怒れる母熊
こういう時無駄に焦るのは禁物だ。そう言い聞かせてみるもののどうもうまく行かない。体が焦って自分を突き動かす。15時間ぶっ通しで走ってメキシコシティまで戻る。
短い睡眠を終えるとさらに10時間走ってドゥランゴへ。飛行機を使う手もあったがそれでは必要になりそうな荷物が運べない。ヨーコはテレサが消えてすぐにアロンゾに電話をした。のらりくらりと返答してとぼけているアロンゾにテレサの行き先を確信した。自分とテレサが今や特別な関係にある事を知られるのもまずい。あくまでビジネスを横取りされて怒っている体を装った。
移転の激しいドゥランゴの工作部隊が最近根城にしているビル。夜も更けて一人デスクに足を投げ出して雑誌を読んでいる男がいる。中高く鷲鼻の男はポルノ記事を読みながらニヤニヤして鼻を撫でている。そこへ電話が鳴り、男は気分を害したような顔をすると足を下ろしてデスクのコーヒーを一口飲み、電話に出た。
「はい」
「久しぶりね、フリオ」
男は少し顔を顰めると笑って応えた。
「ヨーコか、どうした、最近顔を見せないじゃないか」
「ちょっとバカンスにね、アロンゾはいる?」
「さあな、今日は見てないぜ」
「ほんとうに?」
どこか浮世離れして穏やかな口調で喋るヨーコ。男は居心地悪そうに尻を浮かして座りなおした。
「本当さ」
それっきり黙ってしまったヨーコに男は少し焦った。
事情はわからないがヨーコには何も話すなとのお触れが出ていたのだ。
ボスのお気に入りで組織内での地位が高いヨーコとの板挟みに男は落ち着かない様子でコーヒーに手を伸ばした。
「コーヒー冷めちゃったみたい」
男はギクリとして周りを見渡した。電話の向こうから何か音が聞こえた瞬間近くでカチンと音がして甲高い風切音と同時にコーヒーカップがパンと砕け散った。
唖然としてデスクの上の破片を見ながら慌てて腰を浮かし窓を見ると、小さな穴が空いて亀裂が放射状に延びている。
「動かないで」
耳から離れた受話器から警告が聞こえてきた。男は再び椅子に腰を下ろすと受話器を耳につけて言った。
「おちつけヨーコ、ほんとに知らないんだ」
「じゃあ誰なら知ってるの?」
「へ、ヘラルドなら知ってるはずだ」
「どこにいる?」
「セントロマリアッチで飲んでるはずだ」
「そう、いい子ね、いい子ついでに隣のデスクから手錠を出してもらえるかしら、電話はスピーカーに切り替えてね」
男は電話を切り替えて置くと、目だけで窓の外を見ながらゆっくりと椅子のキャスターを転がして手を伸ばし、引き出しの中から手錠を出した。
「壁の配管に通して、言いたい事わかるわよね?」
男はやれやれという顔をして立ち上がると壁の配管まで歩いていき、手錠を通して両側から自分の手を繋いだ。
「よくできました」
プツリと電話は切れて不通音が鳴り響いた。
ヘラルドはピンクのギラギラとしたドレスの金髪女を連れて、スーツが張りさけそうな腹を揺らしながら店を出てきた。女はヘラルドのハゲ頭より上に目線がある。
二人で店の前に停めてあった車に乗り込みエンジンをかける。その時ヘラルドの後頭部に硬いものが当たった。赤い革製のベンチシートにヘッドレストは無かった。その筋の人間ならこれがどういう状況なのかすぐに気づく。ヘラルドは硬直して手を上げた。振り返って状況に気づいた女が顔色を変えた。
「あ、あのあたし急用を思い出しちゃった」
女はそそくさとドアを開けると降りて振り返った。
「また電話するね」
そういうとドアを閉めて去っていった。ヘラルドはルームミラーの中のフードを目深に被った人物を見た。
「誰だ」
その人物はフードに手をかけて少し顔を出した。店の光が当たって顔の半分が露出する。
「アロンゾはどこ?」
「ヨォーコかー、どうしたそんな物騒な真似して」
「答えて」
「ああ、アロンゾはどうだったかな、モンテレイあたりじゃなかったか」
ヨーコはカチャリと撃鉄を起こした。
ヘラルドはゴクリと唾を呑んで少し迷ったが、なだめるように言った。
「ヨーコ、あの仕事は女一人じゃ無理だ、アロンゾに任せろ」
「本当はどこにいるの?」
その時助手席側のドアからひょっこり男が顔を見せて窓をコンコンと叩いた。一瞬気を取られた隙をついてヘラルドが振り返ってベレッタの減音機を掴んだ。弾が発射されてフロントガラスにヒビが入る。外の男も状況に気づいて銃を抜いた。ヨーコは右腿に装備していたハンティングナイフを左手で逆手に抜いてヘラルドの手首を切りつけ、開放された銃でヘラルドの頭を撃った。外から銃撃がありヨーコは車から転がり出た。男は銃を構えたまま腰を落として左右に揺れながら車を回り込もうとした。
しかし排気音のような音と金属音がして男の足の甲が弾けた。
「あああああ」
男が悲鳴をあげながら倒れると、さらに3発弾が発射されて男は沈黙した。バーの中からぞろぞろと男が出てくる頃には闇に消え行くヨーコの後姿が見えただけだった。
アロンゾのチームに緊張が走る中、ヨーコの奇襲は続いた。
人通りの少ない路上に男が倒れている。右手に拳銃を持って首を忙しく動かして周りを見ている。右腿に穴が開いて血が滴っていた。男は肘を着いて体を引きずると近くに落ちていた携帯電話を取った。
「だから言ったじゃない、正直に話した方がいいって」
「冗談じゃねえぞこのアバズレ、貴様何様だ」
風切り音と共にバシっと音がして左足にも穴が開いた。
「うおおおおおお」
「次の発射まで5秒、4秒、3秒、2秒」
「待て!待ってくれ、本当に知らないんだ」
半分泣きの入った男を容赦なく弾丸が襲う。右手首に穴が開いて銃が転がり落ちた。骨が折れたのか手首が変な方向に曲がっている。
「勘弁してくれ、本当だ、嘘は言ってない」
「……そう、約立たずは嫌い」
男の頭から血渋きが上がった。
ヨーコの奇襲は焦りからか、どんどん雑で荒いものになっていった。一人やられ、二人やられ、ヨーコの逆鱗に触れたのか、両目を撃ち抜かれた死体さえあった一方で、胯間を破壊されただけで生きて帰ってきたものもいる。アロンゾチームは残忍さを帯びながら本当の敵になりつつあるヨーコに震撼した。
誰一人として外を出歩けなくなっていた。チームはヨーコの知らない新しいアジトに集まって相談した。地下にあるリビング風の部屋は20人ほど集まった幹部達には少し狭かった。
アロンゾを裏切るわけにはいかないが、ヨーコは危険だ。今回に限ってヨーコが必死になる理由は誰一人わからなかったがなんとかしなければならない。
同じスナイパーで対抗するという案も出たが、神出鬼没の上にカウンタースナイプと呼ばれるスナイパー同士の一騎打ちでヨーコは無敗だった。
正に死神に取り付かれたのと同じだった。
深刻な面持ちで皆で話し合っていると、次期副官候補のイヴァンに電話がかかってきた。仲間しか知らない電話が仲間が集まっている時にかかってきたのだ。
緊張が走る。イヴァンは通話を押して電話を耳につけた。
「オインクオインクオインク、あーる日子豚さんが1匹ね、コヨーテに食ーべられ、オインクオインクオインク、まーた子豚さんが食べられた」
「ヨーコか、どういうつもりだ、タダじゃすまねぇぞ」
「オインクオインクまーた子豚さんが食べられた、子豚さんたちゃ秘密の小屋で、みーんな集まり相談だ、オインクオインクオインク」
イヴァンはギクリとして周りの人間を見渡した。
「でもでもでもでも危ないよ、チクタクチクタク子豚さん、チクタクチクタク子豚さん」
「正気かヨーコ!やめろ!」
「出口にゃコヨーテチクタクチクタク」
イヴァンはソファーから立ち上がると電話を手で塞いで回りに言った。
「おい爆弾だ、探せ!外には出ようとするな、待ち伏せだ」
部屋で男達が大慌てで机の引き出しを探り、ソファーをひっくり返したり戸棚を開けて捜索を始めた。
ヨーコの知識で作れる爆弾は知れている。発見して粘土から雷管を抜けばいいのだ。
ヨーコは電話の向こうで狂ったようにチクタクと繰り返している。
「おい、落ち着けヨーコ、仲間だろ?こんな事して平気なのか?一緒に戦って来た仲じゃないか、セルバンテスさんも悲しんでるぞ」
「やーく立たずの子豚ちゃん、チクタクチクタクおさらばよ」
「なあ、聞け、分け前はお前にもやるから落ち着けよ」
「チクタクチクタク、時間だよ、アディオスアミーゴチクタクボン」
「わかった!言う!」
ヨーコのお囃子が止まった。イヴァンは迷ったが、ここ数日の異常なヨーコの行動を考えると、嘘を言った瞬間にここが爆発するような強迫観念に囚われた。
「ほ、北東部のオヒナガだ、リオグランデ川を渡ってテキサスのプレシディアに越境するそうだ」
ヨーコの反応は無い。イヴァンは息を潜めて答えを待った。額から汗が滴り落ちる。周りの男達も動きを止めて固唾を呑んで見守った。
「嘘だったら戻ってくるわ」
そう言ってプツリと電話は切れた。イヴァンの尻がドサリとソファーに落ちた。