友達なんかじゃいられない
「やだ、それってほんとの話?」
「ほんとだってば。昨日まりっぺから聞いたんだってば」
昼を待たずしても大学構内のカフェは大抵賑わっている。片隅で本を読んでいたり、ぼうっとコーヒーを楽しんでいる人も一定数いるが、華やかなお喋りが圧倒的多数だった。その中でも黒髪でセミロングの土浦歌乃と金髪ロングにゆるふわパーマをかけた日下部凛音の二人は他の誰よりも楽し気に、そして嬉しそうに話をしている。
「えー、でもまりっぺの話ってたまにガセ入るからなぁ」
「今度は大丈夫。だってあの眼、信じるしかないってば」
疑い交じりに歌乃は凛音の話を聞きながら頬杖をつき、甘いカフェラテに刺さっているストローをくわえようとする。対して凛音は身を乗り出し、顔を寄せた。
「近い、近いってば。もぅ、キスするよ」
「やだもー、何言うのよ。でも歌乃とならいいかなー」
その言葉でまた笑い声が大きくなる。
「ほんと、アンタ達って息ピッタリだよね」
「もうこれ付き合ってるしょ。今はそういう時代だから、あたしら大丈夫だよ」
席を同じくした共通の友達が見慣れた光景に、二人に対して定型文のような感想を述べる。するとこれまたお約束のように、歌乃と凛音はちょっとだけ顔を見合わせ、小さく笑うと首を横に振った。
「いやいや違うって、そういうんじゃないから」
「いやほんと、そういう時代だからって言っても私らには関係のない話」
「せめてそういう関係を持ちたいと思うけど」
「相手がいないのよねー」
「世間に見る目が無いのよねー」
「こんなにいい女を放っておくなんて、ひどい世の中だこと」
「シワシワになる前に、幸せにして欲しいっちゅーの」
息継ぐ間もないやり取りに、軽妙な言い回し、そして感情豊かな表情。歌乃と凛音のやり取りに何度目だとしても、やっぱり友人達は大笑いする。その様子を見て、歌乃と凛音もまたにこやかな表情になれるのだった。
歌乃も凛音も、タイプこそ違うが容姿は整っている。艶のある黒髪の歌乃は目の大きい狸顔で、太ってはいないがほっぺたがぽてっとしている。本人はそれが軽いコンプレックスのようだが、それを悪く言われたことが無いのでそれをどうこうしようという意志はない。何より常におっとりとした笑顔で、警戒感を抱かせない雰囲気のため、男女問わず人気が高い。
対して凛音は切れ長の眼にすっと通った鼻筋、そして薄い唇という見た目なので、何も知らない人が黙っている彼女を見れば、酷く冷たい印象を受ける。けれど話せばとても陽気で、距離感ゼロなので、大抵は戸惑いながらも彼女の魅力に引き込まれてしまう。そんな二人が並んで話していれば自ずと誰か彼か寄ってくるのも不思議ではない。
「あ、そろそろ次のコマ始まるけど二人は?」
「私達は次は無いんだよね」
「そっか、じゃあ私達はもう行くから。またね」
歌乃と凛音が友人達を見送ると、互いに飲み物を一口飲んだ。ふうっと息を吐いて辺りを見回せば、次の講義に移動している人が多いらしく、一時的にとは言えカフェも閑散とし出した。
「そういえば次のコマって、歌乃が気になってた現代映像史があったよね」
「タダで映画見れるかなって思ったんだけど、凛音が知り合いの先輩からすっごいつまらないって聞いたから……」
「あぁ、美智先輩ね。私も気にはなってたんだけど、モノクロの映画を見せられてはどうこうってよく当てられるらしいよ。モノクロって、ねぇ。現代じゃないじゃん」
「ほんとだよね」
歌乃はちゅうっとカフェオレを一口飲むと、じっと凛音のコーヒーに目を向ける。
「味変したいな」
「いいよ、私も同じこと考えてたから」
「やった。ありがとね」
二人はそれぞれの飲み物をすっと相手方に渡すと、ためらいもせずにストローに口を付けた。そしてさも当然のように、一口二口と喉を潤す。
「ありがとね、凛音」
「はぁ、やっぱ歌乃の美味しい。私もカフェオレにすればよかったかな」
「私も凛音の微糖コーヒーがよかったかも。って、前もそう言ってたらかお互いの好きなのを頼んだのにね。まぁ、でも、凛音の飲んでる方って美味しそうに見えるんだもん」
「私もー」
互いに楽しんだら、すっとまたどちらからともなく飲み物を戻した。
「まぁ、なんかさぁ」
「ん、どうしたの?」
「付き合ってるんじゃないかとか、そういうの言われ飽きたなぁって」
「確かにね。ただ単に仲が良いだけなのにね」
凛音がそう言って笑うと、歌乃も続いて笑う。軽やかな笑い声がカフェに響く。店内には有線が流れているけれど、彼女達のような笑い声や談笑もこのカフェの雰囲気を作っている。
ただ、歌乃はその裏でチクリと刺すものを感じていた。
誰よりも仲良しで、誰よりも傍にいるのに手が届かない。そんなもどかしさを歌乃は常々感じ、人知れず苦しんでいた。完全に女の子ばかりが好きなわけじゃない、男性にだってときめく事もある。けれど歌乃は今まで圧倒的に女の子に心奪われる事が多く、今は目の前の凛音に恋愛としての好意を抱いている。
歌乃にとって凛音は完璧な理想とまではいかないまでも、心奪われるには十分な相手だった。話が合い、笑うポイントもほとんど同じ。食の好みも金銭的な価値観も似ており、なによりも顔立ちが美しく、魅力的な身体をしている。歌乃も全く無いわけではないのだが、凛音の前ではかすんでしまう。
恋をすれば、きっと相手に対する見方に性差は無くなるのだろう。少なくとも歌乃はそんな傾向がある。歌乃にとって恋愛とはその人と寝たいかどうか、それが大きな比重を占めていた。
だから単に性格が好きなだけではなく、身体や仕草に昂奮し、時に疼きすら覚える。
「仲良しお二人さん、授業でもサボってるの?」
ぼうっとしていた二人に近寄って来たのは黒髪ポニテに細い縁のメガネが印象的な女の子、黒川雪奈だった。声を掛けられその姿を見るや否や、歌乃も凛音もぱっと顔を明るくさせる。
「ゆきぽん、サボってないよ」
「ゆきぽんこそ、講義無いの?」
「こうして今、右手にコーヒー持ってる人が授業の途中だと思う?」
そう言いながら隣の席から椅子を引っ張ると、雪奈は二人の間に座った。
「あ、ごめんね。二人の間に座って」
「いや別にいいから」
「そうかなぁ、だって二人ラブラブなんだもん。邪魔しちゃ悪いよね」
「仲は良いけど、そういう関係じゃないってば。ねぇ、歌乃」
「まぁね。ところでどうしたの? 何か雰囲気的にちょっと休みにここに座った感じでもなさそうだけど」
歌乃の言う通り、雪奈はここに来た時から上機嫌だった。からかう文句も今まで通りなのだが、そこに今日はやたら感情が込められていたからだ。
「んー、そうね。ちょっと凛音に相談があって来たんだよね」
「私に?」
驚く凛音に雪奈が一つうなずき、笑顔を向ける。凛音は歌乃に視線を移すが、歌乃はそれをどう受け止めていいのかわからず、すっと視線を落としてカフェラテを飲む。
「じゃあ、私外そうか?」
「あぁ、いいのいいの、歌乃も別にいていいの」
腰を浮かせたところで、雪奈がようやく場を壊したのを自覚し、座るよう促した。歌乃は若干小首をかしげながら、さぐるように座る。
「まぁ、別に聞かれて困るわけじゃないからいいの。ただ、凛音に相談する方が適任かなって思っただけだから」
「それで、どんな悩みなの?」
わずかに一口、飲み物で口の中をうるおすと凛音が雪奈に視線を向けた。雪奈は相談があると言ったくせにそばにある観葉植物に視線を向けたり、自分の手元を見たりする。そしてやがて意を決した様子で、凛音を見詰め身を乗り出した。
「あのさぁ、エッチの時って少しでも演技した方がいいのかな?」
「はぁ?」
予想だにしなかった雪奈の質問に、歌乃も凛音も眉根を寄せる。
「だからさ、セックスの時にあまり感じてなくても感じたフリした方がいいのかなって」
「え、いやだから、何で相談相手が私なの?」
「だって、歌乃よりも経験豊富でしょ」
さも当然のように言い放つ雪奈に二人は身を乗り出す。
「いやいや、そんな経験無いから」
「てゆーか、どうして私がそういう扱いなのよ」
「だって歌乃ってなんか、恋愛とかそういうの疎そうだから。逆に凛音は何人も相手してそうじゃない。って、そんな経験無いってどういう事? あぁ、わかったー。上手い人ばっかり相手にしてるから、そんな必要ないって事か」
「いや、違うし」
凛音の否定も耳に入っていないのか、雪奈は一人納得したようにうなずく。
「まぁいいや、ちょっと聞いて。私さ、最近彼氏できたんだ。でね、見た目はもちろん性格も草食っぽく見えての肉食系なの。だからさ、二回目でホテルに行ったんだけど、なんだろう、上手いか下手かで言えば微妙に下手寄りなの。あ、でも、全然ダメってわけじゃないんだ。だけどなんか、向こうも一生懸命じゃない。だからこっちも、何かした方がいいのかなって思って」
けれど歌乃も凛音も苦笑いを浮かべたまま、言葉は出さない。
「いやぁ……そのままでいいんじゃない?」
「そう言うけどさ、やっぱそうもいかないと思うんだよね。だってね、汗一杯かいてがんばって動いてくれてるんだよ。それを感じないままぼうっとしてても、なんかほら、やっぱねぇ。だからさ、どうしたらいいのかなって」
片肘をついて難しそうな顔でそう語る雪奈に、歌乃と凛音は顔を見合わせる。
「どうしたもこうしたも、ここでする話じゃないよね」
カフェと言っても席の間はオープンで、いわゆるフードコートに近い感じの場所だから、少し大きな声で会話をすれば丸聞こえである。だから声のボリュームを下げずにエッチだのセックスだの話す雪奈と一緒にいる事に、二人ともいたたまれない気持ちになっていた。
「まぁ、いいじゃないの。声のボリューム下げるからさ。このくらいでいい?」
「……まぁ、このくらいなら、まだ」
それでも歌乃は気取られないようこっそりと周囲を見回す。
「ねぇ、ところでさ雪奈」
同じく小声になった凛音がそっと顔を近づけた。
「そのさ、彼との行為で具体的に何がいいの?」
「具体的にって……うーん……」
頬をてのひらに深く沈ませ考えたのも数秒の事、雪奈は視線を凛音に返す。
「いや、単に気持ち良くなりたいからでしょ」
「そんな、身もふたもない」
「だってそうでしょ。一人でしたって、してる最中はまぁいいかもしれないけど、終わったら虚しいだけじゃない。後処理とかさぁ。でもほら、二人ですれば終わった後も相手の体温を感じられたり、くっついていられるじゃん。その時間がすごく好き。それに自分の指じゃないので触られたり、自分とは違った体温に包まれるとさ、満たされるよね。だから歌乃も早く彼氏を……って、相談しに来たのは私だったよね」
我に返った雪奈は照れ笑いを浮かべる。けれど二人はそれまでの勢いに圧倒され、上手く笑えないでいた。
「あー、ごめんごめん、一方的に話しちゃって。あー、でも、なんかこんな話してたらまたしたくなってきちゃった。今日は彼もお仕事休みだって言うから、ちょっと行ってくるね。また何かあったら相談に乗ってね、じゃね」
くいっとコーヒーを飲み干すと、雪奈は片手をひらひらとさせながら足早に去って行った。残された歌乃と凛音はぽかんとその背が見えなくなるまで視線で追っていたが、やがて二人顔を合わせると、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「行こっか」
「そだね」
二人はほぼ同時に飲み干すと、カバンを持って立ち上がる。再度顔を見合わせ、やはり苦笑しか浮かばなかったけれども、歌乃は確かにむず痒い熱さにも似た何かを感じていた。
カフェを出た二人だったが、次の講義まではまだ時間があった。途中、ホールにあるベンチに座って他愛もない話をしたけれど、何だか居心地が悪くて長続きしなかった。訪れる無言の時間が徐々に増え、気まずさばかりが重なる。
「次の講義の西沢って、あれヅラかなぁ」
「多分。なんか不自然だもんね、生え際」
「だよね……ねぇ、凛音」
不思議そうに凛音が歌乃に振り向く。
「あのさ、気分変えるためにちょっと散歩しない?」
「散歩? 外でも行くの?」
「ううん、こっちだよ」
歌乃がくいっと顎で指した先は、体育棟へと通じる道だった。
この大学はどちらかと言えば文系の方が多く、体育会系の部活は例外なく弱小だった。だからなのか体育の選択授業を受ける生徒も、体育棟で今時間に熱心に練習する生徒もほとんどいないため、そちらへ通じる道は閑散としている。
おまけにメインの階段から少し離れているだけではなく、体育棟の方から外へ出ると表通りではなく住宅街の方に出てしまう。おまけに駅から遠いだけでなく、コンビニからも少し距離がある。だから幾ら空いていても使う生徒は少ない。
「こっち行ってどうすんの?」
「ん、どうもしないよ。ただの時間潰し。まぁいいじゃない、どうせ暇なんだし」
「暇は暇だけど、無駄に歩き回りたくないんだけどなぁ」
メインの階段とは反対側にある文化棟への階段を更に左に折れ、少し進んだ先にそれはある。文化棟への階段近くはメインほどではないにせよ、まだ人も多く賑わっていた。けれどそこから少し進み、左に折れると途端に人気が無くなる。歌乃と凛音は互いに顔を見合わせ、口角をわずかにあげて笑いをこらえながら小さくうなずき合うと、そっと階段の方へ歩みを進めた。
異変に気付いたのはまず、凛音の方だった。ピタリと足を止め、歌乃が疑問を口にする前に口の前に人差し指を持ってきて静かにしてと合図すると、歌乃も異変を察知したように口をつぐんだ。そして足音を立てないよう、そっと階段へ近付く。
音は階下から聞こえていた。いや、声と言うべきだろう。二人が耳をそばだてれば、くぐもった声がわずかに届く。それはキスをしている音、そしてそれは二人の女の子のようだった。
かなり声を我慢しているようではあるが、人気が無いからかやたらに響く。きっと本人達もまさかこの時間に誰かがここに来ているとは思っていないのだろう、だからこそ歌乃と凛音は次第に熱が入るそれから離れられないでいた。
きっとそれはでも、一分にも満たなかったかもしれない。階下の二人は鼻から漏れる幸せの吐息を絡め合うと、どこかへ行ってしまったようだった。本来あるべき静寂が戻り始めた頃、歌乃が凛音の袖を引っ張った。凛音も無抵抗のまま、でも音を立てないよう最大限の努力をして離れる。
文化棟の階段を過ぎ、メインの階段近くまで来る間の二人はうつむきがちだった。けれど人通りが多くなり、多少の雑踏に紛れることに成功するや否や、ほんのりと赤くなった顔をようやく見合わせることができた。
「聞いた、よね?」
「あ、う、うん。聞こえた」
「さっきの、女の人同士だったよね、絶対」
「多分。見えなかったけど、声の感じとか、きっと、そう、だよね」
「私も見えなかったけど……ねぇ」
「ねぇって、何よ」
囁き合うような小声で困ったように顔を見合わせ、近くにあったベンチに腰掛ける。けれどすぐ、歌乃がわざとらしく大きく立ち上がった。
「あー、そうだ。アイス買うんだった。ねぇ、凛音」
「えっ……あ、あーっ、そう言えばそうだったかもね。歌乃はいつものチョコミント?」
「う、うん。凛音はやっぱあれ? チョコモナカ?」
凛音もそれに呼応するように立ち上がると、大げさに二人うなずき合って笑顔を向ける。しかしそれは誰が見ても不自然さはあり、お世辞にも上手いとは言えないものだった。けれど気分を変えたかった二人にとってそんな事は重要ではなく、ただどこかに逃げる口実が欲しかっただけ。
連れ立つ際につないだ手と手。無意識だったけどそれが意識につながった途端、鼓動が狂ったように暴れ、頬や耳が赤くなっていないかと心配になった。歌乃も凛音もすぐに手を離したけど、それぞれの手に残る感触はしばらく、生々しいものとして残っていた。
翌日、歌乃は次の講義である西洋文学史論に出るため、三階の教室前で凛音を待っていた。昨日偶然聞いてしまったあの秘め事が何だか忘れられず、あれから何をしてもうわの空。こうして待っている間も雑踏がやけに遠く、意識は遠くにある体育棟への階段へと向いている。
「歌乃」
「あ、凛音」
ぼうっと階段の方を見ていると、逆側から軽く肩を叩かれ慌てて振り返れば、凛音がいつもの笑顔で笑いかけていた。歌乃はそれにほっとすると同時に、今までよりも強く苦しさにも似た疼きを覚える。
「どうしたの、ぼーっとして」
「ん、あ、いや……昨日のを思い出して」
その言葉を聞いた途端、凛音もそちらへと目を向ける。そうして二人じっと見るけれど、先程まで見ていた歌乃は多少余裕が出来たのか、チラチラと凛音の横顔を観察する。ニキビなんか無い綺麗な肌で、毛穴も目立たない。まつ毛も長めで、化粧なんかしなくても美人なのだが、されているとなお綺麗。頬のチークは今日はそういう感じなのか、それとも昨日の出来事を思い出しているからなのか、やや赤く見える。
「あのさ、歌乃」
チラ見がバレたのかと思いびくりと肩をすくめたが、やがて意を決して凛音を見詰める。けれど凛音は階段の方を見たままで、歌乃は横顔しか見えない。
「昨日のあれのせいで私、あんま寝れてないんだよね」
「私も、だよ」
周りに聞こえないような小声で話すけど、内容が内容なだけに気が気で無い。その間にも教室の中へと生徒がぞろぞろと入室しているが、二人は動けないままでいた。
「あぁいうの、知識では知ってたけど、実際には……」
「嫌そうでは無かったよね」
「多分……そうだね、うん」
「私らが行った時、ちょうどだったのかな?」
「え、わかんないよ」
「だよね」
教室に入る生徒も、少しずつ減ってきた。教室前に立っているのはもう、歌乃と凛音の二人だけになっている。
「あのさ凛音。正直な話、受けれる?」
「え、うーん……なんか、そんな気分じゃないかなぁ」
「だよね」
小さく笑うと凛音がスマホを取り出した。
「たけぽんに代返二人分頼んでおく」
「大丈夫かな?」
不安げに歌乃が凛音を見上げる。
「大丈夫じゃない。あの子、どのパターンの出席用紙も持ってるから。あとで学食でもおごるって言えばオッケーしてくれるって」
「私も半額出すよ」
二人は教室前から離れると、いつものカフェへと向かう。途中話をしたりもしたけれど、中身はあの話題からはほど遠い、当たり障りの無いもの。既に幾つかのクラスが講義のために埋まり、廊下を歩いている生徒は少ない。だけど誰が通るかわからないので、自ずと触れられなかった。
そしてそれはカフェについても、さして変わらなかった。二人とも今日は甘めのカフェラテにし、席についても共通の友人の取り留めの無い話ばかり。そうじゃないとわかってはいるのだが、どのタイミングでその話をし、また自分の思うような展開に持っていくのか、歌乃には自信が無かった。
「あれあれお二人さん、またサボってイチャイチャしてんの?」
会話も沈黙が占め始めた頃、一際明るい雪奈の声が響いた。二人とも顔を上げるのと同時に、雪奈が隣の空いたテーブルから椅子をすっと寄せて座った。
「いや、別に、そんな」
「またゆきぽんたら……イチャイチャなんかしてないってば」
いつもなら身を乗り出すようにそうツッコむのだが、今日は二人とも歯切れ悪そうに言ってはすぐに飲み物に口を付ける。その様子に雪奈はいぶかしみながらも楽しそうに、ついっと顔を寄せてきた。
「ねぇ、なんか二人して変な感じだけど、なんかあったの?」
ずいっと寄せた雪奈はコーヒーの匂いに割り込んで、彼女の匂いをふわりと漂わせる。
「何もない、けど……ねぇ、ゆきぽん。話は変わるんだけどさ」
「ん、なぁに?」
「ゆきぽんのその香水かな? それって何使ってるの?」
「え?」
雪奈は一瞬ぽかんとしたが、すぐににんまりと笑った。
「ロクシタンのチェリーブロッサムだよ。誰にキメるってわけじゃなくて、私がこの匂い好きなんだよね。つけてからの変化もいいし、気分アガるからさ」
雪奈は手首をすんと嗅ぐと、にまりと笑う。そしてその顔のまま、すぐに歌乃に視線を向けた。
「香水の事を訊いてくるなんて珍しいよね。やっぱ何かあったの、歌乃?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
そう言いながら、歌乃は雪奈の匂いにドキドキしていた。優しい春を感じる爽やかな甘さが鼻をくすぐる度、手足の力が抜けるような感覚に襲われる。いつもなら良い匂いするなぁと軽く思うだけで気にも留めないのだが、昨日の事があったためかやけに雪奈が美しく、妖艶に思える。
「まぁ、私のやつもオススメだけど、自分が一番アガるやつのがいいよね。もしくは好きな人の好きな匂いのやつ。ねぇねぇ、歌乃の気になっている人ってどんなのが好きとかわかる?」
「いやだから、そういうのじゃ」
助けを求めるように歌乃が凛音に視線を向けたのを雪奈は逃さなかった。楽し気に口元を歪ませて、より顔を寄せる。
「そっかそっか、やっぱ歌乃は凛音かぁ。凛音、美人だもんね。男にはもちろん、女だって人気あるし。私の友達にも、凛音なら付き合いたいって人もいるしさ」
「いや、そういうんじゃ」
歌乃はもう真っ赤になって、うつむくしかできない。
「ちょっとゆきぽん、もういいでしょ」
「凛音だって、歌乃の事はどう思ってるの? やっぱいつも一緒にいるから付き合いたいなって思ったりする事もある? 歌乃って凛音とは違うタイプだけど、可愛いもんね」
「もう、怒るよ」
凛音がやや強めにそう言うと、雪奈は苦笑いを浮かべて両手を軽く上げて降参の意を示す。話せばそうではないとわかっていても、目力が強めで金髪の凛音がそう言えば、やはり一定の迫力はある。
「ごめんごめん、調子乗っちゃった。だってほんとになんか二人ともいつもの感じと違うし、歌乃は香水の事を訊いたりするからさ。ごめんね歌乃、お詫びと言っちゃなんだけど、ちょっとこれつけてみる?」
雪奈がカバンの中に手を入れると、歌乃はうつむき気味のまま勢い良く立ち上がった。
「ごめ、ちょっと用事思い出したから行くわ」
そして振り返りもせず、そのまま早足で去って行く。
「ゆきぽんごめん、私も行くから」
凛音もまた荷物をまとめると、その背を追いかけるように出ていった。一人残された雪奈はふっと小さく笑うと、カフェオレに口を付けた。
「歌乃、待って」
凛音が呼びかけるが、歌乃は振り返らないですたすたと歩く。中央ホールへと向かっているためか、授業の合間だというのに人が多い。
「歌乃」
だけど歌乃も全速力で逃げていたわけではなかったので、中央ホールのすぐ手前で捕まえることが出来た。肩をつかまれているが、それでも歌乃は振り返らない。
「歌乃、もう私だけだから。お願い、話を聞いて」
そう言われてゆっくりと振り返った歌乃はちょっとだけ涙目になっていた。そして何か言おうとするが、言葉が出てこないのかほんの少し口を開けただけで、またうつむく。しかしそれでも伝えたい気持ちはあるらしく、意を決したように顔を上げる。だがそれも、凛音の顔を見るなりしぼんでしまったようだった。
雑踏の中、二人の間にだけ静寂が流れる。雑踏に喧噪、笑い声などがどこか遠くの世界のよう。水面に一滴の雫が落ちるのもわかりそうな中、凛音がぐっと歌乃に身体を近づけ耳打ちするように話しかける。
「多分……私も同じ気持ちだから、大丈夫」
すると歌乃が溜め込んでいたものを吐き出すように長い溜息をつく。
「そっか、よかった……よかった……」
途端に雑踏や喧騒がぐっと近くなり、人ごみの中にいるのだと改めて気付かされる。音が洪水となり、ほんのわずかに二人とも顔をしかめるが、全てが地続きの世界なのだとわかると嬉しさが徐々に湧いてきた。
「あのさ、場所変えて話そうよ。ここじゃ、話したくても話せないよね」
「まぁ、うん、そうだね」
凛音が寄り添い、歌乃に話しかける。ただそれだけの光景なのだが、凛音の方が五センチ背が高いため、おまけにキツめの顔をしている金髪の凛音と童顔の歌乃が傍で話していると、何も知らない人達から見れば不穏な物を感じてしまうのも無理はなかった。二人ともそれをよく知っているため、話す時は主にカフェで話している。ただ、大事な話となれば学内ではない。
「じゃあ、私の家に行こうっか」
「わかった」
凛音がそう言うなり、歩き出す。
「あっ、そうだ。待って」
その声に、何事かと慌てて立ち止まる歌乃。すると凛音はスマホを取り出した。
「たけぽんに今日の講義、出来る限り代返頼んでおく」
「今度おごるご飯、とんでもなく豪華になりそうだね」
凛音の家は大学から徒歩十分のところにある、セキュリティマンションの一室だった。二人は道中のスーパーで飲み物とお菓子を買った袋を下げながら、オートロックを解除してエレベーターに乗り込む。コンクリート打ちっぱなしで少し寒々しいけど、隣人達と交流することは無いので、エレベーターを降りれば部屋まで一直線。だから、その周囲がどうなっていて、何室あるのかも知らない。でも歌乃はともかく、凛音にしてもどうでもよかった。
「おじゃましますっと」
「汚れてるけど、てきとーに座ってて」
そうは言っても、部屋の中は割と整頓されており、流し台も綺麗だった。テーブルとソファの上に本が数冊、そして洗濯物が干しっぱなしになっている以外はゴミも落ちておらず、カーペットの上も綺麗にされていた。
歌乃がここに来るのは初めてではない。けれど何だか緊張してしまっているらしく、見慣れた部屋を何度も見まわしてしまう。
凛音の部屋はオフホワイトの壁に水色のカーテン、家具も割と黒っぽいものが多く、あまり女の子らしい雰囲気がしない。オシャレだったりカワイイ小物はあるけれど、そんなに主張をしていないのだ。壁だっても、家具屋で買ったようなキャンバス風の花の絵を飾っているだけだ。
初めて訪れた時に歌乃がその理由を聞くと、防犯のためらしかった。凛音が言うには外から目につくものをそんな風にしておけば住人が男か、もしくは彼氏がいると思われるとの事。自分の好みで完全に部屋を染めていた歌乃はその話を聞いた時、とても感心していた。
しかし一番目を引くのが、この本の量だろう。本棚に入らないくらい溢れた本の山はオシャレの雑誌や漫画ばかりではなく、昔の文豪の小説だったり今流行りの小説だったり、ビジネス書に自己啓発本、哲学書に心理学の本まである。見た目は金髪で派手、下手すれば怖そうに見えるのに読書家だという事は歌乃しか知らない。凛音は学校では本を読まないし、それにこの家に誰かをあげるのは家族の他に歌乃しかいなかったのだから。
「とりあえず喉乾いたね」
そう言うと凛音は袋からペットボトルのお茶を取り出し、飲み始めた。歌乃もそれに続き、レモンティーで喉をうるおす。
「凛音のそれって、なんだっけ?」
「ん、これ? ルイボスティーだよ」
「何それ? 意識たっか。美味しいの? って、今まで飲んでたっけ?」
「美味しいんだって。最近飲んでなかったけど、見かけたから買ったんだ。飲む?」
すっと差し出された飲み物をほんのわずか、歌乃は躊躇した。いつもなら自分から手を伸ばすのだが、今日に限ってその手がすぐに伸びなかった。だけど、断るのも変だと意を決し、それを受け取るなりくいっと傾ける。
「どう、美味しいでしょ」
「思ったよりは美味しかった」
嘘ではないが、本当でもない。口を付ける前から間接キスだと殊更強く意識してしまっていたため、味なんかわからなかった。ただでも、癖があまり無く、飲みやすかったのは確かだ。そして歌乃はじっと見ていた、凛音がまたそれを飲む瞬間を。
それから時計の音がやけに響いていた。互いに一息つくと、それから口がもう重くなってしまい、動けないでいる。凛音もすっかり固まってしまい、テレビやスマホで何かしらの音を鳴らす事すら忘れてしまったようだ。だから時計の音の他に、バイクや車の音も遠いながらも響いてくる。
「あの、さ」
沈黙の霧を最初に払ったのは歌乃だった。
「あれ見て、どう思った?」
「あれって、どの事?」
そうは言うが、凛音の眼はうすうす感づいているようだった。
「ほら、昨日のだよ。体育棟の階段の」
「あー……あれ、ね。いや、何と言うか、すごかったなぁって」
小さく口角を上げて冗談めかしてそう言う凛音は先程から髪の毛の先を指で軽くつまんだり、こすったりしている。そしてそのまま視線を歌乃に返す。歌乃もまた、前のめりになりすぎないよう、曖昧にうなずいては薄笑いを浮かべている。
「凛音はあれさ、どうすごかったの?」
「えっ……どう、って……」
少し考え込んだ凛音は少しだけ頬を朱に染め、口を開く。
「あんなとこで、女の子同士でするなんて、ねぇ」
「場所がって事? それとも女同士だからって事?」
自分も耳まで赤くなっている事を忘れ、歌乃がテーブルに乗り出すよう、ほんの少しだけ前のめりになる。
「それはまぁ、普通に考えて女の子同士だからでしょ」
「だけどさ、友達同士でもキスする人はいるでしょ」
囁きにどこか妖艶な熱がこもった。
「する、かなぁ。……まぁ、する人はいるだろうけど」
「じゃあさ、手は?」
「手?」
恥ずかしさからか、それとも確認のためかすっと凛音の視線が落ちる。
「うん。友達同士でも手を繋ぐとかはよくあるよね」
「まぁ、そうだね。手くらいは、ね」
凛音が言い終わるなり、すっと歌乃が手を差し出した。
「じゃあさ、ちょっと繋いでみてよ」
「ええっ……何か改めて言われてやると、照れるんだけど」
「大丈夫だって。手を繋ぐだけだよ。意識しすぎるから恥ずかしいんだってば」
「だからそういう事を言うから……ほら、これでいいんだよね」
おずおずと手を差し出し、ためらいがちながらもしっかりと凛音が歌乃の手を握った。しっとりと汗ばんだ手が、歌乃の手汗と混ざる。互いに緊張感と同時に、何だか妙な興奮や期待も脈打つように高まっていく。恥ずかしくてたまらないはずなのに、手汗滲むこの手を離せずにいた。
「何か……変な感じ……」
まるで独り言のような凛音の言葉に、短く歌乃がうなずいた。
「ねぇ、凛音」
「なに?」
「こんなテーブル越しに手を握るのも、何か変だよね」
「ま、まぁ、遠い握手みたくはなっているよね。普通はきっと、違うよね」
「普通って、どうだろ?」
「普通はまぁ……隣に座ったり、とか?」
「ただ隣に?」
「普通なら、くっつくのかな?」
「こんな風に?」
すっと手を繋いだまま席を立ち、そのまま歌乃は凛音の隣に座った。そしてもたれかかるように身体を少しだけ預ける。ややうつむき加減の凛音の頭が歌乃の顔の前に来ると、歌乃はうっとりと目を細めた。
「いい匂い……何使ってるの?」
「え、いや特には……あ、あのね、最近は美容室で買ったちょっといいシャンプー使ってるから、それかも」
「そう……すごい好き。ずっとこうしていたい」
すうっと歌乃が再度確認するように匂いを嗅ぐと、凛音がわずかに身をよじる。
「ちょっと、やめてよ」
「何で?」
「だって、恥ずかしいから。そういうのほんと恥ずかしいからやめて、ね」
顔を隠すように背ける凛音の耳はもう真っ赤で、歌乃が見逃すはずもなかった。歌乃がすっと頭付近から顔を離すと、凛音の背がどこかほっとしたような、残念なような感じを醸し出す。だから、今度は耳元に唇を近付けた。
「でもさ、友達だったらお互いにどんなの使ってるか確認はするよね」
歌乃の唇が凛音の耳の産毛をわずかに震わせる。
「まぁ……うん、そうかも」
「それに友達だったら……こんな風にもするよね」
吐息が舐めるように耳元から頬へと滑っていく。そうして身体をより近付け、逃げていた凛音の頬に歌乃が頬をぴとりとくっつける。
そこはもう、熱かった。
「友達だったらって、こんなの外国のドラマでしか観た事ないんだけど」
「自分でやっといてなんだけど、近いね」
ふふっと笑ったその吐息と、それに笑い返した吐息が混ざる。互いの熱が混ざり、またそれが互いに伝わった。それがなんだかとても淫靡で、言い訳を多用しながらも背徳へと進んでいるのがわかる。そしてその先へ、果てで溺れてみたいとも。
「ねぇ、凛音」
その名を呼ばれただけで、ぴくりと凛音が震える。
「友達だったらさ、キスくらいはその……するよね?」
「……ほっぺに?」
言い終わるが早いか、歌乃が凛音の頬に口づけた。柔らかな感触が歌乃、凛音の両方にちょっとずつだけ違った形で届けられる。互いの体温がわずかに濡れそぼったものから、そしてずっと心に決めていた相手から伝わると、もう理性の役目は終わっていた。
「友達だったらさ」
歌乃がすっと唇を離し、一言一言を置くように伝える。
「こうしても、大丈夫だよね」
そして潤んだ瞳の凛音がそう言いながらゆっくりと歌乃に顔を向けた。さらりと自慢の金髪が少し流れ、見た目にはそぐわない純情な瞳がわずかに涙に濡れているかのよう。上気した顔がとても淫靡で、その誘い文句が非情に上手くて、歌乃はもう考えるより先に身体を寄せていた。
そこから先はもう、言葉なんていらなかった。言葉なんてしょせん、確認作業なのだから。好き合って求める時に、野暮なもの。だから二人はその先を口にせず、流れに任せた。絡ませ合うのも、心をも裸にするのも、その果てに何を見出すのも全て。
最果てにあったのはもうこれ以上ないくらい満足気な、ただただ幸せな微笑み合いだけだった。
雑踏雑談は多いが、まだピークタイム程ではない。大学の学食はもちろん、カフェも人の入りは少ないが、それでも十数人は入っている。そしてもちろんいつもと同じような場所に歌乃と凛音の姿があった。互いにコーヒーを飲みながら眠そうに目を細め、けれど落ち着いたトーンでお喋りをしては時折くすくすと楽しそうに笑っている。
「でさぁ、この前見たツイッターで自転車の鍵を無くした人がね」
「あー、わたしもそれ見た。背負ってたら警察に尋問されるんだよね」
「そうそう、それ」
けらけらと笑っていると、すっと二人の前にわずかな影が差した。
「ほんと、いっつも一緒にいるよね。仲が良いを通り越して、飽きないのがすごいわ」
雪奈が呆れたような、同時に変わらない日常を嬉しがっているような笑みを浮かべていた。そして二人も同じような笑みを返す。
「ゆきぽんだって」
「そうだよ、いっつもこの時間に来るじゃん」
「私は次の時間まで空いてるだけだってば。てか、歌乃と凛音なんてほとんど講義も一緒なんでしょ。仲が良いを通り越して、もう夫婦でしょ。ほんともー、見せつけるようにラブラブなんだからさぁ」
顔を近づけ、からかうようにもう一度笑う雪奈。そうして二人からのツッコミを待つが、歌乃と凛音は顔を見合わせると、小さく微笑むばかりだった。
「やっぱ、そう見えるのかな」
「だってもう、友達なんかじゃいられないもんね」
眉根を寄せて、雪奈が確認するように顔を近づける。
「え、どゆこと?」
「いつも言ってたじゃん、お似合いだって。そういう事だよ」
驚いた雪奈がガタリと椅子の音を立てて、半歩分下がった。