2話 不思議なキューブ
——たった一文字で一番沢山の意味……?
ナオトは不意を突かれて言葉に詰まる。
「うーん。なんだろうな……考えたことなかった、そんなこと」
「十四年も日本人をヤッテきて、ソンナ大切なことも知らないとはオドロキだな」
たった一年しか滞在していない留学生に日本語の謎を教えられるなんて、ある意味屈辱的でもあった。
だが、すぐに勝利を予感した。彼女の手には日本語の辞書が握られている。
——あれを見ればすぐに答えが……。
ナオトの視線と考えを察知した彼女は釘をさした。
「カンニングはナシだ」
「えー?」
辞書はナオトの手の届かない場所へ遠ざけられた。
「ワタシは、留学生ダ。辞書をもってハンデとするナラば、ナオトにはコレは必要ナイでアロウ。ナンと言っても、ナオトはレッキとした日本人なのデアルからナ」
「そんな……不公平な……」
最終手段を絶たれてしまったナオトは、絶対に自分で答えを探そうと、必死にあるはずのない辞書、いわゆるエア辞書を頭の中で思い浮かべた。
「一文字で沢山の意味かぁ……アは少なそうかな……イは結構あるかも。でも、一番多いかっていわれると……ウとかエは無いなぁ……うーん、どれのことだ?」
もちろん、そんな答えは、エア辞書のどこにも載ってない。
思考が停止しているナオトを、彼女はキラキラした目で見つめている。
答えを知っている立場はさぞかし楽しかろう。
その分考えている人間は苦しむはめになるのだが。
「では、ヒントをやろう。まず、第一のヒント。ワタシの好きな文字でアル」
「……知らないよ、そんなこと言われても。一回も聞いたことないし。普通は自己紹介で自分の好きな文字とか言わないでしょーが」
「第二ヒント。イチバン強い文字でもアル」
「強い……? それはまたえらく抽象的な……」
「最後は、大ヒントだ。ワタシの名前にも含まれてイル。これでドウだ?」
「全然ヒントじゃないよ。君のミドルネームは十個以上あるじゃないか!」
声をあげて彼女は笑っている。
どうやら確信犯のようである。
「では、答えは、また会うトキまでの宿題というコトにしヨウ」
「そんなぁ……。このモヤモヤをどうしてくれよう……」
「自分で考えるコトだ。そのほうが、答えがワカッタ時、気持ちが良いカラな」
嬉しそうにナオトの肩を叩いた。
「サテ……もうスグ時間だ。ワタシは国へ帰らネバならん。どうも国の情勢が良くナイらしいノデな。予定ヨリ早い帰国でアルが仕方がナイ。ナオトと離レルのは残念ダがな」
——ボクだって残念だ。
——そんな一言で片付けたくないぐらい、言葉にしようがない気持ちでいっぱいだ。
心の奥で何かギュッと掴まれたような感覚に陥っていた。
「ソウだ……いずれオマエもワタシの国に来たらイイ」
「来たらいいって言われても……どうやって? うちの貧乏学園じゃ生活費で精一杯で、海外旅行するような金なんか、これっぽっちもないよ」
いくら金持ちガキども御用達の私立中学に通っていると行っても、ナオトは今時流行のセレブとは対角線上の点ほど、永遠に交わらない存在だった。
まず、母親はナオトを出産後、持病が悪化し死亡。
引き続き、父親はその知らせを聞き、赤子のナオトを連れて病院に駆けつける際、エレベーターの落下事故で死亡。
という嘘のようだが本当の大不幸怒濤連鎖みたいな条件を、ゼロ歳児の時点で一生背負う羽目になったナオトは、両親とも孤児院の施設出身者ということで、引き取ってくれる親戚もなく天涯孤独の身になった。
だが両親が育ったのと同じ星空学園という貧乏施設の学園長が、両親と同級生だったということもあり、昔のよしみでなんとか引き取ってくれることになり、細々ながらも今まで生きてこれたのだった。
それなのに、こんな私立中学に入学できたのは、あくまで父とナオト自身が事故に遭ったおかげという皮肉な事情があった。
つまり、手っ取り早く言ってしまえば、エレベーター落下事故を起こした欠陥製品を放置していた企業が、たまたまこの小中高一貫の私立学校を経営していたというだけのことだ。いわゆる大人の事情と言う奴だ。
卒業するまで学費全額免除というスペシャル待遇を、家族の命と引き替えに手に入れたおかげで、学費に関しては困ることがなくなったが、日々の生活費はもちろん経営難の貧乏施設持ちだから、生活レベルは下の下だ。
だからこんな状況で、『友達に会いに行くから海外旅行のお金をください』なんて、口が裂けても言えることではなかった。
「絶対無理! もしそんなこと、ケチんぼ大王の学園長に頼んだら『そんな贅沢言う奴は施設から出てけ』って言われるよ!」
「大丈夫だ。金の心配などイッさい必要ナイ」
彼女は身につけていたネックレスを首から外し、ナオトに手渡した。
一センチ四方の立方体オブジェが付いている。
ステンレスのような硬質な素材で出来ているようだ。
ほのかに光っているような気もする。
「これを下りのエレベーターの中で握りしめ、ワタシのことを思い浮かべ、我が名をすべて声にダシテ呼べ。そうすれば、ワタシの元へ瞬時に移動スルコトができる」
——下りのエレベーター?
——名前を呼べば、瞬時に移動?
ツッコミたい所は山ほどあったが、まずは最大の疑問を解決してみることにした。
「瞬時に移動……って、その……ボクは超能力とかないよ?」
「大丈夫だ。そのキューブがあれば、力はナクトモ、無事に到着デキルから」
——いやいや、大丈夫と太鼓判をおされても……。それに……。
「なんで、下りのエレベーターなの?」
「場の重力が揺らぐバショほどエネルギー効率が良い。ただソレダケだ」
——重力……?
——エネルギー?
——もしかして彼女はファンタジーではなく、SFの世界からやってきたのだろうか?
「ソノ条件を満たし、ナオカツ、この日本で一番テゴロな場所がエレベーターだったとイウことだ。さらに、下りのほうがヒカクテキ安全だと判明したワケだ。心配スルな。既に十回以上ワタシの体で実験済みだ」
ナオトは彼女がキューブと呼んだ小さな物体を見つめた。
——こんなちっぽけな金属で瞬間移動が出来るなんて……どう考えてもありえない。
——きっと、彼女は、ありえない作り話をわざとして、簡単に騙された奴がいると、国のみんなに笑い話として聞かせるために、こんなことを言い出したんだ。
——絶対、そうに違いない。
ずっと無反応で、微動だにせずキューブを見つめているナオトにしびれを切らしたのか、彼女は小さなため息をついた。
「信じてないようだな。ならば、一度、試してミレバいい」
彼女は、ぐいっとナオトの腕をつかみ図書室を出て行った。ナオトはされるがままに後ろに続いた。