泥に沈め
とにかく逃げねば。
フラスコの足は町から遠ざかっていく。
街中を戦場にするわけにはいかない。もし狙いが自分であるのなら。
案の定怪人はフラスコを追ってくる。
屋根から屋根へ足を延ばして追ってくる。
異様な動きに全身総毛立つが、心を静めて対処を探る。
露出して肥大化している目などに刺激を与えて、怯んだ隙に手足を叩き切る。
しかし手元に武器は無い。ついつい町から遠ざけることに専念したせいでとんだピンチだ。
だがやるしか無い。泥の中でフラスコは静かに腹を括る。
その頃である。
ベッドの中でアリサは、何かが腹の内で蠢く感覚を覚えていた。
結局、なあなあにしたままフラスコに甘えてこの家に転がり込んでしまったが、
この選択は正しかったのだろうか。
あの黒雲は二人とも目にしたはずだ。
それなのに何も言わない。クラーレはまるで姉のように接してくれる。
フラスコは解決のためにコルブッチへ旅立った。まるで散歩のように気楽な素振りで。
私、取り残されてる。あの時は横並びで戦っていたはずなのに……
フラスコはアリサを責めることは無いだろう。
それが、辛い。
泥の森に霧が出て来た。
怪人は目を伸ばし、耳を伸ばし、鼻を伸ばしてフラスコを探りながら進む。
バキっと枝が折れる音がする。
怪人は一瞬で音の地点まで飛び込んで腕を振り下ろす。
が、腕が泥に沈んだだけだ。
また離れた場所から木の折れる音がする。
同じように音に飛び込む怪人。
彼に与えられたのは反応だけだ。
感覚器官に引っかかった、フリー・フラスコを動かなくすること、それだけが目的だ。
この目的を抱いた瞬間何て分からない。誰かに指向性を与えられたのかもしれないが分からない。
だがフラスコを殺すことでしか自らの存在を示すことは出来ないということは確信を持って言えよう。
瞬間、彼から音が奪われた。
泥の中、腐った木々をなぎ倒して暴れ狂う怪人を、顎まで泥に浸かったフラスコが観察している。
怪人の足元には、伸びきった瞬間を切り落とされた耳がビクビクと跳ねている。
フラスコは泥の中の短剣を握る。
ここは魔王を討った地。
多くの兵士が剣を握ったまま泥に呑まれたのだ。
得物に不足は無い。
泥のなかを暴れた怪人は疲労を覚えていた。
伸びた目が中々動かない。
少し持ち上げようとするとこんどは鼻の力が抜ける。
巨大な顎が半開きになり、口から紫がかった涎が垂れる。
そして視界が失われた。
何のためにこいつと戦ったんだ?
誰が俺を動かした。
だらりと泥に落ちた耳をスタンドマイクのように掴んだフラスコは、怪人に問う。
「お前は誰だ?」
俺は?
そうだ、魔王を討ったんだ。
小さな家が与えられて、麗しく従順な少女が心も体も迎えてくれた。
それからどうした。
「人間の言葉が分からんわけじゃあるまい。叫んだもんな」
そうだ。ベッドで彼女と向かい合ってキスをした……ら
彼女の舌と一緒に、黒雲が洪水のように体に流れ込んで来た。
フン、中々良い体だ。流石は私のはらわたを引きずり出して殺した男なだけはある。
存分に使わせて貰うよ。勇者サマ。
怪人の顎が縮んでいき、成人男性程度の大きさにまで戻る。
「俺を殺してくれ……もう、骨の髄まで奪われちまってんだ」
フラスコが剣を構える。
「何処に降ろせば楽に死ねる?」
怪人の体が縮んでいく。
後に残ったのは、裸の男だけだ。
「名前は?」
「クラウス」
裸の男は堂々と答える。
「覚えておこう。魔王を討った勇者よ」
フラスコが、勇者クラウスの首を刎ねた。
断面からは黒雲が溢れ出し、何処かへ逃げてゆく。
フラスコは山間に消えてゆく黒雲を見送ることしかできなかった。
例えそれが、我が家に向かっているように思えても。