6話 ミルクキャラメルは美味い
銀色猫は怪訝な顔でナオトを見ている。
「さぁな。使う者の語彙と想像力しだいで無限となるコトノハを、たった一日で全て使い切った愚か者は、今のところ前例がないからな。お主がその第一の愚者にならんことを祈っておるぞ。では、達者でな」
銀色猫は立ち去ろうとした。が、二、三歩歩きだした所でバタリと横に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫?」
ナオトがあわてて駆け寄った。
それとほぼ同時に銀色猫から、ぐーぎゅるるぅ……と大きな腹の鳴る音が聞こえた。
少し吹き出しそうになるのをナオトは必死にこらえようとした。もちろん、表面上はあくまで無表情で。
ふと思いついたように、制服のズボンに手をいれ、ポケットをさぐる。
溶けかけのミルクキャラメルが一つ指に触れた。
「よかったら、これ」
銀色猫は警戒しているようだ。
「大丈夫、毒とか入ってないから」
もう一つ残っていたキャラメルを、自分で舐めてみせた。
「ね。大丈夫でしょ?」
銀色猫は小さくうなずいてから、前足で器用に受け取ったキャラメルを口に含み、旨そうに目を細めた。
「すまぬ……久しぶりに他人のコトノハを使ったのでな。さすがに年老いてからやることではないな。それにしても、この茶色いネチョネチョしたモノは旨いのぉ。とおい昔、どこの誰だかはよく思い出せんが、我がよく知っている者が、これと同じものを食っておったのを見たことがあるが、こんなに旨いものだったとは……できればもう少し……」
銀色猫は、追加の一個をねだるような視線を投げてきた。
「ごめん。さっきのが最後だったんだ」
ナオトはポケットを裏返し、何も入ってないとアピールした。
「そうか……残念だ」
本当にしょんぼりした感じで銀色猫はうなだれた。
ふと、遙か遠くの方で鐘の音が聞こえた。
「いかん。緊急集合の音だ。長居をしすぎたようだ。我は行かねばならん」
銀色猫はヨロヨロと起きあがり、鐘の音が聞こえてきた山並みを見つめた。
「さきほどの茶色いネチャネチャとやらで、我とお主の貸し借りは帳消しということでよろしいか?」
ナオトはうなずいた。
「お主は素直で良い心を持っておる。だが、この界隈では、それを利用しようとする者もおるやもしれぬ。気をつけることだ」
手で指さすかわりに、長くしなやかなシッポで、ビシっとナオトのほうを指し示した。
「それでは、また会うことがあるやもしれぬ。会わぬかもしれぬ。お前は自分に恥じぬよう生きるが良い。では、達者でな」
「ちょ、ちょっと待って」
その声に足を止め、振り向いた。
「あなた……誰ですか?」
相手は少し笑ったようだ。
「普通は聞く側が先に名乗るのが礼儀というモノだがな」
「ごめんなさい……。ボクは……武者小路ナオト」
「むしゃのこうじなおと……えらく簡素な名であるな」
「そうかな? むしろ面倒くさい名字だって言われるよ」
「その程度で面倒くさいとは、なんとも横着な種族であるな。まぁよい。我が名は『アヲ・∀∠⊥∫∋∇∽㊖⊃∴㊤∧∃∫㊥∩⊇⊥≒√∬∋∈∀∴㊤∇∂∝∩㊤∋∠∧∃∞∪∠⊆∃∫∀∇∧∃⊇⊥∴∫㊥∴∩∽⊇⊂⊥≒⊃』である。それは名であり、目的であり、意味でもある」
ナオトは頭がクラクラした。
「長い……難しい……名前……ですね」
——最初の『アヲ』以外何ていってるのか聞き取れなかったよ。
「お前が短すぎるのだ。この世界での名前というモノは、全てを表しているのが普通なのだ」
「えーっと、アヲ……えぼういじぇのがおぢうあんがぽえ……?」
銀色猫がニヤリと笑う。
「なんだ、そのデタラメは。そもそもお前は誰かに出会うたびに、相手の名を全て羅列するつもりか?」
「え?」
「お前のやり方では、名を呼びかけあうだけで一日の大半が終わってしまうな。そのくらいは考えれば分かるであろう?」
銀色猫が鼻で笑う。
「我の通り名はアヲだ。普段は、アヲと呼ぶが良い」
「(銀色をしているのに、名前は青なのか……。なんてややこしいことを)」
ナオトが小さく独り言を言った。
「何か言ったか?」
「いえ……なんでも」
音がするほど激しく首を横に振ったナオトを見て、アヲは大きなため息をついた。
「こんな簡単なこともわからないようでは、この先が思いやられるものだな……」
銀色猫アヲは、少年を上から下までじっと観察した。
「どうやらお前は、この国の住人では無いようだが、なぜ、この国へ来た? 今日は空曜日ではないし、空から降ってきたわけではなさそうだが……」
ナオトは、不意に思い出した。
「……そうだ! シオンだ! ボクはシオンと学校にいて、それでエレベーターで、ボクが名前間違えて、ガタガタってなって、ギューンってなって、ぐわーってなって……」
「おちつけ! 何を言っているのか、さっぱりわからんぞ。シオンというのは誰のことだ? ここにはお前一人しか見当たらんが」
その時、稲光のような瞬きと轟音が目の前に巻き起こった。
「うわっ……」
ナオトが眩しさを腕で防ごうとした時、突然、何かが飛びかかってきた。
「……!」
声にならない悲鳴をあげて、ナオトは息を止めたまま、その物体を見た。
茜色の瞳。
三角に尖った大きな耳。
耳元に鮮やかな赤い差し色の入ったフサフサの真っ白な毛並み。
ピンク色でぷっくりとした可愛い肉球。
黄金比率さながらの、しなやかな腰からお尻への丸みを帯びたライン。
すっと細長く、意志を持っていそうな知的な白いシッポ。
今までに見たことがないくらい、とても綺麗な猫だった。
「ナオト! ブジで良かった。ここにイタのだな!」
それは聞き覚えのある声だった。
だが目の前に該当する人物はなく、明らかにその白赤猫から聞こえてくる。
「予備のキューブを探しておっタラ、時間がカカってしもウタ」
——間違いない。この片言日本語は……。
「シオン? どうしてこんな……」
続きは口にできなかった。