1話 別れの日
二月にしては汗ばむほどの陽気に見舞われた放課後だった。
終業式も終わっていないのに、季節はずれの桜が咲いている。
まるで彼女との別れを演出しているかのように……。
——こうして話をするのも、今日が最後か。
彼女はもうすぐ自分の国へ帰ってしまう。
ナオトは、これまでずっと考えないようにしていたが、実際にタイムリミットが近づいてくるとなると体は正直だった。心の奥底で何かが焼けるような、今まで感じたことの無い状態異常に陥っていた。
——もう会えなくなるんだろうな、きっと。
彼女が留学生として転入してきたのが一年前。
それまで特定の人物と深く関わったことのなかったナオトが、人生で初めて友達と呼んでも良いレベルまで一緒に過ごしたのが彼女だった。
去年までのナオトは、昼休みはずっと本を読み、給食は一人で食べ、放課後は一番早く教室を出て行き、図書委員として図書室に鎮座し、貸出業務も全て無口でこなし、一日中誰一人として話をすることなく学校を去っていくのが普通の毎日だった。
だが、彼女が目の前に現れ、いくら無視をしてもずっと話しかけ続けてきて、やがて、ナオトが逃げることにも疲れた頃には、常に彼女がそばにいるようになっていた。
毎日授業が終わると、校舎が閉まるまでのしばらくの時間、図書室で一緒に時間をつぶすのが、この一年間のナオトと彼女の日常だった。
一緒にいるといっても、ナオトは本を読みながら、極まれに無言で図書の貸出業務をする様を、彼女が側で見ているか、お互いにお薦めの本を読んでみては、時々感想めいたモノを小声で言い合っている程度だ。
だが、二人にとってそれで充分だった。
長く同じ時間を共有する、ただそれだけで、心の奥底にある何かが分かち合えるような気がしていた。
——一年って短かったんだな。
——学校生活が短く感じたことなんて初めてかもしれない。
——でも、また明日から、長い毎日に元通りか。
ナオトは小さくため息をついた。
二人のいる図書室は、私立中学ならではの贅沢に金をかけた、十三階建て新校舎最上階にある。今日も偉そうに下々の者を見下ろしている。
とはいえ、図書室自体は、あいかわらず閑古鳥が鳴いている。
一週間に一人か二人利用客がいれば良いほうだ。金持ちは学校で本を借りるなんていう貧乏くさいことはせず、自分で金を出して買うということだろう。あとは、ナオトによる貸出業務の接客態度が破滅的に悪いのもその一因なのかもしれない。
結果、ほぼ毎日のように、ナオトと彼女で貸し切りという状態が続いていた。
今日もいつもと同じように暇だった図書委員ナオトは、貸し出しカウンターの奥で本を読んでいた。
彼女に会える、最後の日だというのに。
これまでの毎日と同じように、ただ本を読んでいた。
普通を装っているけれど、心の中は渦巻いていた。
自分ではわからない感情が。
制御できない思いがあふれてくる。
ナオトは、読んでいる本の内容が一向に頭に入ってこないことに気づいていた。
再びため息をついて、本を閉じ顔をあげると、すぐ見える位置に、いつものように彼女は座っていた。
一時間近くにわたって、一冊の同じ本を熱心に読んでいたらしい彼女は、ふいに顔をあげ、何かにひらめいたように席を立った。
「ナオト!」
カウンター越しのナオトへと近づいてくる。
歩くたびに腰まである三つ編みの先がピュイっと揺れる。
それを見るたびにいつもナオトは、猫のシッポのようだと思っていた。
そう言えばつい最近、音楽の授業中、他の生徒がふざけてピアノを使い『猫踏んじゃった』を演奏したのを聞いて、彼女が本気で怒ったことがあった。未だに彼女が怒った理由は分かっていない。
「ワカったぞ。ナオトよ。日本語はセッカチだから複雑ナノダ!」
まるで昔話の長老みたいな口調。
これが彼女のデフォルトの話し方だ。
「せっかちだから複雑? どういうこと?」
「タッた一文字ダケで、意味を成ス言葉がタクサンあるでアロう?」
言葉遣いは古くさいのにイントネーションはむちゃくちゃというアンバランス。
どうやら彼女は少し耳が悪いらしい。
だからいつまでたっても、日本語がうまくならないようだ。
でも、そんな彼女の日本語を聞いているのが、ナオトはとても好きだった。
彼女の透き通る声が、時々知らない国の音楽を聴いているような錯覚を呼び起こし、不思議な気持ちにさせる。
「一文字だけで意味がある言葉……? ああ……確かに。絵とか尾とか、木とか……いっぱいあるね」
「ダロう? しかも、同じ一文字でもショクブツの木と、色をアラワス黄のように、全然チガウ意味がアッタりするではナイか」
彼女の片手には日本語の辞書が握られている。
——そんなモノを熱心に読んでいたのか。
——やっぱり普通の日本人とは感覚が違うんだろうけど、一時間もぶっとおしで読める神経がまったくわからない。
「まぁ、確かに。同音異義語って言う言葉があるぐらいだし」
「ソウ。その同音イギ語だ! セッカチだからコソ、より短い言葉でスマそうするが故に、意味が重複シテしまったのデハないのか?」
「うーん。わかんない。そもそもボクが日本語を作ったわけじゃないし……」
「タシカに。そう……ダナ」
せっかくの大発見だったつもりが、残念ながら即座の『正解』判定とはいかず、うやむやに終わってしまいそうな展開に、彼女は軽くへこんでいるようだ。
「ごめん……本を読むのは好きだけど、現代国語みたいな言葉の成り立ちとか、漢字の意味とか、そういう難しい話はあんまり好きじゃなくて……」
彼女は不思議そうな顔をしている。
「……? 何故ナオトが謝ル?」
「ん? あぁ……なんとなく」
いつものように気が付いたら謝っていた。
ナオトの悪い癖だった。
自分さえ謝っておけば、事は丸く収まるだろうというスイッチ文が、ナオトという人間の行動プログラムのどこかに組み込まれているのだろう。それは本人が思っている以上に、優先順位の高い命令文だった。本人が意識していないだけに始末が悪い。
「まぁ、トニかく、タクサンの意味を持つ日本語はムズカしいことニハかわりナイ。だが、ワタシの今までイキテきた人生の中では、日本語は最強なのだ」
「最強?」
「そうだ。言葉とイウのは、ワタシの国では武器だ。ヨリ早く、より多くの言葉をアヤツルことで、相手を征服スルことができる。だからタッた一文字で意味のアル日本語を使いコナせるワタシは、国に帰レバ、最強のコトノハ騎士にナレる」
「ことのはきし……なにそれ? 新作ゲームの職業かなにか?」
「国王に仕エル、騎士のコトだ」
てっきりいつものように、言葉を勘違いした謎話が始まったのかとナオトは思いつつ、半信半疑で彼女を眺めた。
透けるような白い肌。
ナオトより十センチも高い身長。
燃えるような茜色の大きな瞳。
銀細工のように繊細な白髪は、両耳のそばだけロゼワインのように鮮やかな赤い差し色が入っている。緩やかに結っていても腰まである三つ編は艶やかで美しい。
ファンタジー映画からそのまま抜け出てきたかのような容姿の彼女は、誇り高い笑みを浮かべている。
窓から差し込む夕日が逆光となり、宗教画の天使並みに神々しいオーラを発している。
その凛とした佇まいに、騎士という言葉がやけにしっくりくる。
——もしかして、いつもの勘違い話ではないのだろうか?
予測のベクトルがズレ始めていることに、ナオトの頭はまだうまく対応しきれていないようだった。
「まあ、ソノ……コトノハ騎士という名は、最近弟のグレイと一緒に考えたモノだ。正式なモノではナイ。ゴロも悪いが気にしないでくれタマえ」
少し照れくさそうに彼女は笑った。
日なたの匂いがするようなその笑顔は、ひ弱な根暗少年のナオトとは対照的だった。
小さい頃の事故が原因で、わずかではあるが口元に麻痺が残り、表情を大きく変えるとどうしても不自然になるナオトは、人前ではあまり笑わなかった。
だから、彼女の笑顔を見るたびに、ナオトは眩しさが目に染みるのを感じていた。無意識のうちに、口元を手で隠してしまう。その一瞬の劣等感を彼女は見逃さなかった。
「また、自虐モードに入ってオルな」
彼女はナオトの手を掴み、じっと目をのぞき込んだ。
「ナオトの悪いクセだ。どうしてナオトはいつも、人と自分をクラべて、勝手に傷つく? ナオトはナオトだし、ワタシはワタシだ。まったく違うモノをクラべるのは、時間のムダでアルぞ」
——そんなことわかってるよ。
ナオトはそう思ったが、口には出さなかった。
——確かに、彼女の言っていることは正しい。でも……。
気が付くと、いつも自分と相手を天秤にかけている。
勝負をしても負けることがわかっているのに比べずにはいられない。
背は五年連続クラスで一番小さい。
表情が乏しいせいで、あだ名は無表情王子。
天然パーマの頭はいつもうまくまとまらず、くしゃくしゃ。
年を取るたびに顔が微妙にブサイクになるという呪いに蝕まれている。
勉強ができない低スペック頭脳。
運動で誰かに勝ったことなど一度もない。
何もできない自分。最初から諦めてばかりいる自分。
自分が何一つ持たない者であることを確認しては、勝手に傷ついて、苦笑いをする毎日。
——言われなくたって、わかってるんだよ。わかっているのにやめられない。
「そういう病気なんだよ。治らないんだ。ほっといてくれよ」
ふと目の前に風が押し寄せた。
体が熱い。
何かやわらかいモノに締め付けられている。
しばらくの間、ナオトは自分の身に何が起こっているのかさっぱり分からなかった。
熟した果実のような甘い香りが仄かに漂ってくる。
「子どもが『ほっておいてくれ』というのは、必ず『かまってほしい』時だというホウソクを知っておるか?」
ナオトはようやく気が付いた。
自分が抱きしめられているということに。
彼女のアゴが肩の上に優しくのせられるのを感じていた。
「傷ツイているモノが目の前にイル時はコウスレバ良いと、幼いコロ父に教わったノダ」
身動きができずに、抱きしめられるがままだった。
彼女の体温と肌に触れる柔らかい感触に、心臓の鼓動がはち切れんばかりに体の中を駆けめぐり、血液が沸騰しそうな感覚に翻弄されていた。
「大丈夫ダ。お前が心からネガエば、楽にナル時が来る。ワタシも昔、同じ病をワズラってイタ」
「え……?」
「カゾクのなかで、瞳が赤いのは自分ダケだった。だカラ、この見た目が小サイ頃は大嫌いだった。だがアル時、突然雷に打たれたように、自分は自分にしかナレナイのだとわかった。自分の人生ヲ歩むコトがデキルのは自分ダケなのダト。それ以来、トテも気が楽にナッタのだ」
「自分は……自分にしかなれない……」
——自分の人生を歩むことが出来るのは自分だけ……。
その言葉がスッと心に落ちてくるのをナオトは感じていた。
「いずれオマエにも、そんな時が来るハズだ。自分が自分にナレる時が……」
彼女は、ナオトから離れた。
急激に体の気圧が下がる。
圧迫されていた皮膚が解放される。
クラクラするような目眩に襲われる。
そんなナオトにとどめを刺すかのように、彼女は最高の笑顔を投げかけてきた。
もし笑顔が兵器だったなら、ナオトは確実に死んでいただろう。
——今なら心の底から笑顔になれるかもしれない……。
ナオトがそう思った瞬間だった。
突然、目の前の彼女が自分の鼻に指をつっこみ、白目をむき、変な顔をした。
空気が止まった。
心臓だって止まりそうになった。
——ありえない。
ナオトは絶えきれなくなり、思わず吹き出した。
鉄壁の無表情王子も、破壊的な彼女の変顔を前にして、脆くも崩れ去ってしまったようだ。慌てて口に手をやり無表情を装ったが無理だった。
——卑怯すぎる。
——全く持って反則だ。
いつものごとく、彼女の行動パターンはまったく読めない。
——突然抱きついた後に変顔をする奴なんか、今まで聞いたことがないよ。
「それだ。いつもソウヤッテ笑っておればヨイ。笑っているモノにしか幸福はオトズレヌらしいカラな」
彼女は、鼻に指をつっこんだまま、まぶしいほどの笑顔でナオトを見つめ返してきた。
これを最終兵器と言わずしてなんと言うのだろう。
青年男子なら確実に百万人が一瞬で爆死だ。
だがすぐに、ハッとしたように我に返ると、顔を真っ赤にして、しゃがみ込んだ。
「すまん……! 忘れてクレ! 苦しむオマエを見て、ついコンナはれんちなことをシテしまった……」
「ハレンチなこと……って、突然抱きついてきたこと……?」
「そんなことは、たいしたコトではナイ! 我が国ではアイサツ代わりに、いつでもダレとでもやってオル!」
——たいしたことじゃなかったのか。
——こんなにドキドキしている自分がバカみたいだ。
ナオトは小さく傷ついた。
胸と肩には、彼女の温もりがまだ残っている。
「人前で鼻に指をつっコミ、ましてや白目をムクなど、もし父上に知れたらタダではすマヌ。お願いだ! 無カッタことにシテくれ!」
十四年間生きてきて、生まれて初めて家族以外の女性に抱きしめられたのに、その大切な記憶があの変顔とセットで残るのかと思うとナオトは、なんだかやるせない気持ちになった。
「無かったことにしてくれって、そんなの……簡単に忘れたりできないよ!」
「ううむ……ソウだ! ハゲシク頭部を強打スレば、記憶が飛ぶことがアルラシイと聞いたことがアルぞ!」
彼女は、何か殴るモノを探し始めた。
「ちょ、ちょっと待って。わかった。わかったよ。殴るのだけはやめて。絶対に、誰にも言わないから!」
彼女は動きを止め、じっとナオトの目を見た。
「……絶対ニ?」
ナオトは何度も何度もうなずいた。
「絶対に……」
しばらくの間、二人は見つめ合っていた。
「よし。ソノ言葉、信じヨウ」
目の奥のどこに、答えが書いてあるのかはわからないが、彼女は信じるべき『それ』を見つけたようだ。
ナオトも彼女の目の奥に『自分を絶対に殴らない』と保証する答えを見つけようとしたが、残念ながら見つけることはできなかった。
——なんか不公平じゃないか……これ。
「もし、約束をマモらなかった時は……我が国の儀式にナラって、オマエの体の大事な部分をセツダンすることになる。そうナラないように、心してマモるように、な」
「大事な部分を……切断?」
ナオトは、ものすごく痛い想像をして、寒気に襲われた。
「大丈夫。約束をマモればすむ話だ。問題ナイであロウ?」
屈託のない満面の笑みに対して、ナオトは引きつった微妙な顔を返すことしかできなかった。
——もしかして、素直に殴られていたほうがマシだったのでは?
恐怖の妄想をなんとかぬぐい去ろうと必死になっているナオトをよそに、彼女は涼しげな表情で窓際に歩み寄り、中庭に咲く季節はずれの桜を見下ろした。
「そうイエば……日本語の中で、タッタ一文字で一番タクサンの意味がある文字はナンダかわかるか?」