打ち砕かれた未来予想図
ヨーコはテレサを連れてユカタンに向かった。アロンゾが素直に信じるとは思えないが、シウダーファレスに現れる可能性を残した事で南は手薄になるだろう。ヨーコは暴力の世界から手を引く事にした。キューバに渡って永住権を手に入れ、テレサに教育を受けさせようと思っていた。医療費も教育費もタダなのは共産圏のいい所だ。
タバスコを東へ走り、海の真ん中の橋を渡ってカルメン島へ。エメラルドグリーンの宝石のような海を臨むリゾートホテルにチェックインした。
赤いフリルのビキニを購入してテレサに着せたヨーコは嬉々として海に向かった。シャチの風船も抜かりはない。初めて海を見たテレサは大興奮したものの水の塩辛さに顔を歪めた。すかさず新しく買ったカメラで写真を撮る。あっと言う間にメモリーカードは一杯になり、マガジンを装填するようにメモリーカードを
交換する。ヨーコはテレサに心酔していた。
このホテルに滞在して1週間が経った。テレサを寝かしつけたヨーコは明日こそは出かけようと思って部屋を見渡した。様々なオモチャ、ぬいぐるみ、絵本の数々ケースに入った折りたたみ自転車。20代の時に知り合いが同じような状況になっていたが、まさか自分がこうなるとは。明日路上に広げてご自由にの張り紙をしなくてはならない。
そう思って窓から下の道路を見下ろした時だった。何か黒い影がぞろぞろとうごめいている。目を凝らして見ると、それはヨーコの古巣でもある軍の特殊部隊だった。
ダイナミックエントリー、つまり強襲の第3段階、突入の体制だ。銃身の短いアサルトライフルやサブマシンガン、建造物内戦闘用の装備だ。状況は非常によくない、この地域はガリシアカルテルの縄張りだ。残忍で有名なガリシアカルテルには重犯罪者が多く、また退役軍人が大部分を占める戦闘集団のため、軍も容赦できない。もし幹部のグループが滞在でもしていれば、間もなくここは戦場になる。ヨーコは慌ててバッグを肩に掛けると寝ているテレサを抱いて部屋を出た。エレベーターで2階に降り、階段を目指す。
1階までエレベーターで降りた所でドアが開いた瞬間に蜂の巣などという可能性も0ではないからだ。一階に下りて壁の影からちらりと顔を出すと ソファーから立ち上がった数人の男が外に向かって発砲した。ヨーコはしくじった。一足遅かったのだ。戦闘は開始された。割れたガラスの隙間から缶が投げ込まれて転がって来るのが見えた。
咄嗟にテレサの耳を塞ぎながら背を向けてテレサに覆いかぶさって庇った。激しい破裂音が響いて閃光が辺りを照らした。ロビーの空気が一瞬膨張して収縮する。閃光が収まりヨーコは聞こえなくなった耳と失われた平衡感覚と戦いながらふらふらと立ち上がった。テレサはヨーコの胸に縋って顔を埋めている。ヨーコは再び階段を駆け上った。
数キロも先の音のようにサブマシンガンの音が聞こえてくる。ヨーコは戦場になりそうにはない業務用のプライベートに入り、掃除用具の倉庫に入ってしゃがみこんだ。
ヨーコは歯軋りをした。
「また貴様か、神よ」
まるで呪われたように暴力はヨーコを追いかけて来る。近くで戦闘が始まった気配がする。二人はじっと息を潜めた。今頃屋上にも降下している部隊がいるはずだ。
二人のいた4階フロアの角部屋は高確率でどちらかの陣営が陣取る戦場になっていた。判断は間違ってはいない。どうやら戦闘が落ち着いてきたようだ。ヨーコは用心深く業務部屋から顔を出して確かめた。点々とする血痕。床に倒れて痙攣している男が一人。ヨーコはしっかりとテレサを胸に抱いて外へ出た。これで助かった。
後は一階に下りて外に出るだけだ。しかし階段へと続く曲がり角を曲がろうとした時、ヨーコは背後から肩を掴まれた。激しく体が回転して男が背中に回りこみ今歩いてきた廊下の方を向かされた。男の左腕が首に絡み、こめかみに銃、対面奥には二人の特殊部隊員。
「武器を捨てろ!」
後ろの男が喚いた。非常に不味い。捨てるわけがないどころか3人纏めて蜂の巣になりかねない。この男はバカなのか。まだ若く、経験が少ないのかもしれない。
軍の方も何か叫んでいるがスタングレネードの後遺症でよく聞こえない。
「子供を下ろすわ」
「余計な事すんじゃねぇ!」
男の言う事を無視してヨーコはゆっくりとテレサを下ろして階段の方へと背中を突いた。
「ほら、行って、後からすぐ行くから」
テレサは曲がり角の奥へとことこと歩いてこちらへ振り返った。ヨーコは手の甲を振ってあっちへ行けとジェスチャーしたがテレサは不思議そうな顔をして留まっている。
一応テレサが射線から外れて軍の弾が当たる事は無くなったが、子供がいなくなった事で自分ごと射殺される公算は増した。
「お願い、撃たないで」
ヨーコは後ろの男ではなく軍に叫んだ。通常麻薬組織の制圧部隊は覆面をしていてその表情は伺い知れない。ヨーコはゆっくりとバッグの中に手を入れて銃に手を伸ばしたその時だった。
隊員の腕に力が入ってわずかに銃口が上がってピタリと静止した。
「くそっ」
ヨーコは男に後頭部で頭突きをすると、素早く体を曲げて尻で男を突き飛ばし、そのまま床に頬をつけてべったりと伏せた。篭った破裂音が鳴り響く。
「マジで撃ちやがってちきしょう!」
銃声が鳴り止むと同時に立ち上がって血まみれて倒れている男を尻目に駆け出す。立っていたテレサを腕に引っ掛けると一気に階段を降り、ロビーを走って割れたドアをくぐり抜けた。軍の車両を縫って道路を挟んで対面の駐車場に向かう。軍関係者が警戒にあたっていたが、さすがに子供を抱いて走って来た女に警戒する人間はいない。
駐車場に男が立っていた。ヨーコは銃を抜いて向けると叫んだ。
「頭に手を置いて伏せろ!」
驚いた男が慌てて従う。どうやら杞憂のようだ。車に乗り込んだヨーコはテレサの体をまさぐった。
「痛い所は無い?耳は聞こえる?」
そう言って心配するヨーコを逆にテレサは心配そうに見た。返事の無いテレサにヨーコの顔色が変わる。
「耳は大丈夫?あたしの声が聞こえる?」
テレサは頷いた。胸を撫で下ろしたヨーコ自身は耳がやられ、自分の体内から聞こえてくる声の方が大きかった。
車はさらに東へ向かった。ヨーコは考えていた。自分の人生は血塗られている。唯一穏やかだった十数年間の幸せな日々を思い出す。自分の人生は暴力で始まり、そして幸せだった時間を捨ててまた自ら暴力の世界に入った。テレサに二の轍を踏ませてはならない。遠くへ。こんな腐った国からはおさらばして遠くへ。みんなが笑って暮らせる世界へ。誰もが神に願うがアイツは役に立たない。それは現実が証明している。そこに気づかないやつは間抜けだ。自分だけが頼りだ。こめかみに銃を突きつけられ、前から
マシンガンを向けられた時、祈ったって何も解決しやしない。そういう場合、多くの人間は死んでしまうだろうが自分は生き残った。神の額を撃ちぬいたとしてもちゃんと生き残ったのだ。ざまーみろ、これからは神の顔を見る度に撃ちぬいてやる。そう思いながらヨーコは自分が強く神という存在を意識している事に気づいていなかった。
テレサは眠っている。本当に豪胆な子だ。たった今戦場から逃げ出してきたばかりだというのに。そういえば自分にもどこか不感症な所がある。鼻歌まじりに人を殺すのを揶揄される事がある。人によっては自らの所業でPTSDになる者さえいる。自分にそれは無い。それは全てあの夢から始まっているような気がする。
否、あれは夢などではなく現実に起こった事なのだ。自分はあの戦場で父に拾われた。父に抱かれて建物の外に向かう。あちこちに転がる数十に及ぶ死体。
あの女の人もいる。あの人は…。自分はあの人に向かって手を伸ばしている。泣いている。自分は泣いている。ヨーコは急ブレーキを踏んだ。夜の道で止まった車の中でハンドルに顔を伏せて震えた。横でベルトを外す気配がしてテレサがシートの上を歩いてきた。そしてヨーコの頭を抱いて頬を寄せた。
「泣かないで」
「う…あ…あああああああ」
思わずテレサに縋るように抱きついて声を出して泣いた。
「大丈夫」
テレサは自分の唯一の理解者だとヨーコは思った。
本当はわかっていた。あれは自分の母なのだと。でも目の前にいる母と記憶の底にある母との間で悩み、自分なりに答えを見つけ出したのだ。父の日誌を見つけた時に事実は確定した。父の部隊が母を殺し、そして自分の手で本当の父を殺した。これが呪いでなくてなんだというのだ。逃げるしかない。全てを捨てて逃げるしかない。
そしてこれからはテレサの為に生きるのだ。唯一気がかりなのは育ての母。落ち着いたら母も呼んで3人で暮らそう。ヨーコは涙に濡れた顔を上げてテレサの頬を触った。
「ねぇテレサ、名案が浮かんだわ」
ユカタン州メリダ。ヨーコはここで偽造パスポート職人を探した。その筋の人間とは接触を避けたかったが、当たり障りの無さそうな地元ギャングを金で手名づけて紹介してもらい、テレサの分のパスポートを注文した。パスポートが出来次第カンクンまで行き、キューバ大使館でビザを申請する予定だ。もし入国が認められなければ
その時はその時だ。この町は治安がいい。自分で闇に足を踏み入れない限りは安全に暮らせそうだ。ヨーコは久しぶりに少しお洒落をした。少し透けた部分がある白いワンピースつばひろの帽子にオーバルのサングラス。そして新兵器、ベビーカーだ。テレサを乗せるのには多少無理があるが、これをやってみたかった。ヨーコはご満悦でベビーカーを押した。白い建物や淡いオレンジの美しい建物が並び、緑が多く町は清潔で人はみな穏やかだ。観光客も多く活気がある。この町では銃は必要なさそうだ。建物の一階道路側は水道橋のような連続アーチになっていて、そこから建物に入れば一般の人も通れるオープンスペースのようになっている。道路を渡り、緑の公園を抜けて対面で見つけたオープン
カフェで食事を摂る事にする。ところが出された料理を口にしてヨーコはテレサを制した。辛かったのだ。ちゃんと注文をつけたのだが店員が適当に返事をしたようだ。ギラリと殺意が芽生えるが、もうマッチョな生活とはお別れを誓った。店員を呼んで嫌味交じりではあるがちゃんと笑顔で注文し直した。テレサには普通の子に育って幸せになってほしい。
女の子らしく育てるなら今からでも遅くない。そのためには自分が女らしくなる必要がある。はたして自分にできるのだろうかとヨーコは不安になった。
夕暮れ時に川のほとりをベビーカーを押して歩いた。この町は暗くなっても危険な香りを感じさせない。ヨーコは足を止めてバッグからベレッタを出した。何度も握り直しながらじっと見詰めると川に向かって振り上げた。川に向かってゆらゆらと何度も揺れる体と腕。結局ヨーコは腕を下ろしてもう一度ベレッタをじっと見ると、バッグに仕舞った。
メリダに滞在して6日目、偽造屋から電話があった。やけに時間がかかると思ったがそれだけ人気の職人ならいい仕事をするのだろうと我慢していた。
店に入るとエプロンをした初老の店主に席に座って待っているように言われた。電話がかかってきたのはテレサが寝た直後だったため夕方行くと回答したがすぐに出かけて3日は戻らないという。ヨーコは悩んだがセキュリティの強固なホテルに滞在していたので車で一っ走りすれば大丈夫だろうとテレサを置いて来た。一刻も早く帰りたいと思っていたヨーコはイライラして踵をカツカツと鳴らした。ほどなくして出てきた主人はマテ茶のセットをトレイに乗せて来た。
テーブルに置いてお茶を入れ始めた主人にヨーコは顰め面で聞いた。
「そんな事よりパスポートは?」
「まあ、初めてのお客さんだし、お近づきの印にお茶でもどうぞ」
ヨーコは目線を落としてきょろきょろとして考えた。はっとしてすぐさまバッグからベレッタを抜いて男の額に突きつける。
「誰に頼まれた!」
「ひ、ひぃ、勘弁してくれ!」
男の態度と表情にヨーコははめられた事を確信して即座に発砲した。脱兎のごとく店を飛び出すと車に飛び乗りホテルへ走った。ロビーに入ると受付カウンターの横から男の足が投げ出されている。慌てて自分の部屋に上がると、カードキーを通して部屋に入る。
「そんな…」
ヨーコは空っぽのベッドを見てその場に崩れ落ちた。