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家族

 イライア・アレハンドロは眼鏡をかけてお茶を飲みながら新聞に目を通した。後ろで纏めた白髪交じりの髪の毛が顔の横に垂れてくるのを耳にかけながら、口をへの字に結んでいる。新聞には大して大きくもない扱いでチワワ州の抗争の記事が載っている。

 メキシコシティ郊外、農地の真ん中でイライアは一人静かな余生を送っていた。軍人であった夫に先立たれ、ヨーコが家出同然で出て行った後、海軍基地のあるバハから生まれ故郷に帰り、軍人恩給をもらいながら今は主に農作業をしている。今日は珍しく電話が鳴った。怪訝な顔をして眼鏡を外すと席を立って受話器を取った。

「オーラ」

 電話の相手は何も言わない。

「あの、誰ですか」

 無言ではあるが電話の向こうに人の気配は感じる。顔を顰めて一度受話器を見て再び耳に当て、もう切ろうかと思った時相手が応答した。

「土ガエルはもう鳴き止んだかしら」

 イライアは一瞬息を呑んだ。幼い頃、母の故郷に来ると、カエルの声が嫌で眠れないと娘はぐずった。電話の相手が誰であるかを確信してイライアは絶句した。

「あ…あ…」

「ブロッコリーの木の洞に電話があるわ」

 そう言ったきり電話はプツリと切れた。


 イライアは取るものも取りあえずトラックに乗った。その様子をヨーコは見ていた。集落にある教会の鐘楼の窓から畑の真ん中にあるイライアの生家を観察していた。

 イライアのトラックが通りに出ると、通りの並木の陰から青いカマロが一台、畑を挟んで反対側の通りの黒い車も動き出した。ヨーコは溜息をついて単眼鏡を下ろした。ヨーコは減音機のついたレミントンを携えていた。他にも高い建物はあったが教会を選んだのは神への嫌がらせだ。人殺しの道具で聖域を汚してやろうと思ったのだ。

 やがてイライアは走って3分の畑の真ん中にある木に辿り着いた。ヨーコが昔、形が似ているためブロッコリーの木と呼んでいた巨木だ。監視らしき車は100mほど離れて止まった。

イライアは焦ってドアを閉める事も忘れて木の所まで走っていく。べたべたと足を着けて走る格好に老いを感じてヨーコは少し寂しくなった。イライアは洞に手を入れて電話を取り出した。道路からは手前のブッシュが邪魔して何をしているかは見えないはずだ。イライアはもつれるような手つきで電話を操作した。たった一件のメモリーを見つけるのにさほど時間はかからなかった。ほどなくしてディスプレイに着信の文字が現れヨーコは通話ボタンを押した。

「ヨーコなの!ねぇ!」

「ママ」

「元気なの?今どこにいるの?近くなの?」

「もうそこには居ないわ、キューバ行きの船の中」

「ああ…神様」

 電話の向こうですすり泣く声が聞こえる。

「生きてるなら…生きてたならどうして連絡くれなかったの!十五年も!」

 感情が高ぶって激高したイライアに何も言えずにただ謝った。

「ごめんなさい」

「声を…声を聞かせて」

「ママ、本当はずっと会いたかった、でも会うのも辛かった、あたしはどうすればよかったの」

「ああ、ヨーコ、可愛そうに…」

「ママ、あたしは悪い子です、でもいつか…いつか」

 ヨーコは何かいいかけてやめた。

「心配かけてごめんなさい、あたしから連絡があった事は誰にも言わないで、愛してるわ」

「待って!せめてもう少し」

 ヨーコは電話の主電源を落とすとSIMカードを抜き取って踏み潰した。大きく溜息をついてうつむいたヨーコに見上げるテレサが言った。

「泣かないで」

 ヨーコは涙を流しているわけではなかったが、テレサは敏感にヨーコの心を読み取った。笑って頭を撫でるヨーコを複雑な表情で見詰めた。

 

 ヨーコは下に下りると教壇の所に縛って口にガムテープを張っておいた神父をぶん殴って銃口を額に突きつけた。

「携帯は?」

 白髪頭の神父はまん丸に見開いた目を右下にやった。ラフな普段着の背広から携帯を探り当てるとテレサににっこり笑って言った。

「ちょっと待っててね」

 そういって懺悔室に入ると自分の電話と見比べながらダイヤルした。電話がかかり、相手が出た。

「アロンゾだ」

「てめぇ、どういうつもりだ」

「ヨォーコー、心配したぞ、今どこにいる」

 アロンゾはさも親しげに今でも友情が健在と言わんばかりに返してきた。

「よく言うよ、戦争しかけてきたくせに」

「あれはちょっとした手違いだぁ、命令系統の混乱てやつさ、メキシコシティにいるのか?」

「いるわけねーだろバカか」

「母さんも心配してるだろぉ」

「へっ知るかよあんな女、まだ生きてやがんのか、いいか、あの女はなぁ、あたしを誘拐して20年間も母親面して騙してたんだぜ、だから家出したんだ、今更知った事かよ」

「こうしよう」

 急にインテリ口調になってアロンゾは提案してきた。

「ドルで10万用意しよう、どうだ?」

「っへぇー、さぞや儲かるからくりがあるんだろうねぇ」

「いいか、その子はアメリカ側のエルパソのバイヤーの娘なんだ、いわば俺達のパートナーだ、そのパートナーが困っているから俺達がその子を送り届けてあげようって寸法さ」

「ふむ、なるほど、その謝礼、すなわち身代金が100万、いやもっとか」

「おいおい、半分は善意なんだぜ、手間賃いただけりゃそれでいいのよ」

「どうだかねぇ」

 ヨーコはわざと間を持たせて言った。

「よし乗った」

「そうか、協力してくれるか」

「何都合のいい事言ってんだよ裏切っといて、あたし一人でやるよ、じゃあな」

「待て待てヨーコ」

 ヨーコは電話を切って懺悔室の外にでた。そして再び鳴り響く電話を床に転がして銃床で潰した。

「なかなかいい懺悔ができたよ、神父さん」

 そう言ってライフルを構えると、神父の額にぴたりと狙いをつけた。目を見開き、篭った声で「うー」と呻く神父から狙いを上に向け。キリスト像の額を打ちぬいた。

「悔い改める気は無いけど主よ、許したまえ、アーメン」

 そう言って肛門サインをするとテレサの手を引いて教会を後にした。


 ヨーコはその後もイライアの家を監視し続けた。攫われるような事でもあれば助けなければならないからだ。しかし3時間ほど経った頃、2台の車は引き上げて行った。

 その日の夜、テレサの髪を洗いながら徐々にブロンドに変化してきた頭を見て感慨深く言った。

「テレサはアメリカ人だったのね」

 しかしヨーコは顔を曇らせた。本当の家族がいるならその元で暮らすのがテレサにとって幸せなのではないだろうか。しかしテレサは自分をママと呼んでくれた。

 ママと娘は一緒にいるもんだと、ヨーコは都合のいい解釈で強引に自分を納得させた。そして自分の育ての親であるイライアの事も考えた。母は泣いていた。泣かせたのは自分だ。自分はいい娘になる事には失敗したけれど、暮らした時間が本当の親子にさせてくれる事を知っている。

 

 ヨーコはノートPCを開いて情報を集めた。エルパソ、誘拐、麻薬ディーラー。答えはすぐに出た。ミハイル・ベルマン、通称ミーシャ。血で血を洗う抗争。妻コリーンは行方不明、自宅襲撃でボディーガード及び使用人全員射殺、娘オリガは拉致され行方不明。そして本人もその後出先で銃撃され死亡。ケイマン諸島等のオフショアーに貯蓄された

莫大な洗浄済み資金と豪邸や別荘が遺産として残された。現在兄妹達が相続の検認手続き中。それをミハイル達の父が孫のオリガが生きていると主張して差し止め請求中。

 ますますテレサを帰すわけにはいかなくなった。狼の群れに子羊を放りこむとはこの事だ。オリガことテレサの争奪戦が始まるに違いない。下手すれば暗殺される。

 テレサは両親を失い、ロクデナシの身内に囲まれて天涯孤独のようなものだった。ヨーコは嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。テレサがあまり喋らないのはスペイン語がわからない他にも、この複雑な環境によるものなのかもしれない。修羅場でも驚くほど落ち着いているテレサの、まだスタートしたばかりの人生を思うと心が痛む。

 自分とテレサはよく似ている。20歳まで知らなかった自分のルーツ。もしテレサが自分と会う以前の事を忘れる事ができれば、事実は墓場まで持っていこうとヨーコは誓った。

 父親の事をどう誤魔化すかが問題だがそれは後々考える事にした。

 ヨーコは厳しくも優しかった父を思い出した。父は忙しい人だった。軍人で沢山の部下を持ち、責任が重くてロクに家にいない父だったがヨーコと遊べる時はいつも射撃を教えてくれた。誉められるのが嬉しくて必死で的を狙った。父に少しでも近づきたくて、毎日走りこんで父のトレーニングマシンで体を鍛えた。

女の子なのにと言って渋い顔をする母を尻目にひたすら鍛え上げた。『えらいぞ』と撫でてくれる父の手が恋しくて気がつけば父と同じ軍隊に入る事が夢になっていた。

 父が殉職したのは13歳の時だった。内通者によって顔と行動が知られていた父は組織に暗殺された。ヨーコは復讐を誓い、16で海軍に入隊する。すぐにその才能を見出されたヨーコは例外的に訓練1年目で実戦投入された。そこで見たものは理想とはかけ離れたものだった。正義の名の元に繰り広げられる殺戮。踏み込んだ建物にいた人間は皆殺しにされた。女子供がいれば撃たないように努力する程度、制圧の方が優先された。ヨーコは日に日に人の心を失っていった。

 父の日誌を見つけたのは20歳の時だった。父の部隊が制圧した組織のアジトに、人質として捕らえられていたドゥランゴカルテルのドン・ベルナンデスの娘を連れ帰ってその当時、同年代の娘を失った上に子宮頸癌で子宮を無くし、塞ぎこんでいた妻に与えたとある。

 ヨーコはあまりの事に崩れ落ちて立つ事ができなかった。本当の親子ではなかった。まだその事はいい。ヨーコは思い出した。時を遡る事2年前、作戦前に渡された写真コルドバ・ベルナンデスの肖像。スコープの中で弾ける頭蓋。

 神を信じていたのもこの夜までだった。

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