3話 噛みました
彼女が説明をしながらナオトを引っ張って廊下を歩く。
「いきなりワタシの国へ行くのは、体に負荷がカカル恐れがある。とりあえず、十センチ程度の移動をタメシテみよう」
「十センチ移動って……どういうこと?」
「なーに、目の前にいるワタシに向かって少し移動するダケだ。心配シナクテいいぞ。ジツニ簡単なことだ。ドンクサイ奴でもデキる初歩中の初歩レベルだ。大丈夫ダ」
「心配もするし、簡単とは思えないし、大丈夫と言われても……」
——もしこれができなかった場合、ボクは、きんぐおぶドングサイになるのか?
そんなことを考えながら、ナオトは囚われた宇宙人グレイのように、エレベーターの前に連れてこられた。
だが、あの狭い箱に近づくだけで、ナオトはいつも緊張する。
もちろん、生後数ヶ月に遭遇した事故というのが、エレベーターの落下事故だったからだ。一緒に乗っていた父親と飼い猫が死亡し、ナオトだけがベビーカーがクッションとなり、奇跡的に助かったという過去の悲惨な事故だった。
とはいえ、本人は赤ん坊だったので、恐怖の記憶自体はほとんどない。だが、大きくなって施設の学園長から聞いた情報のせいで、必要以上に怖くなってしまった……というのが本音だった。
まだ中に入ってもいないのに、エレベーターに対する拒否反応が発動し、極度の緊張状態に陥り、手の平はすでに汗まみれだった。
普段なら絶対にエレベータになんか乗らなかった。どんな場所でも非常階段でさえ探し出して、一歩一歩自分の足で移動しただろう。
「あのさ……その……絶対にエレベータじゃないと……ダメなの?」
懇願するように彼女を見た。
実は、エレベーターが本気で怖いということは、周りの誰にも言っていなかった。
彼女にさえも。
なぜなら、ナオト自身の過去を、例えば事故の被害者で天涯孤独で……と、いろいろ余計なことまで説明する羽目になるからだ。
そんなことを一度でも口にしたら、相手は永遠に『同情』というフィルターを通してしか見てくれないとわかっていた。
だから、学校では一切自分の過去は話していない。
仲良くなった彼女にすら話していないのは、仲良くなったからこそ、よけいに同情されるのがいやだったからだ。
とりあえず、今まではなんとかバレずにすんでいる。
学校側から『生徒は使うな』という通達が出ているので、学校内でエレベータを使わないのは、さして不自然ではなかったからだ。
「もちロンだ。エレベータが一番無難ナノだ。サッキの話を聞いていなカッタのか?」
ナオトは首を横に振る。
「ワカッテいるなら問題ナイ」
ちょうど良いタイミングでエレベーターが十三階に到着し、ドアが開いた。
彼女はためらうことなく中に入る。
それを見ながらその場に立ちつくしていたナオトは、自分の足が少し震えていることに気づいていた。
「どうシタ?」
小さく首を傾げて待っている彼女は、いつも以上に愛らしく見えた。
——最後なんだ。
強く握りしめた両手で、震える足を叩いた。
——もう会えなくなるんだ。
ゆっくりと深呼吸をした。
——騙されたっていいじゃないか。足が震えてダサくても別にいいじゃないか。
——やらなくて一生後悔するよりずっとマシだ。
ナオトは意を決して、エレベータの中へ足を踏み入れた。
彼女が一階のボタンを押すと、ドアが静かに閉じ、下へ降り始めた。
「まず、キューブを握ッテ」
ナオトは言われた通りにする。
「目をツブってワタシの姿をイメージしろ」
すぐ側にいる人間を、頭の中で思い描くというのが、少し変な感じだとナオトは思ったが、言われた通りにした。
「さあ、ワタシの名を呼べ!」
——今まで、一度だって、まともにフルネームを呼んだことなんかないのに、なんでこんな状況で呼ぶはめになるんだ?
——つーか、あんな長い名前を他人が覚えていると思っているあたりが、いかにも彼女らしいというか……。
「そんなこと言われても、フルネームなんか覚えてないよ」
「では、コレを読めば良い」
彼女は生徒手帳を手渡してきた。
表紙の名前を書く部分には収まりきらなかったフルネームがギリギリまで記され、裏にも続きのミドルネームがずらりと書き連ねてある。
——はたして、間違わずに読めるだろうか。
——滑舌には自信がない。
——というか、すでに目をつぶってイメージしろといっていた注意事項と矛盾するけど、それはどうなんだ?
「早く! 下にツイテしまうではないか!」
エレベーターは、もう既に半分以上下降している。
——確かに、時間がない。
「わかったから、せかさないでよ!」
この大事な場面で万が一間違えでもしたら、確実にグーのパンチを食らわしかねない勢いで彼女が睨んでいる。
実は彼女は一度、街で絡まれた時、チンピラを一撃で気絶させ病院送りにした過去がある。
もし、それを今受けたらと思うと……。
——助けて下さい滑舌の神様! ボクはまだ死にたくはありません。今だけは、噛まないようにお願いします!
そんなことを思いながら、ナオトは叫んだ。
「シ……シオン・キアロ・ノイ・ルフト・チヒ・メマリ・ヌワ・エニヨ・ソモ・コレナ・ウテラ・ヘユ・ヤハク・ツヲミ・タホ・ケヒチ・ネセ・ムスカ!」
——よりによって、最初の部分で噛んでしまった!
——だが、きっと、ばれてないはず、大丈夫だ。
ナオトは必死に自分に言い聞かせながら、無理矢理最後まで言い切った。
その瞬間、エレベーターが激しく振動し始めた。
「様子が変ダ。イツもと違う」
彼女が険しい表情で、周りを警戒している。
「モシかして……最初の部分をシシオンと言わナカったか?」
ナオトは恐る恐るうなずく。
「ワタシのファーストネームはシオンだ! シシオンじゃナイ!」
彼女がものすごい剣幕で、ナオトの握りしめている手を掴んだ。
「早くキューブを捨てルンだ!」
慌てて手を開いた。
だか、そこにはキューブは無かった。
「だメダ! 送信合図が受けトラレタ後だ! もう遅い! これではドコヘ飛ぶかワカラないぞ!」
「ちょっ、そんな無責任なっ! うわ……っ!」
それが留学生シオン・(長いので省略)と交わした、最後の言葉だった。
彼女の鉄拳のかわりに、真っ黒い闇に殴られたような衝撃を受けた。
そのすぐ後に、体がどんどん細長く伸びる感触に包まれた。
やがて、体があり得ない方向へねじれているような恐怖に襲われた。
——ああ、そういえば、帰る方法を聞いてなかった。
そう思った時には、既に遅かった。
——また門限に遅れたら、今度こそ晩ご飯抜きだな、確実に。
——今日はボクが大好きなハンバーグの日なのに……。
こんな状況でも、どうでもいいことは絶えず頭に浮かぶ。
人間とは不思議なモノだ。
薄れ行く記憶の中で、ナオトは聞き覚えのある声を耳にした。
〈待っていたぞ、ナオトよ〉
〈オマエがこちらへ来れば、オレ様は、自由になれる〉
〈長く果てしない無の時間が、ようやく終わりを告げるのだ〉