確信犯的秘密の行方
2023年5月23日 キスの日短編です。
激しい雨に、わたしは立ち尽くした。
地面を叩く雨粒は跳ね返り、出入り口にいるわたしの靴どころか、スカートの裾さえ容赦なく濡らす。
せっかく今日は珍しく早く仕事が上がったのに、なんてこと。傘がない。今朝寝坊して慌てて出てきたから、傘を持ってくるのを忘れた。最悪だ。早く帰れてもこれじゃあビショビショもいい所の濡れ鼠。
今日は早く帰れそうだと気づいた昼休憩位に思い描いたのん気で楽しい週末は、その後ポツポツ(だがその時点で雨粒大きめ)から始まった雨に、早々に崩れ去った。
――いやこの場合、いっそ豪雨に流された、とでも言うべきか。
現在進行形でぞうぞうと音を立てながら、雨水は側溝に流れていく。なんならこの勢い、傘がないとかそういう問題では無い気がしてきた。
そのうち側溝が溢れてくるのではないか? それはもう災害ではないだろうか? そうか、災害なのか、なら仕方なし――などと若干現実逃避気味なことを考えるに至った。
ええい、女は度胸だ。
これ以上グズグズ時間をかけていても仕方ない、どうせ濡れるなら早く済ませてしまいたい……と、ヤケクソで鞄を胸にギュッと抱えて豪雨に飛び出そうとした時、やさしい声が降ってきた。
「入って行きませんか」
驚いて声がした方を見上げれば、同僚が立っていた。身体に合った仕立ての良いスーツとシャツは、流石にこの湿気と一日の仕事で少しよれてしまったけれど、それでもきっちりとした感は残っている。というか、その少しよれた感じがなんだかそれはそれで良いかもしれない、と思っているからわたしも大概だ。
――そう彼はわたしの好きな人だ。
仕事が出来て、やさしい人。仕事が立て込んでいる時、時々甘いものを食べている人。それをわたしに「秘密ですよ」とこっそり分けてくれる人。
秘密を重ねる度に、わたしに勘違いをさせてしまう人。
じわっと体温が上がるのを感じる。わたし、顔が赤くなってないかな……。
何かと準備が良く用意周到で仕事が出来る彼の手には、当然のように傘があった。紳士用の大きな傘だ。
想い人のやさしい言葉に嬉しくなるけれど、同時に恥ずかしくなる。わたしときたら、傘は忘れてきたし、スカートは濡れて貼り付いてきたし……もうやだ、こんな時に。
「ありがたいけど……反対方向でしょう? 悪いです」
わずかに声が上ずったけれど、動揺が漏れていないと思いたい。
「どうして?」
「どうしてって……遠回りになります」
「この空模様だと、しばらく止みませんよ。せっかく今日は早く退けたのに」
「でも、こんな雨では今更です。だから大丈夫――」
「濡れるのがわかっているような豪雨の中、あなたを独りで帰らせることは出来ません」
きっぱりと彼は言った。
「でも……」
たぶん傘一本で帰れば、彼まで濡れてしまう。どうせ二人とも濡れてしまうなら一人で帰ったほうがましだ。
濡れて情けなくなった姿を見られたくないし……。
「そうですね……」
戸惑うわたしに、彼は考えるようにちょっと遠くを見てから、こちらをもう一度見た。
「別方向へ帰るというのがお気に召さないのなら、同じ方向なら問題ないと思いませんか?」
え?
何を言われたのかよく理解できない。
彼を見上げれば、わずかに目を細めて意味ありげに微笑んだ。
「そろそろ、逃げられない理由が必要ですね」
「はい?」
彼は持っていた傘を広げた。そうしてそれをこちらにそっと傾けて、秘密を作る。それだけで周りから遠ざけられたような、不思議な空間だった。
ふわりと傘の色の影が落ちたその中で、わたしは彼を見上げた。外界からわたしを隠した彼が、被さるように顔を近づけてきた。もう一段階影が濃くなる。
あ、近い。
唇が触れそうな距離で、
「あなたが好きです」
囁かれて、心臓が引き絞られたようにギュッとなった。次の瞬間そっと唇が重なる。
キス……。
極々薄い皮膚同士の接触は、乾いたそれさえ特別だった。
すぐ唇は離れたけれど、俯く前に視線が重なる。逸らす事が出来ない。
「お嫌でしたか?」
わたしを覗き込む彼の瞳は甘く、それでいて強い。
この人にキスされてしまったとか、職場でとか、他の人がいつ現れるかわからないのにとか、なにより、こたえを――とか色々な言葉が渦を巻き、捕らわれ、自由になったはずのわたしの唇はまったく役に立たない。はくはくと動くだけ。
突然の事に言語能力が吹き飛んでしまい、ただ視線は合わさったまま、彼が作った秘密に思考が沸騰していく。
でも、でも、なんとか……!
わたしはのろのろと片手を動かして、ギュッと彼のスーツの裾を掴んで、少し引いた。
どうかこれで……ねぇ、こたえになっている?
くいと引かれた裾に、彼は視線を下げた。彼を見上げていたわたしは、その口元がわずかに上がるのがわかった。
わたしは息を呑んだ。
胸が苦しい。なのに、上がっていく高揚感。
頭痛がするほど心臓は早鐘を打つ。
「入って行きませんか?」
もう一度、視線を合わせて彼は言った。
「……はい」
わたしがようよう頷けば、裾を掴んでいた手に彼の手が重なる。裾を掴む指を外させるとそのまま引き寄せられた。一瞬で体温を感じるほど近くなる。その手はすぐに指を絡められた形にされた。指の間の柔らかい場所を、彼の節のある指が通っていき、擦られる感触に震えた。
そして、もう一度、唇が触れた。今度は離れ際に軽く喰まれる。
ああ、もう逃げられない。
胸が甘く疼く中、なぜだか、強くそう思った。
「では帰りましょう」
わたしは、何処にとも問えず手を引かれて歩き出した。
「確信犯的秘密の行方」
読んでいただきありがとうございました。