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リナン湿地の祈り

作者: 野狐禅

『リナン湿地の祈り』


リナン湿地――村の命の源であり、神聖な大地。父なる神アールドゥが形作った大地、母なる神ブリードが注ぐ雨、そして狩猟神ファーランが命を守る。これら三柱の神々が織りなす調和によって、湿地は村に恵みを与え続けてきた。


しかし、その調和が乱れた。湿地は干上がり、土壌は裂け、川は氾濫を繰り返すようになった。農地は荒廃し、獣たちも姿を消した。村人たちは怯え、囁く。「神々が怒っている」と。


その背後には、かつて村人が湿地の一部を農地にしようとした過去があった。農地化は湿地の水循環を乱し、神々の怒りを招いたとされている。そしてその計画を主導したのは若きブレンだった。今や彼は村人から「神を冒涜した罪人」として疎まれていた。


ある日、長老が告げた。「湿地を救うには、聖泉『トバール・アールドゥ』で儀式を行わねばならぬ。崩れた祭壇を修復し、供物を捧げ、神々に調和を祈るのだ。」


その言葉に誰も応じなかった。沈黙の中、ブレンが立ち上がり、「私が行きます」と口にした。


「お前が湿地を壊したというのに?」


村人たちの視線がブレンに突き刺さる。冷笑や怒りに満ちた声が飛び交った。長老が静かに言葉を放つ。「彼は自らの過ちを理解している。覚悟のある者にしか、この儀式は務まらぬ。」


翌朝、ブレンは村を出発した。村の祠の前で跪き、供物――稲穂、水鳥、干し肉――を捧げて祈りを捧げる。祠を守る老女が震える声で告げた。「神々の試練は厳しい。心に曇りがあれば、湿地は蘇らぬ。」


湿地への道は険しかった。ブレンの目の前には、ひび割れた大地と枯れ果てた草木が広がっていた。川の音が遠くから響き渡り、空気はどこか息苦しい。「神々よ、どうか私に償いの機会をお与えください。」彼は心の中でそう繰り返した。


夜が訪れ、霧が湿地を覆い尽くした。視界がほとんど奪われた中、低く重い声が響く。


「この地を侵す者は誰だ?」


それは狩猟神ファーランの声だった。ブレンは跪き、供物を捧げた。「村を救うためにここに来ました。神々の調和を取り戻す儀式を行いたいのです。」


霧が静かに晴れ、湿地の奥に聖泉「トバール・アールドゥ」が現れた。泉は輝きを失い、干上がった大地の中に沈黙していた。崩れた祭壇の石が泥に埋もれ、かつての神聖さを失っていた。


ブレンは黙々と祭壇の修復を始めた。泥に埋もれた石を掘り起こし、一つ一つ積み直していく。その作業は過酷で、彼の手は血と泥で覆われていった。それでも彼は祈り続けた。「神々よ……どうか私の行いを見守ってください……」


祭壇を完成させたブレンは燧石で火を灯し、聖泉から水を汲み、祭壇に注ぎ込んだ。その瞬間、大地が微かに震えた。泉から溢れた水が勢いを増し、湿地全体に広がり始めた。


しかし、その水流は急速に増し、地盤を削り、泥流となってブレンの足元を飲み込んでいく。彼は崩れゆく地面に必死に立ち向かいながら、最後の祈りを捧げた。


「アールドゥよ、ブリードよ、ファーランよ。この村を救ってください。この命を供物としてお受けください。」


ブレンの声が響いた瞬間、泉から眩い光が放たれた。水流は徐々に穏やかになり、湿地全体が静かに息を吹き返した。鳥たちの鳴き声が遠くから響き、アシの葉が風に揺れた。それは神々の調和が戻った瞬間だった。


ブレンは静かに泥流の中に身を委ねた。その微笑みは、彼が許され、村が救われたことを物語っていた。


数日後、湿地の再生が村に伝えられた。川は穏やかに流れ、農地には新たな緑が芽吹き始めた。村人たちは聖泉「トバール・アールドゥ」のほとりに新たな祠を建て、その前にはブレンの名を刻んだ石碑を置いた。「湿地を救いし者」として、彼の犠牲は後世に語り継がれることとなった。


村人たちは毎年この祠を訪れ、湿地の恵みに感謝を捧げる。そして語り継がれるのは、湿地の神々と一人の若者が織りなした再生であった。

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