8話 鏡の中へようこそ
「グレイ様。お食事の用意ができたそうですがどうなされますか? 食堂にこられますか? それともこちらで?」
扉の向こう側で召使いが遠慮気味に声をかけている。
きっと、母親である王妃を泣かせた話は屋敷中に伝わっているのだろう。
少年に対し、まるで腫れ物にでもさわるような態度はいつものことだった。
『もうすぐ死ぬんだろう可哀想に』と思われるか『また怒らせたら後が大変だ』と思われるかのどちらかだ。
どちらの感情が根底にあったとしても、対応は同じなのだから、少年にしてみれば、相手がどう思っているかは、あまり関係のないことかもしれない。
「部屋の前でいい」
「……かしこまりました」
食器をのせたワゴンを運ぶ音がしばらく聞こえたが、やがて静かになった。
「そういえば、シオン姉さんはまだ帰らないの?」
「いえ、お帰りになられております」
「じゃあ、なんで僕のところへ来てくれないの」
「それは……その……お食事を先に取られるということで……」
「嘘はやめてくれないか」
しばらくの沈黙があった。意を決したかのように召使いは、生唾を飲み込んだ後発言した。
「えー……その……申し上げにくいのですが、どうやら他国からナオト様とおっしゃるかたを連れてこられて、一緒に王様に謁見しにいかれたとかで……」
「ナオト……?」
少年は、ゆっくりとベッドから起き上がり、目眩に襲われながらも、なんとか部屋の扉にたどり着く。力の入らない手で扉を開けると、召使いを睨み付けた。
「……もういい。さがれ」
「はっ、かしこまりました」
召使いは逃げるように部屋の前から去っていった。
その後には、料理が山のように盛りつけられたワゴンだけが残された。
「またシオン姉さんは、ナオトとか言う奴と一緒にいるのか……」
よろよろとワゴンに歩み寄ると、肉と野菜が彩りよく並べられたメインディッシュの大皿を手に取った。
「だいたい、どうして、いつもこんなに沢山の料理を作るんだ」
少年は、わき上がる憎しみをぶつけるように、大皿を料理ごと壁に投げつけた。
派手な破裂音が鳴る。
皿は砕ける。
料理は縦横無尽に飛び散った。
「どうせ食べないのに」
スープの入ったカップソーサーに、サラダボウルにと、次から次へと料理を壁に投げつけていった。
「どうせ死ぬのに、食べたって意味がないんだよ!」
すべてを投げつけ終わり部屋に戻ると、力尽きたようにベッドに倒れ込んだ。
少年は首にぶら下げた懐中時計を手に取り、天使の猫が刻まれた蓋を開けた。
小さな鏡には、やせこけた茶色い猫の姿が映っている。
「シオン姉さんだって、どうせ、もうすぐ死ぬ僕なんかより、ナオトとか言う奴のほうが大事なんだ」
頬には無意識のうちに涙がこぼれ落ちていた。
「なんでだよ。シオン姉さんのこと一番大好きなのは僕なのに……どうして、ナオトとばっかり仲良くするんだ!」
乱暴に鎖を引きちぎり、懐中時計をベッドの上に投げつけた。
〈だったら、そのナオトをこの世界から消しちゃえばいい〉
茶色猫の姿をした少年の大きな三角耳に、憎しみに満ちた声が聞こえてきた。
「誰だ?」
警戒するように耳を伏せつつ、周りを見回すが、誰もいない。
〈やぁ、グレイ。初めまして。オレはずっと待っていたんだ、この時を〉
どす黒い声は、懐中時計の蓋に仕込まれた、小さな鏡から聞こえていた。
〈オレもナオトが大嫌いなんだ。だから、オレと協力して奴を始末しようよ〉
「始末……? ナオトを……」
茶色猫の姿をした少年は信じられないという風に、小さな鏡を見つめている。
〈でもその体じゃ、動くのも大変だろう? だから、この世界へおいでよ、体を捨てて〉
「体を捨ててって……どういうことだ!」
〈どうせもうすぐ死ぬんだろう? だったら、早いか遅いかの違いだ。つべこべ言わずにこっちにこい!〉
鏡の中から黒い手のようなモノが這い出てきた。
「う、うわぁっ!」
慌てて逃げようとしたが、茶色猫の姿をした少年は、その黒い腕に捕まり、小さな鏡の中へ吸い込まれていった。