4話 グレイと懐中時計
「グレイ。お薬の時間ですよ」
枕元から聞こえる優しげな声を聞き、グレイは目を覚ました。
豪華な造りで無駄に広々とした部屋に、ぽつんと寂しげに置かれた金細工の美しいベッドから、ゆっくりと体を起こす。
「ねぇ、お母様。シオン姉さんが帰ってくるのは、何時ぐらい?」
「さぁ……いつだったかしら。覚えてないわ」
部屋に入ってきた母親は、粉薬をオブラートに包む作業をしていた。
「そんなことより、グレイ」
母親はグレイの胸元を見て、眉間に皺を寄せた。
古びた懐中時計が首からぶら下がっている。
純銀製のアンティーク時計には、蓋に天使の羽根がついた猫の姿が彫り込まれている。その蓋を開けると中に小さな歯車がいくつも軋みあっているのがガラスで透けて見える。
手巻きで動く小さく繊細な機械仕掛けは、今なお規則正しく動き続け、カチコチという小さな音を奏でている。
それはまるで心臓の鼓動のように。
自分の心臓がいつ止まるともしれぬことを知っていたグレイは、その懐中時計が自分の心臓に力を与えてくれると信じ、いつしか寝ている時も肌身離さず身につけるようになっていた。
しかし、そんなグレイの気持ちも知りもせず、母親はたんなる小汚い金属の塊を見るかのような視線で見下ろしていた。
「その懐中時計をいつまで身につけているつもりですか? お体に悪い影響があるかもしれないでしょ? いいかげん、捨てなさい」
「悪い影響ってなんだよ。僕は気に入っているんだ。いくらお母様に言われたって、捨てるつもりはないよ!」
懐中時計を大事そうに握りしめる。
「でも、それはシオンが拾ってきたモノなのでしょう? 十歳の誕生日プレゼントに拾ってきたモノを渡すなんて、どういう神経をしているのかしら? しかも空曜日に空から落ちてきたモノだというじゃないの。そんな得体の知れないモノを身につけるなんて、気持ちが悪いと思わないの?」
「うるさいな! お母様はシオン姉さんが嫌いなんでしょ? だから、僕がシオンからもらったモノをずっと大切にしているのが気に入らない。ただ、それだけなんでしょう?」
息子の言ったことが図星だったのか、母親はハッとしたように口をつぐんだ。
「お母様はどうして、そんなにシオン姉さんを目の敵にするの? どうして、僕と同じように愛してあげないの?」
グレイの真摯な眼差しに絶えきれなくなり、母親は目をそらした。
「シオン姉さんがこの時計と同じように、空から落ちてきた、空曜日の住人だから?」
母親は驚いたようにグレイを見つめた。
「グレイ……どうして……そんなことを言う……の」
「僕だって、いつまでも子どもじゃないんだ。病気だからって、ただベッドで寝てるだけじゃないよ。いろいろ気になったから調べたんだ。二人になかなか子供ができない時、お父様は空曜日にシオンを拾ってきた。そうなんでしょ? だから僕が生まれてきてから、本当の子供じゃないシオン姉さんが疎ましく感じるようになった……そうなんでしょ?」
「そんな……いいかげんな……話を……誰に聞いたの……」
「使用人達が噂してたんだ。真夜中に、母上の姿を礼拝堂で見かけるって。誰もいない懺悔室で『あの血のような赤い瞳が、いつしか不幸を呼び寄せる象徴に感じられるようになり、娘を愛すことができません。お許し下さい』って何度もお祈りをしている姿を見たって言ってたんだよっ!」
母親は大きなため息をつき、こめかみを押さえた。
「あなたの言っていることは……全くのデタラメです。……シオンは……本当の子です」
「でも、シオン姉さんだけ瞳が赤いのは、どうして? 家族で一人だけ、毛が真っ白なのだって、変じゃないか!」
「それは……お医者様が言うには……極まれに、アルビノという突然変異で、赤眼白髪の子供が……生まれることがあるそうです。それ以上のことは……私には……わかりません」
「そんな説明は、もう聞き飽きたよ。 嘘で僕を騙すのはもうやめて! お願いだから、本当のことを言って!」
グレイは、自分が求めて止まない『本当の答え』を一言も聞き漏らすまいと、母親をじっと見つめていた。
しかし、目をそらしたままの母親の頬に、一筋の涙がすべり落ちただけだった。
「ごめんなさい……息子にこんなことを言わせてしまうなんて……母親失格ね」
母親は静かに部屋を出て行った。
グレイは冷ややかな視線でそれを見届けると、母親が用意した薬をゴミ箱へ投げ捨てた。
こみ上げる怒りを抑えるかのように何度も深呼吸した。
ようやく冷静な感覚を取り戻した時、強く握りしめていた手を開いた。
堅くて冷たい無機質な懐中時計を、壊れモノを扱うかのように丁寧に手の平で撫でさする。
蓋の部分に刻まれた翼のある猫が、こちらをじっと睨んでいるようにさえ感じる。
「またお母様を泣かせてしまったよ……」
静かに蓋を開けると、いつものように規則正しい歯車の動きと音が繰り返されている。
グレイはつねにこうして懐中時計に話しかけていた。
辛いことがあるたびに。
悲しいことがあるたびに。
まるでそれが唯一の友達であるかのように。
「ねぇ、どうして僕はこういつも、人を傷つけることしかできないんだろうか……ねぇ、教えてよ……」
誰も答えない。
蓋の裏にはめ込まれた小さな鏡には、グレイの寂しそうな眼差しが映し出されているだけだった。