未婚の母
耳をつんざく連続した破裂音、カーテンがバタバタと暴れてガチャガチャとガラスの破片が落ちた。目の前の男の人が苦しそうな表情でうずくまり、赤い血がボトボトと床に落ちた。女の人が叫んでいる。『ヨーコ、ヨーコ』私の名前を叫んでいる。しかし壁の向こうの複数の破裂音の後に声は聞こえなくなった。
ドタドタとたくさんの足音が聞こえて男達が現れ、一人がうずくまる男の人の頭に小銃の銃口を突きつけた。開け放たれたドアの向こうで女の人が仰向けに倒れ、光りを失った空ろな目でこちらを見るように顔を向けている。目の前の男は泣きながら何か言っている。見上げると銃を向けた男は聞いた事のない訛りで何か口汚く罵っているように思えた。酷く興奮した男はうずくまった男の必死の懇願に耳を貸さずに言葉を被せて吐き捨てている。やがて両者の言葉が同時に途切れ、震えながら床に額をつけている男を見下ろす目が妖しく光った。オンボロラジオから蓄音機のように篭った音でアメージンググレイスが流れていた。
乾いた一発の銃声が鳴り響いた。
スコープの向こう側、トレーラーハウスの入り口に立っていた男の頭がぶれて男の体は蛇腹のように縦に崩れ落ちる。次弾を装填して銃身を安定させると丁度物音に気づいて男が出てきた。
倒れている男を見て即座に腰から銃を抜いた男の腹を撃き、素早く次弾を装填してうずくまった男の頭を撃つ。スイカのように
頭の一部が砕けてトレーラハウスの壁に血しぶきの花が咲く。スコープを横に流し見ると窓のカーテンがわずかに開いた。両開き式になったカーテンのやや右側を狙い撃つと、ガラスにひびが入り、カーテンに赤い染みが広がった。
「何人やったか報告しろ」
小高い高い丘の上から参戦していたヨーコ・アレハンドロは無線で聞こえてきたホンジュラス訛りの声に眉をひそめながら応えた。
「おそらく3人…」
そういいかけてトレーラーハウスの裏側からちらりと顔をのぞかせた男が目に入り咄嗟に撃つ。肩口に命中して機関銃銃を取り落とし、半身が露出する形で倒れた所に胴体にもう一発。
「4人」
そう言ったとたんに倒れた男の後ろから人影が現れた。即座に反応して指に力が篭ったがヨーコは指を止めた。白いフリルのワンピースを着た少女だ。2、3歳といった所だろうか、少女は指を咥えて無表情に男を見下ろしている。その時前衛の突撃部隊の後頭部がスコープの端にちらりとに映った。ヨーコは胸ポケットから単眼鏡を抜いて覗いた。
さながら軍隊並みの装備を整えたゴロツキ共が左右に展開して建物を外側から蜂の巣にする。ほこりと建物の破片が舞い散る凄まじい修羅場の中で少女は不思議そうに男を見下ろしている。ヨーコの額に汗が滲む。
深く深く体が沈みこむような感覚に身を任せると、複数の銃声と男達の奇声がどこか遠くで起こっていることのように聞こえてくる。ヨーコははっと我に返って立ち上がると、近くに停めてあったピックアップの荷台の藁にライフルを突っ込み、運転席に回って乗り込んだ。グローブボックスから拳銃を取り出し、一度マガジンを落として左手で受け取り、弾を確認してセットしなおすとジーパンの後ろ側に突っ込んだ。
「あいかわらずの腕だな、グラシア」
「うるせー、金玉潰れろホモ野郎」
肩から掛けたAK47を横に構えてリラックスした男が掛けた言葉に、ヨーコは苛立って肛門を示すOKサインのようなジェスチャーをして通り抜けた。他人に気安く通り名で呼ばれる事が気に入らないのだ。ヨーコは真っ直ぐにトレーラーハウスに向かうと中から出てきた三下に肩をぶつけながら両側に死体の転がる低い階段を登った。入り口から左の広い方のスペースを見やると、作業台の上にラディリヨス・コカイーナと呼ばれるブロック状のコカインと、化学実験用のような再精製用の機材が並んでいる。ここで一旦粉に戻してカフェインやリドカインテトラカイン等の混ぜ物をしてブロックを再生しているのだ。
ヨーコは作業台の前で物色をしているアロンゾとエルナンドの後ろの壁で鼻血を垂らして足を投げ出し、力なく壁にもたれている少女をちらりと見た。
「あったぜ」
アロンゾがシガーボックスほどの四角い金属の板を投げてよこす。トライスターの偽造原版だ。この板で型に入れたペースト状コカインを圧縮して水分を抜く。トライスターのエンブレム、コロンビアのボゴダカルテルがアンデス山脈北部で精製したコカインは品質がいい。最近その信用が落ちてきている。そこでメキシコを拠点とする流通経路のドゥランゴカルテルが疑われたのだ。その疑いを払拭するために調査を開始して半年。
ついに信用を貶めている雑魚組織の工場を発見したのだ。国境に近い砂漠の一本道から数キロ離れた窪地にあったその工場は2年ほど前から稼動しているらしい。ヨーコは少女を気にしながら心の無い笑いを作った。
「やったねぇ」
アロンゾがニヤリと笑う。
「う…ううう」
ヨーコの足元に仰向けに寝ていた男が呻き声を上げて頭を起こした。ヨーコは視線だけで一瞥すると腰からベレッタを抜いてスライドを引きながら右足を上げ、男の頭を撃った。男の頭が弾け、左足のブーツに血が飛び散ってヨーコは顔を顰めた。
「で、それどうすんの?」
ヨーコはブーツを男の胴体に擦りつけながらアロンゾの方に顔を向け、顎をしゃくってブロックを示した。
「半分はエンブレムを消して売りさばくさ」
「あと半分は?」
「ボゴダの直営ルートに証拠として差し出す」
ヨーコはどうでもいい話をしながらさりげなく聞いた。
「それは?」
少女に銃を向けてぶらぶらと動かした。
「ん?ああ、こっちは得意じゃねぇ、エルモシージョに売るにしても生かして連れて行くのが面倒だ、ほっときゃ死ぬだろ」
「んー、あー、あたし心あたりがあるからもらってもいい?」
「好きにしろ」
ヨーコは銃を仕舞ってアロンゾの後ろまで行くと、少女を見ながらアロンゾの肩に原版をペタンと当てた。アロンゾが原版を受け取ると空ろな目の少女の襟首を掴んで引っ張り上げた。
「オラ、来い」
半ば引きずるようにして入り口まで連れて行くとアロンゾに振り返って言った。
「じゃあ帰るから」
「ああ、ご苦労だったな、また連絡する」
少女は大人しかった。シャワーを浴びさせて髪を洗うのに、従順な動作で従った。タオルで頭を拭き終えると少女の背中を支えて、片方の足首を持ちあげながら股を覗き込んだ。
「ごめんね、ちょっと確かめさせて」
しげしげと幼いそれを見て納得したように頷いた。
「うん、大丈夫だ」
少女は暴行は受けていないようだった。まだ幼い少女だがどこにでも鬼畜はいる。ヨーコはホテルに帰る道すがら子供用の服を買った。元々着ていたワンピースはわりといいものだったが砂にまみれていた。赤いワンピースを着せて髪をとかすと少女を姿見の前に立たせた。
「どう?」
黒い髪を胸まで垂らしているヨーコが少女の肩に顎を乗せて黒い目で鏡の中の少女を見る。浅黒いヨーコに比べて少女は抜けるように白かった。
髪の毛はヨーコよりやや薄いブルネットだが目は青い。少女は自分の姿を見てから鏡の中のヨーコを不思議そうな目で見た。
「名前は?」
少女はじっとヨーコを見て黙ったままだ。ヨーコは眉尻を下げて首をかしげた。
「おっけー歳はいくつ?」
相変わらずの少女だったが、しばらくして右手を上げ、小指と薬指以外の指を立てた。ヨーコは笑顔で頭を撫でて言った。
「よし、じゃあ名前は勝手に決めちゃおう、んーそう、テレサね、実り多きように、よろしくテレサ」
少女の体をこちらに向けて向かい合うと、上げていた手を強引に握って握手した。
ヨーコはこの少女をどうしたいのか自分でもわからなかった。ただ言える事はあの場に放置すれば死ぬか、酷い人生に転落するのは確実だった。
口の周りが血塗れの獣のように生きてきて、いまさら仏心を出して善行をしようというわけでもないが、どうしてもほうっておけなかった。
少女はどういう経緯であそこにいたのかはわからない。父がいたような反応でもない。あの場にいた男は皆殺しにしたのだ。それにこの歳にして
修羅場には慣れているようだ。連れて来てからずっと観察しているが。心を失っているわけでもなさそうだ。
ヨーコは先週買ったワゴン型ベンツでテレサを連れてメキシコシティを目指した。チワワ北部のシウダーファレスから1500km。この国でこのような女の一人旅は自殺行為だがヨーコには関係がなかった。孤立した状況で危険な匂いを感じれば撃つまでに0.1秒も考えない。怪しきは敵だ。
反射的に撃った人間の中には善人もいただろう。しかしそれを事前に確かめる術は無い。ダルマにされて犯された挙句にピニャータのように吊るされるのはごめんだ。
砂漠、草原、トウモロコシ畑、半日走って予定通り1つ目のモーテルに辿り着いた。テレサにシャワーを浴びさせ、買い込んだ服の中から
どれを着せるか悩んだ。赤いフレアスカートと袖に余裕のあるブラウスを着せ、少し大人びたデザインの光沢のある黒の靴を履かせた。
ヨーコには部屋着という概念が無い。いつでも動けるようにしておくのがスタイルだ。テレサを膝に乗せて髪を
ブラッシングしているとヨーコはここで気づいた。つむじから生えている毛の根元がプラチナブロンドになっている。髪は染めていたのだ。
どおりで他の条件に対して髪の色がおかしいはずだ。テレサの顎を持って上を向かせ、眉毛を親指で撫でる。やはりこちらも染めているようだ。
「凝った事で」
さして気にするでもなくヨーコはご機嫌で髪をとかしていたその時だ。
「ママ」
ヨーコは驚いて手を止めた。眉根を寄せて固まっているとテレサが振り返って言った。
「ママ」
ヨーコは戸惑い、考え、そして一つの答えを導き出した。胸が熱くなり、目に涙が溜まった。テレサの顎に手を回してボールを抱えるように
頭をぎゅっと抱きしめた。
「そう、私がママだよ、テレサ」
自分でもどうかしてるとヨーコは思っていた。何か後戻りできない所に足を踏み入れつつあるのではないだろうかと。それでもよかった。
25歳の時に自分の男を、重なった女ごと撃ち殺してからもう10年ほどもこんな気持ちになった事はなかった。金はずいぶん稼いだが、幸せとは無縁の人生だった。しかし確かにヨーコは今、幸せを感じていた。
その時携帯電話が鳴った。電話を取ってみると知らない番号だったが、少し考えて電話に出た。
「ホセフィーナ」
ヨーコは偽名で応答したが、相手が戸惑うようなら電話は切ってSIMは廃棄するのが自身の定石だった。
「ヨーコ・アレハンドロか、エルナンドだ」
アロンゾの右腕だ。ヨーコはこのホンジュラス出身の男があまり好きではない。それにテレサとの時間を邪魔されてすこぶる機嫌が傾いた。
「ちっ、なんだよケツの穴」
「女の子だ、あの子はいるか」
ヨーコがテレサをちらりと見るとテレサも胸元から顔を捻ってヨーコの様子を伺っている。
「売っちまったよケツの穴」
「何処で売った」
「しらねーよケツの穴」
「ケツケツ言うな、まだいるんだろ?返してくれないか」
「いねーようるせーなケツの穴、屁こいて寝ろケツの穴なんだからよー」
そう言って電話を切ったがすぐにまた掛って来た。ヨーコは電話の電源を切ってにこにこしながらまたテレサの髪をとかしはじめた。
「おばかなおじちゃんがね、テレサがあんまり可愛いもんだからよこせって言うんだよ」
テレサがギクっとした顔で振り向いてヨーコに縋ってきた。
「ママ」
ヨーコはテレサを抱きしめて頭に頬をつけるとゆらゆらと揺れながら言った。
「大丈夫、私はあなたのママなんだから誰にも渡さないよ」