『紅焔』を救った少女――愛する旦那様ヒバナだった。