非常階段
夏の気配が色濃く漂う、ある地方都市の繁華街。昼間のうちは買い物に来た主婦達で賑わうこの場所も、今は仕事を終えた会社員でごった返している。ある者は行きつけの飲み屋へと、またある者は明日に備えるため自宅へと、迫る宵闇に追い立てられるようにせわしなく足を動かしていた。
ここに一人の男が歩いていた。名を長谷川陽二という。そこそこ名の通った商社に勤め、今年で二十年になる。世間では働き盛りとも言われる年頃だが、その世代のもの全てがそうであるとは限らない。
彼もその例に漏れず、二流大学を卒業後に入社して以来、勤務態度は真面目だが首を免れる程度の努力しかしないという消極的なスタイルを貫き通してきた。そのおかげで給与は同期の二割減、昇格とはまるで無縁の位置にいる。
風貌も取り立てて言うほどのことはなく、女性に対して臆病なせいもあり浮いた噂の一つも聞かない。結婚は当然まだであり、その予定もしばらくは空白のままであろう。
だが、陽二は自分が幸せな人間であると感じていた。他の者が知らない、ある秘密を持っていたからだ。そして今まさに彼はその場所に向かって歩を進めているところであった。
いかにも通い慣れたふうに、彼は大手の居酒屋の脇にある細い路地へと入った。耳障りな客引きの声が徐々に小さくなる。先を行く黒い猫をニヤニヤと眺めつつ道なりにしばらく歩くと、件の廃ビルはそこにそびえていた。
狭い路地に面した四階立ての細い建物。各階に張り出した派手な装飾の看板は全て照明が消されている。両側の高いビルに煌々と明かりが灯っているせいで、いっそう暗く不気味な雰囲気が漂っていた。
入り口の曇りガラスの扉に大きくひびが入っている。その奥は深い闇に埋もれていたが、彼は懐から懐中電灯を取り出すと躊躇わずその中へ入っていった。
突き当たりのエレベーターホールに続く真っ直ぐな通路を進んでいく。あたりを舞う埃が、かざした懐中電灯の光に浮かび上がる。歩みを妨げるほど大きな物はないが、一歩踏み出すごとに散らばったガラスが砕ける音が響いた。
やがてエレベーターの前を通り過ぎ、彼は非常口の扉を開いた。そして闇に浮かぶ階段を、危なげない足取りで上り始める。人が通れるほど大きな窓があるが、外から覗かれないよう白いプラスチックの板で塞がれていた。踊り場に置き去りにされたスツールやテーブルは、かつてこのビルで経営していたスナックのものだろう。それらは先日の地震でもビクともしない、奇妙なバランスで積み上げられていた。
それから急角度の階段を何度か折り返し四階と書かれた扉を押した。軋んだ音を立て扉はゆっくりと開いていった。
彼の笑った顔を強い光が照らす。懐中電灯のものではなく、扉の向こうから射し込む光だ。彼はその光に吸い寄せられるように扉の中へと足を踏み入れた。
奇妙なことに、その部屋の窓からは陽の光が差し込んでいた。先ほどまで確かに町は宵闇に包まれていたはず。だが部屋の隅に山と積まれたソファーやテーブルは埃まみれの姿を陽光に晒している。
彼は不思議に思う素振りも見せずリュックを探り、中からロープを引っ張り出した。そして先端のフックを窓枠に引っ掛け、それを伝って下へと降りる。やがて地面に降り立つと両手を口に添え、腹の底に目一杯力を込めて叫び声を上げた。
「課長の、バカヤローッ! あの客が契約打ち切ったのは、俺のせいじゃねーっ!」
陽二が初めてここに迷い込んだのは五日ほど前。給料日に奮発し近くの立ち飲み屋で一杯引っかけた、その帰りのこと。彼は客引きに声をかけられるのを嫌い、寂れた裏通りを自宅の安アパートへと向かっていた。
急いで帰っても待つ人など誰もいない。そう思い、心地よい夜風に吹かれのんびりと歩を進める。そして角を曲がり、数件先の廃ビルが目に映った瞬間、扉が閉まる大きな音にハッとした。すぐあとに廃ビルの入り口から黒い人影が姿を現す。人影は慌てた様子で彼がいるのとは反対の方向に駆けていった。
ビルの管理会社の者が来ていたのだろうか。そうも考えたが、彼の心の奥底にはどうにも誤魔化しようのない違和感が渦巻いていた。
あるいは普段の彼ならばここを通り過ぎ、この先も変わらぬ日常を歩み続けたのかも知れない。だがこの時の彼は酒に酔っていた。臆病で遠慮がちな男は影を潜め、図々しいまでに貪欲な男の顔が現れていた。
あたりに人影がないことを確認し、真っ暗なビルの中へ入る。携帯の明かりを頼りに、どうにかエレベーターの前まで進んだ。ボタンを押すが当然のように反応はない。仕方なく非常口の扉を開け階段を上った。一階、二階、三階の扉は鍵が掛かっていて、ビクともしなかった。四階も開かなければ諦めて帰ろう、そう思いつつノブを握る手に力を込めると、扉はギシギシと嫌な音を立て少しずつ開いていった。
扉の隙間から光が差し込む。すぐに扉を閉めてここから逃げ出すべきかと考えたが、この中を見たいという欲求がそれを上回った。誰かに見つかっても、取って食われるようなことはあるまいと高をくくる。そして、扉をいっぱいまで開き体を滑り込ませると、そこは陽の光に満たされた廃墟の一室だった。広さは二十畳くらい、コンクリートがむき出しの壁、隅に積まれた色あせたソファー。それらに分厚い埃が積もっているだけだった。目をこすりながら窓に近づく。見上げると、そこには確かに太陽が輝いていた。
彼は、この中でうとうとしてしまい、そのうちに夜が明けたのかと考えた。すぐさま非常階段を駆け下り外に躍り出る。夜空を見上げると、黄色い月だけが浮かんでいた。
首を捻りつつ廃ビルの部屋へ引き返し、日差しの中で考え込む。彼は超常現象の類をまるで信じていなかったが、自分の目で見たものを信じられないほど頑なでもなかった。酒が入っていることも手伝って、案外すんなりとこの状況を受け入れることができた。
その日、彼は部屋の中をうろうろし、窓から町の様子を眺めるだけだった。わかったことは、こちら側には人がいないということ。それと、こちら側で何時間過ごそうと、向こうに戻ると一秒も経っていないということ。
次の日、彼はロープを持ってきた。窓枠にフックを引っ掛け、たどたどしいながらも地上に降りる。この近くを一時間ほど探索してから引き返した。そしてわかったことは、こちら側の町が彼の住む町と寸分違わぬ作りをしているということ。この日も人に出会うことはなかった。
三日目、彼は昨日とは違う場所を歩き回り、大声で上司の悪口を何度となく叫んだ。わかったことは、こちら側では何をしても良いということ。やはりこの日も、人を見かけることはなかった。
四日目、彼は着ているものを全て脱ぎ、全裸で町を練り歩いた。普段隠している部位に、存分に日光を浴びせてやる。もちろん人はいなかった。
そして五日目の今日、これから彼は隣町まで足をのばしてみようと考えていた。特に目的があるわけでなく、ただ同じところを歩くのに飽きてきたというだけのことだ。
自動車や自転車はそこらの駐車場や駐輪場にいくらでもある。どちらかを拝借しようかと考えたが、どれも鍵が掛かっていたので早々に諦めた。彼は歩くことが嫌いではない。妄想に耽りつつ歩けば、隣町までの二時間などあっという間に過ぎるだろう。
それから陽二は、山あいを通る県道をひたすらに歩いた。ちょうど正午くらいだろうか。日差しは強く照りつけ、若干気にしている頭頂部を容赦なく焦がす。噴き出す汗で形状記憶のワイシャツが肌にべっとりと張り付いていた。いっそ全部脱いでしまおうかとも考えたが、人に出会う可能性を考慮しやめておくことにした。
そうして黙々と歩くこと二時間。彼は隣町の駅前にたどり着いた。このまま線路沿いに歩くと商店街がある。大通りをまっすぐ進むと役場や図書館、警察署などの施設がある。駅裏からのびる道を少し行くと大きな精肉工場がある。
ここまで歩きながら警察署でも見学に行こうかと予定を立てていたのだが、変更して精肉工場へ向かうことにした。その方向から大勢の人が一斉にうなるような音が聞こえていたからだ。彼がこちら側に来て生き物の気配を感じたのはこれが初めてのこと。ひときわ興味を惹かれてしまうのも無理からぬことだろう。
彼は駅裏のコンビニで軽い食事と休憩をとったあと、精肉工場へと続く緩やかな上り坂を歩き始めた。道を進むにつれ、例のうなり声のような音は大きく聞こえてくる。初めは人間の声に似た何か別の音だろうと気楽に構えていた。だが、聞けば聞くほどにその音は、人間の発する声としか思えなくなる。
不安に駆られつつも歩き続け、やがて精肉工場の正門へとたどり着いた。守衛室の向こうに広がる敷地の各所には植え込みや花壇が多く設えてあり、間隔を置いていくつかの工場や倉庫が建てられている。以前、仕事で何度か訪れたことがあったが、そのときと違い人影は一つとして見られない。
正門付近にある案内板で確認すると、どうやらこの音の出所は敷地の隅にある倉庫のあたりらしい。説明書きのとおり構内道路の黄色いラインをたどって行くと、じき前方に学校の体育館くらいの倉庫が見えてきた。うめき声のような音は一人一人の声が区別できるほど明確に、大きくなっている。彼は周りに人がいないか気にしながら、三棟並んだ倉庫のうちの一棟に近づいていった。
大きなシャッターの前に立つ。高さは自分の倍程度、横幅も同じくらいある。子供の声、若い男の声、年配の女性の声、年頃の女の声、中には彼と同じ年頃と思われる者の声もあった。それらは全てが絶妙に絡み合い、延々と不気味な旋律を奏で続けていた。
これは本当に人間の声なのではないか、そうも考えた。だとしたら、なぜ彼らはこんなところで苦しげな声を上げ続けているのだろう。陽二にはその意味も、理由も、まるで思い当たらなかった。言うなれば、こちら側の世界自体が不可解なものだ。何があったとしても不思議ではない。そう思い、シャッターの脇にある開閉スイッチに手をかけた。
開くかどうかは半信半疑だったが、シャッターは意外なほど滑らかにキュラキュラと音を立て開いていく。途端に大きくなるうめき声。だが、変わらず意味のある言葉には聞こえない。まず、シャッターの内側に極太の鉄格子があるのが見えた。そして次第に晒されていく靴と足。その数は多すぎて数える気も起こらない。
音は正にうめき声だった。主は鉄格子の向こうに詰め込まれた数え切れないほどの人間達。一斉に、彼らの視線が陽二に集まる。その性別や年齢にはまるで一貫性はなく、服装もまちまちだった。スーツ姿のサラリーマン、制服を着たショートカットの女子高生、ぐったりした赤ん坊を抱いた母親、腰の曲がった白髪の老婆、サッカーチームのユニフォームに身を包んだ少年。
彼らに共通していることといえば、多くが涙を流しているということ。それに、口の周りが血で汚れているということ。他に外傷はないようだが、逼迫した狂気にも似た感情をその目に宿していた。
ほど近くにいた女子高生の叫ぶような声で、呆然と立ち尽くしていた陽二は我に返った。彼女は鉄格子のさほど広くない隙間から必死に手を伸ばしていた。詰め寄る群衆に押しつぶされ、苦しそうな表情を見せている。顔を近づけると、彼女は何かを伝えようとして口を大きく開いた。
陽二の目が驚愕に見開かれる。彼女の赤黒い口の中には舌がなかったのだ。一瞬のことだったのでよくは見えなかったが、どうやら根元から切り取られているらしい。彼女の口から漏れるのは、やはり言葉にならないうめき声だけだった。
「なんなんだ、これは! 誰か説明してくれよ!」
陽二はそう叫んでみたが、その問いに答えられるものは誰もいなかった。そして、その言葉はすぐに大勢の声にかき消された。
しばらく自分が何をすべきか考えていると、先ほどの女子高生が手に何か持っているのに気づいた。受け取ってみると、それは可愛らしいクマのキャラクターが描かれたピンク色の便箋だった。それには、おそらく血で書かれた文字で、
「助けて化け物にたべられる」
そうあった。思わず彼女の顔に目がいく。血で汚れてはいるが、道ですれ違えばつい振り向いてしまいそうなほど整った顔立ちをしている。陽二は心の底から彼女を、いや鉄格子の中の全ての人達を助けたいと思った。だが――、
彼は鉄格子の向こう側から視線を外し、シャッターの開閉スイッチに手を伸ばした。開いたときと同じように、ゆっくりと閉じていく。ひときわ大きくなる声。その中にはすすり泣くような声も多く混じっていた。
それから彼は、両手で耳を塞いで歩き出した。踵を返し、自分の住む世界に向かって。
あれから一時間。陽二は山あいの道を急いで歩いていた。一刻も早くここから逃げなくてはと、自分に言い聞かせる。あの女子高生が書いた便箋には化け物とあったが、それが実際にどの様なものかはわからない。だが、ここには大勢の人間を倉庫に閉じこめ、全員の舌を切り落とした何かがいる。それは確かなことだった。
うめき声は三棟あった倉庫の全てから聞こえていた。それだけの数の人間をいったいどうしようというのか。ある程度の想像はついていたが、深くは考えないようにした。
歩きながら彼らのすがるような目を思い返す。できれば全員を助けたいと思った。それは間違いなく本心だった。だが、あの鉄格子をどうにかするための道具がない。そして何より、もたもたしているうちに化け物とやらが現れることが無性に怖かった。
陽二は罪悪感に追い立てられるように道を急いだ。そのかいあって、どうにか日が沈む前に例の廃ビルまでたどり着くことができた。
垂れ下がったままだったロープを掴み慎重に、だが速やかに上を目指す。じきに四階の窓枠に手が掛かると、頭から転がり込むように体を投げ入れた。
そのまま壁に寄りかかり額の汗を拭う。それから大きく息を吐き頭を垂れて目を閉じた。そして彼は思う。あのすがりつくような目を一生忘れることはできないだろう。こちら側の世界に来ることも、もう二度とないだろう。
しばらくそうしたあと、彼は非常口の扉を開きその中に入っていった。懐中電灯で足元を照しつつ急な階段を下る。そうして一階まで下り、扉のノブをつかんで――しかし、ノブはビクとも動かなかった。どうやら鍵が掛けられているようだ。
彼は初めてここを訪れた時のことを思い出していた。あの時の人影――管理会社の者が鍵をかけたのだろうか。そう考え窓に目をやった。いずれこういう事態もありえるかもしれないと、窓にはめ込まれた白い板が外せることは確認してあったのだ。
窓を開け外へ足を踏み出す。ビルとビルの隙間を横歩きで進んでいくと、すぐに見覚えのある細い路地に出た。それから彼は、普段からほとんど人通りのない近道を通り、自宅の安アパートに無事帰り着くことができた。
自室に戻り、しっかりと鍵を掛ける。風呂に湯が溜まるまでとテレビをつけるが一分もしないうちに消す。あの女子高生の泣き顔がちらついて内容が頭に入ってこない。食事をとる気にもならない。しばらくして湯船に浸かる。何度も頭から湯をかぶったが、この気持ちの悪さを洗い流すことはできなかった。諦めて布団に潜り込んだ。あのうなり声が聞こえている気がする。毛布を頭からかぶり、しばらくじっとしていると眠気がおそってきた。そして、眠りに落ちていった。
――何かの気配を感じて目が覚めた。すぐ近くに何かがいる。毛布から顔を出し目を開くと、目の前に女の顔があった。目が赤く光っている。綺麗だと思った。女が口を開くと、鋭い牙が何本も並んで生えているのが見えた。そして――