シエル――ゾクス
シエルはよく教会を訪れるようになった。
それはセレネの存在が大きかった。
シエルにとってセレネは信徒として、その信仰において見本になるような人だった。
シエルは始めのうちはシベリウス教のこと、神のこと、信徒のこと、信仰のことなど、何一つわからなかったが、今は知識を持つようになっている。
シエルも今では一人で祈ることができた。
「シエルちゃん、今日も来ていたの。えらいわね。そんなによく教会を訪れる人ばかりじゃないのよ?」
とセレネ。
「私はこの教会が自分の家のように感じるんです。ここに来ると、神聖な気分に浸ることができますから」
「そうなの。ところでシエルちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「これから花を買いに出かけるんだけど、いっしょに花屋にいかない?」
「はい! ぜひ、ごいっしょさせてください!」
「フフフ……それじゃあ、いっしょに出かけましょうか。待っていて、今準備するから」
セレネとシエルは花屋「ネージェ(Neejche)を訪れた。
この花屋はネージェという女性が営む店だ。
「いらっしゃいませー! どのお花にいたしますかー!」
ネージェが優しくセレネとシエルに話しかけた。
「どういう花がいいのですか?」
シエルはセレネに尋ねた。
「そうねえ。教会の中に飾ってよく見える花がいいわね」
「いろいろなお花がありますよー! これなんてどうですかー?」
ネージェは一つの花を取り出した。
「これは花が紫ですね?」
シエルが言った。
「これは『アヤメ』っていうのよ、シエルちゃん」
「アヤメ?」
「それじゃあ、この花をもらいましょうか」
「はい、ありがとうございますー!」
「さあ、それでは教会に帰りましょうか、シエルちゃん」
「はい!」
「……」
その様子を影から見る男がいた。
男はセレネが花を買うのを見届けると、にやりと笑い、セレネとシエルの後を尾行した。
セレネは買ってきたアヤメを花瓶に入れた。
紫の花が鮮やかに咲いている。
花瓶にシエルは水を入れた。
シエルにとってこんな作業は新鮮だった。
シエルは勉学ばかりやってきたため、花を買ったり、花瓶に水をやるなどの行為は生まれて初めてだったのだ。
シエルの両親はシエルからあるがままの世界を奪った。
シエルにとってあるべき世界は科学者になれということだった。
しかし、セレネとの出会いがそれを変えた。
いや、セレネではない。
セリオンこそがシエルを変えたのだ。
「青き狼」という異名を持つセリオンは戦士だった。
いわば生まれたときから戦いのために存在してきた。
その生き方はシエルに大きな影響を与えた。
信徒としてシエルに影響を与えたのはセレネだった。
シエルにとってセレネは模範的な信徒だった。
同性ということもあって、シエルはセレネに相談することも多かった。
セリオンはそんなセレネとシエルのやり取りをほほえましく見ていた。
シエルが触れるべき、あるがままの現実があることはセリオンを喜ばせた。
シベリウス教にいればいずれあるべき現実との対面を強いられる。
それまではあるがままの現実に触れていればいい。
教会では貧しい人々や失業者のために軽い食事を提供している。
今日もセレネとシエルはそのための準備に追われていた。
シエルは料理のことも初めて知った。
シエルはこれまで料理を作ったことがなかった。
家では料理はメイドのシャーラが作るものだったからだ。
シエルはそれでも努力して料理を作ってみた。
料理の見た目は良くなかったが味はよくできていた。
そうセレネが言ってくれた。
テンペルは「食」を重視する。
テンペルは「食」で勝つ。
テンペルでは「食」は後方支援業務として必ず、学ばされる。
特に戦闘には参加できない一般信徒が行う。
これは男性でも女性でも必ず、訓練される。
演習でも「食」を考慮した計画が求められている。
「次はもっとうまくできるといいわね」
セレネはシエルの頭を撫でた。
そして食事出しに移った。
リーダーシップはセレナが執った。
今回は食事に栄養がある飲み物ヤーグルト(Jaagult)を出すことにした。
もちろん食事は栄養を考えて、前線の騎士たちが戦えるよう計算されていた。
シエルは並んで食べ物を受け取る人たちにヤーグルトを配った。
一通り作業が終わると片づけに移った。
そこに黒フードをつけた黒服の男が現れた。
「……あなたは誰かしら?」
セレネはこの男に敵意を向けた。
この男は貧しそうでもなく、失業者にも見えなかった。
「クックック! 俺はゾクス(Dzox)審問官サイーゼ様の部下だ」
「審問官……聞いたこともない言葉ね」
「そうだろう。当然だ。俺はそこの小娘に用がある」
「!? 私に!?」
シエルは驚いた。
そして身構える。
「シエルちゃんをどうするつもり? 言っておくけど、暴力を振るうようなら戦士を呼ぶわよ?」
セレネはゾクスをにらみつけた。
「闇爆!」
ゾクスが突然闇の爆発を起こした。
「ああ!?」
セレネは教会の壁に叩きつけられた。
「セレネさん!」
シエルがセレネに近づこうとした。
しかし。
「あ!?」
ゾクスがシエルを捕まえた。
「ククク、逃がさんぞ、小娘? おまえには俺といっしょに来てもらう」
「ま、待ちなさい!」
セレネが地面に倒れつつも。
「墓にゲートは開けておく。いつでも小娘を連れ戻しに来い!」
そう言うとゾクスはシエルを連れて去っていった。
「セレネ! どうした!?」
「うう……セリオン?」
倒れていたセレネのもとにセリオンが現れた。
「いったい何があったんだ! 説明してくれ!」
セリオンはセレネを立ち上がらせた。
「セリオン、ごめんなさい。私の力不足で、シエルちゃんがさらわれてしまったの」
「シエルがさらわれた? いったい誰がシエルをさらったんだ?」
「よくわからないわ。黒い剣士だった。審問官とかなんとか言っていたけれど……そう、確か名はゾクスって言っていたわ」
「ゾクス……聞いたことがないな」
「そして彼は言っていたわ。墓にゲートを開けておくと……いつでもシエルちゃんを取り戻しに来いって……」
「わかった。シエルは必ず俺が助け出す。セレネは休んでいてくれ」
セリオンはセレネに言われたとおりに墓地を訪れた。
墓地には誰もいなかった。
墓地は静かだった。
犬や鳥すらいなかった。
ただし、墓地の中心にゲートがあった。
「あれがゲートか。確認した」
セリオンはゲートの中に入った。
セリオンがゲートの中に入ると亜空間が広がっていた。
そこは雨が降っていた。
どうやらここは決闘場らしい。
「セリオンさん!」
「シエル、無事か?」
シエルはオベリスクに縄で縛られていた。
「ようやく来たか! 待ちくたびれたぞ! セリオン・シベルスク!」
黒服の男ゾクスがセリオンとシエルのあいだに入った。
「おまえがゾクスか! なぜシエルをさらった?」
ゾクスがにやりと笑みを浮かべる。
「俺はこうしておまえと戦ってみたかった! それだけだ! この女はおまえを本気にさせるために連れてきたんだよ!」
ゾクスは長剣を抜いた。
「構えろ! 娘の命が惜しいのならな! この俺と決闘しろ!」
「……いいだろう。俺が相手になってやる」
「ヒャハー! 俺はおまえと戦ってみたかったんだ!」
セリオンは大剣を構えた。
ゾクスの剣撃。
すさまじいスピードで剣が振るわれる。
それをセリオンは冷静にガードした。
戦いはゾクスがセリオンより強いように見えた。
二人は剣による攻防を演じた。
「そらそらそら! どうした! 怖くて反撃できんか!」
ゾクスが一方的に攻めているように見えた。
戦いの流れはゾクスに味方しているようだった。
セリオンは反撃せずにただガードしていた。
ふと、セリオンが鋭い瞳を見せる。
ゾクスは全身から冷や汗を出した。
セリオンの瞳は決しておびえた者の目ではない。
牙を持つ狼の目だ。
ゾクスはその目に恐怖を感じた。
それと同時にそれを打ち消そうとした。
自分が他者に恐怖を抱くなどあってはならないことだ。
ゾクスはいっそうセリオンを攻めようとした。
その時――
セリオンが強烈な一撃で反撃してきた。
その一撃はゾクスの長剣を切断した。
ゾクスは驚愕した。
まさか、ここまでセリオンがやるとは思っていなかったからだ。
セリオンの斬撃がゾクスを襲う。
しかし、ゾクスは折れた剣でセリオンの一撃を止めた。
正確にはゾクスから流れる闘気がセリオンの一撃からゾクスを守った。
「ククク! 剣を折ったくらいで俺を倒せると思ったか? 甘いわ! これは我が闘気。『邪炎気』だ!」
ゾクスが口元を歪めた。
「それがおまえの闘気か。ならば俺も見せよう。この俺の闘気を!」
セリオンは全身から蒼白い闘気を放出した。
冷たい、凍てつく闘気がゾクスを圧倒する。
「くっ!? これで終わりだ! 邪炎剣!」
ゾクスがセリオンに斬りかかった。
セリオンはそれ以上のスピードでゾクスのわきを通り過ぎた。
「フハハハ! どうやら不発に……!? がはっ!?」
セリオンの一撃はゾクスに致命傷を与えた。
「これが俺の一撃だ」
セリオンは冷たく言い放った。
セリオンはもうゾクスを振り返らなかった。
「くそ!? この、この俺様が!? こんなところで……」
ゾクスは膝を地面につき、そして倒れた。
セリオンはシエルのもとに行きその縄を切った。
「うわーん! セリオンさーん! 怖かったよー!」
シエルはセリオンに抱きついてきた。
シエルはセリオンの腕の中で泣いた。
「よしよし。ゾクスは倒れた。この亜空間はじきに崩壊する。脱出しよう」
シエルはセリオンの後に続き、ゲートの中に入った。二人は無事に教会に帰ってきた。
「シエルちゃん!」
「セレネさん!」
シエルとセレネは抱きしめあった。
そうして互いのぬくもりを感じる。
「よかったわ、シエルちゃん。無事でいてくれて! ありがとう、セリオン。あまたのおかげだわ」
セリオンは優しいほほえみを浮かべた。