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【10】肌寒い夜は、貴女に抱きしめてほしいから

 夕方が過ぎると、仕事の時間だ。

 いつものように屋根の上に向かおうとするヒバナを、ツバキは引き止めた。


「ヒバナ、わたくしもお供してよろしいでしょうか?」


「はぁ? 君を?」


「わたくしも腕が立ちますので、ヒバナに微力ながら、お力添えできるかと」


 腕が立つ、と言うのが嘘でないことは、昨晩の彼が証明済みだ。

 おそらく幼少から暗殺者として生き抜いてきた彼は、悔しいがヒバナよりもずっと強い。


(まあ、彼一人残すのも不安か)


 悩んだ末、ヒバナはツバキを連れて行くことに決めた。

 そして屋根の上に、並んで二人で座る。


「ヒバナはどうして、屋根の上に登るのです?」


 用心棒であれば、館内に待機するか、巡回するのが良いだろうと、彼も考えたのだろう。


「ここにいれば、有事に気づいて駆けつけやすいな。〈夜鷹〉では全室窓を開けていて、声が聞こえるし、侵入しやすいのだ」


 館内は人の通りもあり、ドタドタと走れば、「他の客に迷惑かけんな!」とサクヤにどやされる。

 その点、目的地に最も早く辿り着ける屋根上は、待機するのに都合がいいのだ。


「それにわたしは、この街の景色が好きでなぁ」


 暗い路地裏から、憧れのように眺めていた表通りの輝きが、一面に見える。

 今は確かな居場所を得たのだと、安らぎを感じられるのだ。

 微笑むヒバナに、ツバキがおもむろに、そっと身を寄せる。


「ツバキ?」


「ヒバナ。夜風に吹かれ、寒くはございませんか?」


 なるほど。秋の夜は確かに肌寒いが、慣れているのでヒバナは問題なかった。

 しかし彼は違うだろう。もう少し気を配ってやるべきだった、とヒバナは後悔する。


「ツバキは寒いのか。すまない。寒い思いをさせたな」


 だったら先に部屋に戻るといい、とヒバナが口にする前に、彼は言った。


「ヒバナ。貴女の躰で、わたくしを暖めてくださいます?」


「は?」


「ヒバナを抱きしめて、暖をとっても?」


 そんなのいいわけがない。

 眉根を寄せて言い返そうとしたが、くしゅん、と小さなくしゃみの音がする。


「失礼いたしました」


 恥じらった顔で、彼は口にする。鼻が少し、赤くなっていた。

 思うところはあったが、ヒバナは口をへの字に曲げて、両腕を広げてみせる。


「?」


 不思議そうな表情を浮かべるツバキに、ヒバナは優しい声色で言った。


「寒いのだろう? 暖めてやるから、おいで」


 でも変なことは絶対するのではないぞ、と念を押せば、彼はくすりと笑った。


「ふふっ。ヒバナが抱きしめてくれるのですね」


 口にしながら、ツバキはヒバナの懐に潜り込むが、彼の方が背丈はずっと大きい。躰が余ってしまう。

 体制を崩しそうになりながらも、ヒバナは彼の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。

 傾国の美貌が近い。もう寒くはないか。その美しい顔をまじまじと堪能するように観察していると、躰をぐいっと裏返しにされる。


「わっ」


 ツバキの膝に乗せられて、後ろから抱きすくめられたのだ。

 いったい何事だとヒバナは振り向こうとする。

 その頬に彼は顔を摺り寄せた。


「すみません。貴女に顔を見られるのが、恥ずかしいのです……」


 厚顔無恥で堂々として、恐れを知らぬような彼でも、羞恥心を持ち合わせているのか。ヒバナは耳を疑った。


「わたくしはヒバナに格好悪い姿や顔を見せたくないのです。……鼻を赤くしている顔は、みっともないでしょう?」


「うーん。そんなことはないよ。君はどんな表情をしていても、美しいと思うがね」


 ヒバナは正直に答えた。ツバキは何処に出しても恥ずかしくない美貌の青年だ。

 いや、だからこそ、完璧でなければならないと考えているのだろうか。

 凡庸なヒバナには想像もつかないが、美人は美人なりに大変なのだろう。ヒバナは内心同情した。


「……もう。貴女はさらりと口説くのだから。これでは、わたくしばかりが好きになってしまいますよ」


 拗ねたように、ツバキはぼやく。

 なんだかそれが可愛らしく思え、ヒバナは苦笑する。

 一人で屋根に座る、秋の夜は確かに寒かった。

 でも今は。


(ああ、心地いいな……)


 背中にぬくもりを感じながら、思わずウトウトとしかけると――微かな悲鳴が聞こえた。


(何事だ?)


 ヒバナは即座に立ち上がる。

 同時に、ツバキも異変に気づいたようだ。緊張感を滲ませて、彼は言う。


「〈夜鷹〉から聞こえた悲鳴ではありませんね」


「ああ。あちらの路地裏の方か?」


 高級娼館が建ち並ぶ大通りの裏方で、確かに悲鳴が上がった。


 悲鳴は一度きりだが、何かしらの異変が起きているのだと、ヒバナには確信がある。

 だが、ヒバナには迷いがあった。


(わたしは〈夜鷹〉の用心棒。持ち場を離れるわけにはいかない)


 しかし、困っている人間がいるのは見過ごせない。ヒバナの心は揺れていた。

 そんなヒバナの手を取り、ツバキは言った。


「ヒバナ。わたくしは貴女のもの。ですから、貴女の手足となり、動きます」


「え?」


「どうぞご随意に。貴女の憂いを払って見せましょう」


 どうやらツバキは、代わりに赴くと言っているらしい。


(どう動くべきか……)


 彼の実力を見くびってはいないが、危険だと分かっている場所には向かってほしくない。

 だが、こうして迷っている間にも、状況は刻一刻と悪化しているだろう。

 迷ったのは一瞬のこと。

 ヒバナは真剣な顔で、ツバキに言った。


「分かった。頼む。だが、怪我はするなよ。わたしのもとに、無事に帰ってきておくれ?」


「はい。この身はヒバナ、貴女だけのものですから」


 とろけるような甘い笑みを浮かべて言うと、ツバキは颯爽と屋根を飛び降りた。


 ***


(ヒバナ。俺の旦那様は優しいな。優しすぎる)


 怪我をするな、と命じられた。

 いや、命令ではない。お願いだ。彼女はツバキの身を心の底から案じているのだ。

 しかし今やこの躰はヒバナのものである。傷ひとつつけるつもりはない。

 傷跡を残していいのはヒバナ、旦那様である彼女だけ。生殺与奪の権は、愛する人に委ねているのだ。

 幸い、ツバキの躰は丈夫に作られている。いや、成長の過程で鍛えられたというべきか。


(本当は寒いのなんて平気だけれど、ちっとも気づかないんだもの)


 前の『旦那様』は気まぐれな人だった。訓練という名目で、凍える冬の夜が明けるまで、裸で外に立たせることは多々あった。

 だから、秋の夜風程度で寒気を覚えない。

 ヒバナに触れたいと欲を抱いて、つい嘘をついただけのこと。

 なのに彼女は、ツバキの嘘も見抜けず、抱きしめてくれた。

 刺すような冬の冷気に耐え切れず、泣きながら躰を丸めて震えた、幼い『紅焔』。


(寒いのは、もう平気、なんだよ?)


 誰も抱きしめてくれる人はいなかった。

 だが今は、優しく抱擁して、心配そうな表情でツバキの顔を覗き込む旦那様がいる。

 嬉しくて、つい涙が零れそうになった。

 そんな顔を見られるのは、恥ずかしい。

 ヒバナの前では、常に美しく強い夫でいたいのだ。


(そのためには、目の前の問題を手早く解決しないとね)


 黒髪赤目は優れた才能を秘める。例に漏れず、ツバキも高い身体能力と魔力の素養を有していた。

 特に、嗅覚や聴覚が鋭敏だ。だからヒバナとサクヤの内緒話も知ることができたし、ヒバナの窮地に駆けつけることができた。


(新鮮な血の匂い……こちらか)


 ツバキは屋根を駆け、目的地に近づくと、足を止める。


(いた。やはり、〈悪死鬼〉か)


 華やかな大通りの裏で、凄惨な争乱が起こっていることを、知るものは少ないだろう。

 いや、それは争乱とは言えず、一方的に嬲り殺されている。

 〈悪死鬼〉の身体能力は高い。黒髪赤目のそれのように。

 だがそれは、後天的に与えられたものだ。

 ツバキは慎重に〈悪死鬼〉の周辺を確認する。生きている人間はいない。『家無き者』たちは須らく〈悪死鬼〉に魂ごと喰らわれたのだ。

 『呪術師』は身を隠しているか、既に逃げた後か。おそらく、後者だろう。

 ツバキは音もなく、〈悪死鬼〉の背後に降り立つが、気配に気づいたのだろう、〈悪死鬼〉は振り返る。


(ああ、汚らわしい……)


 その醜悪な姿を前にして、ツバキは嫌悪感を抱いた。

 それは自然に生まれた化け物ではない。

 悪意ある第三者によって、生み出された兵器だ。

 頸を落とせば、〈悪死鬼〉はこの世から消える。だが、ツバキはあえてそうはしなかった。

 胸元から短刀を取り出し、襲い掛かる〈悪死鬼〉の両腕両足をさっくりと切り落とす。血は吹きださない。達磨のような〈悪死鬼〉は、耳をつんざくような不快な悲鳴をあげて藻掻いていた。

 その腹にダン、と足を乗せ、ツバキは〈悪死鬼〉にかけられた〈術式〉を調べた。


(ふうん。予想通りだ)


 あの夜、ツバキの元主と剣士や魔術師、〈黒卿のしもべ〉が有する殺生鬼たちを壊滅させた〈悪死鬼〉の群れ。

 余裕がなく一体しか調べられなかったが、まぎれもない、同じ『呪術師』による〈術式〉で違いないだろう。

 ツバキは敵討ちなど興味がない。

 だがひとつ、懸念があった。


(生き残った俺を、狙っているのかな?)


 人売りを襲った〈悪死鬼〉はヒバナがとどめを刺した。

 彼奴にかけられた〈術式〉を調べることは叶わなかったが、状況を考えると、同じ術者と考えてよいだろう。

 それほどにも殺生鬼が憎いか。生き残りが許せないか。


(これは厄介なことになったなぁ)


 ツバキのこれからの人生は愛する旦那様、ヒバナのもの。その蜜月を、誰にも邪魔はされたくないというのに。

 ツバキの足元で〈悪死鬼〉がおぞましい叫びを上げた。殺気と憎悪を漲らせてグルルと唸っている。


「ああ、うるさいってば……」


 ツバキは顔を顰めて、〈悪死鬼〉の頸を躊躇いなく切り落とした。

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