夕暮れ
1
食べてはいけないと思うものほど目についてしまうのはどうしてだろう。
オレンジ色のカゴを左手に、右手はサンドイッチだのプリンだの、チョコレートだのを次々と放り込んで行く。少し前まではそれでもカロリー表示を気にしたりしていて、飲み物はノンカロリーの物を選んだりしていたはずなのに。
夜のコンビニは必要以上に明るく、そっけない。誰も私を気にしたりしない。晩ご飯はきちんと食べたのに、ここのところほぼ毎晩、私は夜のコンビニに通っている。買うものはパンやお菓子の類だ。空腹ではない、ただの食欲が私に取り付いている。過食症なんだろうな、と思ってはいるのだけれど、吐くまでには至らないので自分でおろおろと焦っているだけだ。この一ヶ月で四キロ太った。吹き出物も増えた。止めたい、と思っているのに止められないので、私はこのまま太り続けて最悪な状態まで落ちて行くのだろう。
レジ前の柱には鏡が貼りつけてあり、そこに映る自分に私は一瞬たじろぐ。メガネの奥の腫れぼったい目、膨れた頬、服では隠し切れなくなってきた腕や背中の肉。化粧すらしていない肌は荒れていて、私は鏡から慌てて目を逸らす。
もう、女として失格だと、誰かに言われたいのかもしれない。自分でも認めたいのかもしれない。人生に投げやりになっているのは、来月三十になろうとしている自分は馬鹿みたいに不倫なんかをしていて、その相手からも捨てられようとしているせいだ。
『君も、そろそろちゃんとした幸せを見つけないといけないのかもしれない』
いつか、妻とは別れるから君と一緒になりたい、と泣き顔で語った人の口と、同じ口から出てきた言葉だとはどうしても、信じたくなかった。五年近くも不倫の関係にあれば、それも日常と化して結局飽きがきてしまうという事なのだろうか。
十と少し違う相手は、会社の上司で、そして五年前まではまだお腹もそんなに出ていなくて、私を好きだと言ってくれる、優しい人だった。
「……ちゃんとした幸せって、」
つい思っていた事を独り言で口に出してしまう。はっ、としたけれども、レジを打つピンク色をした髪の男の子はなんの反応も見せず、ただスプーンはお付けしますか、と棒読み台詞のような言葉を発しただけだった。
ちゃんとした幸せって何よ、結婚って事かしら、でもそんなの、と思いながら私は店員に指示された金額を払う。結婚。結婚はちゃんとした幸せなのだろうか。その前に、この私を相手にしてくれる人がいたりするのだろうか。
考えると暗くなる。暗くなると過食が進む。
馬鹿みたいに買い込んだお菓子を持ち帰り、もう寝てしまっている両親を起こさないように部屋へ戻る。ベッドの上で戦利品のようにビニール袋の中身をぶちまけると、私は急いでそれらの物を口に運びはじめた。
卵のサンドイッチ、ポテトチップスをひと袋、アップルパイ、チョコレートをひと箱、三個入りのドーナッツ、クッキー、クロワッサンのカスタードサンド、何も考えずに口の中へとすべてを押し込んでゆく。舌先が甘さを感じているのは最初のうちだけで、そのうちに何を食べても同じ味になってしまう。
何をしているのだろう、と考える事が出来るのは、目の前に食べ物の残骸が転がり、胃がもうこれ以上はどうしても駄目だと音を上げるまで行った状態になってからやっとだ。摂取したカロリーが怖くて、私は袋の表示部分を見ないようにしてごみ箱へ残骸を放り込む。何度も吐こうとした事はあるのだけれど、私の卑しい身体は食べた物を戻す事をけして許さなかった。
ずっと、これが続くのだろうか。
チョコレートの匂いがするため息に、自分でも情けなくなってくる。
大分目立ってきた下腹を摘まむと、恐ろしいぐらいに摘まめてしまった。頬に触る。ぶつぶつと、吹き出物の感触がある。背中だって段々になっている、ブラジャーがきつくなってきたのはカップが上がったからではなく、アンダーバストに肉が付いたからだろう。
食べなければ良い、そんな事は分かっているのだ。
分かっているのに出来ないというのは、弱い人間だからだと言われるだろう。私を笑える人間は、強い人なのだ。言い訳ばかりが頭の中に浮かぶ。だって、だって、と。二十五まで処女だった私は、大して見栄えもしない冴えない女で、自他ともに認める暗い女だった。今思えばそんな私だから、家庭だって壊さないだろうし自分から噂を流したりするような女ではないと思われたのだろう、職場の係長が私に声をかけてきたのだ。生まれて初めて、人から関係を持とうと言われた時の嬉しさだけで、私は彼と不倫してしまった。今まで、どんなに好きな人が出来ても、私は告白すらすることがなかった。私など、誰も相手にしてくれないだろうと思い込んでいて。
唯一、真実ではないにせよ、彼は私を好きだと言ってくれた。小太りで地味で、暗いだけの私を。私の、初めての人だった。彼の家庭を壊す事なんて考えた事もなかったし、私と関係を持ってくれるだけで幸せだと思っていたのに。
私は、このまま彼に捨てられてしまうのだろうか。
それは嫌だ。
彼を失くしたら、私は永遠に誰からももう好きだと言ってもらえなくなるのではないだろうか。
焦りと不安とが混ざって私を責め立てる。それから逃れようと、私は過食に走る。そう、過食の原因さえ理解出来ているのに、私はそれをやめられない。逃げているのだ。
食べ物が、私の焦りの分だけ、不安の分だけ身体に蓄積してゆく。醜い肉となって。それはひどく恐ろしくて、けれどもやめられなくて、私は自分をどんどん嫌いになってしまうのも止められないまま、どうしていいのか分からずにいた。
2
花の金曜日、と世間で言われている曜日でも、私にはあまり関係がない。珍しく定時で仕事が終わったので、私は家に帰ってから変な時間に夕寝をしてしまった。そのせいかもしれない、変な夢を見たのは。
「有紀、ご飯よ、有紀ちゃん、」
階下から母の呼ぶ声が聞こえて、私はぼんやりと起き上がる。
高校の頃、好きだった同級生の夢を見ていた。彼は勉強や運動が出来る優等生みたいな人とは正反対の位置に属していて、ホストのバイトをしているだとか継母と寝た事があるだとか、いろいろな噂を立てられているような人だった。でも、本人はまったく気にしていないようで、いつもだるそうに少し猫背気味にふらふらしていた。
その人の、夢を見ていた。
私は学校の廊下にいて、彼が友達と話すのをただ聞いていた。
『女なんてセックスした数だけ綺麗になるってホントだよな』
どんな会話に耳を澄ませていたのか、それは覚えていないけれど、彼のその言葉だけが耳に残った。
『男に相手にされない女なんて最低、食ってるだけの女なんて生きている意味もないね、セックスの相手のいない女なんて死んじゃって構わないって』
きっと、私の無意識が彼の形を取ってこんな夢になったのだろう。
夕寝など、したせいだ。
「有紀、有紀ちゃんってば、」
「はい、今行くって、」
髪の毛がばさばさなのも気にならない。腕に通していた黒いゴムで適当にくくると、私は重い身体を揺らしながら一階へ降りる。
「呼ばれたら早く来なさいって」
「うん、はい」
まったくこの子は、と母が笑う。父は黙ってビールを飲んでいた。
両親が「結婚」と言わなくなったのはいつからだろう。ほんのつい最近からのような気がする。私が過食を始めた頃から。それは、気のせいだろうか。
リンゴの絵がついた赤いお箸を握り、自分のぷくぷくした手を見た。そういえば高校の頃、同じクラスの雅子ちゃんはいつも綺麗な爪をしていた。つやつやに光る、ピンク色の爪。あの子の手は本当に綺麗だった。もう、誰かの妻となって誰かの母になっているだろう。
「有紀、ぼうっとしてないでご飯食べなさいよ」
今年還暦を迎える母は元気で、私と同じような体型をしているくせにちゃきちゃきと動く。ご飯を茶碗につがれて、目の前に差し出された。餃子と、トマトのサラダと、三つ葉の煮びたし、お味噌汁と漬物とキンメの煮付け。取り合わせの妙な晩ご飯を、私は両親とぽつぽつ会話しながら平らげてゆく。お味噌汁が少し濃いだとか、トマトのサラダは中華ドレッシングじゃ合わないとか、野球はどこが勝っているのかだとか、近所の野良猫がまたゴミを漁る、だとか。差し障りのない会話。テレビがついている日は会話も少ない。そして私は食事中だというのに、もう今夜自分が食べてしまうであろうものの事を考えていたりする。昨日のチョコレートラスクは美味しかったから今日も、だとか、こしあんの入った草大福が食べたいわ、だとか。
きちんと食事をしているのに、私の身体はどうかしている。
いや、私の心はどうかしている。
母がお茶を注いでくれている時だった。テレビの横の、電話が鳴ったのは。
「あらこんな時間に珍しい、有紀、出てちょうだい」
一番近くに座っているくせに、父は絶対に電話を取ったりしない。よいしょ、と声をかけて、一番遠くに座っていた私は立上がり、電話を取った。
それは、知らない人の声だった。
『松本さんのお宅でしょうか』
「はい、そうですけれども」
上品そうな年配の女性の声。最近セールスの電話がかかってきて困る、と母が怒っていたけれども、この電話もそうなのだろうか。
『あの、わたし宮原と申しますが、その、浩次くんの事でお電話させていただきまして』
「はい? 浩次って、あの、兄は……」
兄は十年以上も前に亡くなっていますけれど、と小さな声で言うと、私の背後で父と母が緊張する気配がした。
『お兄さん……? あの、いえ、わたしの言っているのは、あの、高校生の、その、浩次くんの事でして、』
「兄は、高校生の頃に亡くなっておりますが……」
『いえ、あの、こちらの浩次くんです、まだ生きています、その、』
まだ生きています、と言う言い方が可笑しかったのだけれど、私は笑えなかった。なんの悪戯電話だろう。兄の同級生だった人からの電話にしては、声が老け過ぎている気がした。生きていれば三十五歳になる兄。
「ちょっと、有紀、母さんが代わるから」
後ろから手が伸びてきて、母が私から受話器を奪ってしまった。
お電話代わりました、と、いつもよりオクターブ高い声を出している。
「なんなの、宮原さんって言ってたけど知り合い?」
父に小声でそう聞いたのだけれど、彼は渋い顔をして首を横に振っただけだった。知らない、の意味なのだろう。
席に戻って、私はまだ熱いお茶を飲む。
お茶を飲みながら、相槌を打ったりなんとなく小声だったりする母の背中を見ていたのだけれど、そのうちに飽きてしまい、ごちそうさま、と言うと私は二階に上がってしまった。
「ああ、捨てなきゃ……」
自室のドアを開けて、まず目に入ってくるのが自分の昨夜食べたもののゴミだったりするとものすごく気が滅入る。滅入るのに、そこから連想ゲームみたいに今夜食べようとするものが頭の中に浮かんで来てしまう。
今ご飯を食べたばかりなのに。
私の胃は、きちんと満足しているはずなのに、頭が甘いものを欲しがっている。食べないと満たされないのだと、悲鳴を上げている。何かを誤魔化すために。何かから、逃げるために。
「有紀、ちょっといい?」
うんざりしながらも今夜の買い物の為に財布を開いて中身の確認をしていたら、一階から母に呼ばれた。電話が終わったのかと思い、返事をする。
「なに、なんだったの、さっきの電話」
ドアから顔だけ出して聞き、それだけで会話は終わるだろうと思っていたのに、母は階下へ来いと私を呼んだ。
「何よ……」
面倒だな、と不機嫌な声を出したのだけれど、居間には困惑した顔の母がいて、それはものすごく混乱したような顔だったので私は驚いてその場で食欲を忘れてしまった。
「有紀……」
「なに、何の電話よ、ちょっと、なに?」
「座んなさい」
父さんは、と逃げ出す言い訳で尋ねると、逃げちゃった、という返事がきた。
「大事な時に逃げちゃうんだからね」
散歩だとか言ってあの人はまったく、と母は怖い顔をする。
なんなのよ、と私が聞くと、母は困ったように首を横に振って、大きなため息をついた。
兄が亡くなったのは、私が小学生の時だった。十七歳だった兄は私の記憶の中でもそしてアルバムの写真の中でも、大人しい、真面目な人だった。校舎の四階から、誤って転落してしまったと聞く。頭を強く打って、数日間意識が戻らないまま、帰らぬ人となってしまった。兄の思い出は、正直に言えば私にあまり残っていない。ただ、母の大きな目と父のスマートな体型を引き継いで、少なくとも私よりは見た目が良かったかもしれない。
浩次という名の、今はいない兄。
「あのね、有紀。驚かないでちょうだい、あんた、兄ちゃんが居たのは覚えてるわよね」
「そりゃ、まあ」
兄が亡くなった時の両親の混乱振りは微かに記憶している。頭の良い人だったから、ある程度の期待はあったのだろう。不慮の事故で子供を亡くす親の気持ちは、小学生の私にははっきりとは理解できなかったけれども、それでもその悲しみは肌で感じた。
「兄ちゃん……あのね、子供が居たのよ……」
「子供ね、ふうん……は? 子供? は? なに? え?」
ちょっと待って、と私は叫んでしまった。
「待って、え、なに、実はお兄ちゃんあの時まだ死んでいなくて、今もまだ生きていてとか、え? なんの冗談? 母さん?」
「……冗談なんかじゃないわよ」
さっきの電話、と母が言った。
「兄ちゃんの子供が住んでるところの、大家さんっていうか、なんか、そんなような人からの電話で、」
「待って、待って、待って、意味が分からない、話が分からない、全部最初から説明して、なんなのよ、一体」
子供が居たの、兄ちゃんは事故死じゃなくてその、自分からね……命を……、という言葉が母の口から出てきた時、私は文字通り腰を抜かした。ソファによろよろと座り込むより先に、母の話が私に降ってくる。
「浩次ね、当時、二十以上年上の女の人と付き合っていたみたいでね……。その女の人には旦那さんが居たんだけど、その人、浩次の子供身篭っちゃって、離婚しちゃったのよ。それで、あの子はその女の人と一緒になるんだって、学校辞めて働くんだって言ってたんだけど、母さんや学校の先生は止めるじゃない……」
何度も相手の家に足を運んで、浩次の未来の為にあの子と別れてくださいと、なだめたりすかしたり怒鳴ったり、お金を渡したり訴えると言ったり、それはいろいろしたらしい。それで、結局相手の女の人は、認知してくれなくて構わないから子供だけは産ませてくれという条件で、兄の前から姿を消した。
「そしたら……浩次、すごく荒れてね……乱暴を振るうとかじゃないの、自分に対して怒りを爆発させてって言うかね……」
どうして俺は高校生で保護される立場で好きな女を守ったりその人と一緒に暮らしたりする事が出来ないんだ、と兄は泣いたそうだ。私はちっとも知らなかった。小学生だった私に、周りはひた隠しにしていたのだろうか。死んでしまった兄の、切ない想いを、私は今まで知る事もなく生きてきたのだ。
「あの日……あれはすごく良く覚えてるのよ、そろそろ夏だわねって近所の人と話してて、夕日が真っ赤でね、綺麗だけどなんだか不吉だわって言ってたら、浩次が……飛び降りたって……」
そこまで話すと、母は黙ってしまった。
私も俯く。
こういう時に出掛けてしまう父は本当にずるい、ずるいけれども、思い出したくない、私に話したくない、という父の気持ちも分からないでもなかった。
しかし高校生で子供とは、と思ってしまう気持ちもある。
真面目に見えたけれど、兄もする事はしていたのだ、と。
「ああ、それでね、浩次の子供……同じ名前らしいのよ、浩次と」
「え?」
「あの人が付けたんでしょうね、子供に、浩次の名前を。で、なんでも彼女、交通事故で亡くなっちゃったらしいのよ」
「ああ、さっきの電話」
そう、親子が住んでいた家の大家さんみたいな人からだったのよ、と母が言う。
「……もしかして、身内がいない、とか」
「そう」
「……で、うちに引き取れないか、とか?」
「そういう話ではなかったけれど、一応ご連絡まで、って」
もしかして母さん、その子に会いたいとか言うんじゃ、と私が言いかけるのを遮って、母がそうよ、と頷く。
「ちょっと有紀、その子を迎えに行ってよ」
「は?」
「もう、約束しちゃったんだけどね」
「なにを?」
「迎えに行くって」
「いつ?」
「今度の土曜日」
「って、明日?」
「そう」
「誰が」
「あんたに決まってるでしょ」
どこへよ、と叫ぶと、新宿の駅だって、と母はしれっと答えた。
「あんな人の多いところ、母さんみたいな年寄りが行くところじゃないし」
有紀お願いね、と言われて、三万円を渡された。電車代、相手の分も含めてという事なのだろう。
「お願いって、私の都合は、」
考えてないでしょう、と叫んでも無意味で、母はお願いするわね、とそれだけを繰り返す。
「ちょっと、何で」
私が、と怒鳴った時に、母が急に真面目な顔をした。
「だって有紀だけが冷静にその子に会えるでしょう?」
「……冷静?」
「そうよ、だって父さんや母さんは、……浩次が死んでしまう原因になった人の子供なんて、ましてやあの子と同じ名前の、あの子が死んだ年の子供なんて……会うには心の準備が必要なのよ、浩次に似ていたとしても、母親に似ていたとしても、この家以外のどこかで会うなんて事をしたら絶対に冷静でなんていられないわ」
「……そうかもしれないけれど、」
それなら明日なんて予定を立てなければいいではないか。
もっと、心の準備がきちんとできてからにすればいいのに、と思うのだけれど、母には兄と同じ名を持つ、兄の子にとても会いたいという気持ちもあるのだろうと、納得する事にした。
「……分かった、迎えに行くけど、」
恥ずかしい話、短大ですら地元の学校だった私は、県内から出た事がない。家族旅行ではあるけれど、ひとりで電車に乗った事もない。そんな私が、いきなり新宿の駅になど単身で行っても大丈夫なものなのだろうか。
「無事に会えるものなのかしら……」
兄の子、というのにもピンと来なかった。
その子の携帯電話の番号ですってよ、最近は本当に便利よねぇ、と母が数字の書いてある紙切れを渡す。
「あんたの携帯電話の番号も教えておいたから」
「え、じゃあ、本当に私を迎えに行かせるつもりだったの、最初から?」
「そうよ」
よろしくね、と笑う母の顔はそれでもいつもよりどこか真剣で、私は怒る気力も削がれてしまったまま、珍しく、本当に珍しく夜食も食べずに、そのまま部屋に帰って寝てしまった。
3
窓の外をびゅんびゅんと景色が流れてゆく。陽射しがあったので灰色のカーテンを閉めはしたのだけれど、細く開いた隙間から、田んぼや看板、公園や団地などを通り過ぎていくのが見えた。
朝、少し早めの電車だったので、考えていたよりも随分人は少なく、私の隣の席にも人は座っていなかった。最初は緊張して訳も分からずに混乱していたけれども、三十分も経つと次第に電車の中という状況にも慣れ、途中のコンビニで買ってきた朝ご飯に手を付ける事が出来た。パックのカフェオレにストローを挿す。ハムとトマトのサンドイッチを口にする。
自分ひとりだと平気で食べまくるのに、知らない人が居ると私は食べる事が出来なくなってしまう。電車の中でも、誰かが席を立つ度にびくびくして、食べているパンを膝の方へそっと隠したりしてしまった。自意識過剰なのだと思う。誰もが、「あんなにデブだから食べないといられないんだ、きっと」「あんなに馬鹿みたいに食べているから太るのよね」「あそこまで醜く太ってるのにまだ食べてる」などと言っているような錯覚に陥ってしまうのだ。
隣の席に誰も来ないうちに、と慌てて食事をする。
本当は、誰も私に特別な関心を払う訳ではないと、知っているのに、どうしても私は焦る。
トンネルに入った時、車内の方が明るくなったので、反対側の席に目を向けるとそこの窓に自分が映った。
血縁とはいえ、知らない若い人に会うのだから、と一応スカートなどをはいてみたのだけれど、無意味だったかもしれない。茶色のロングスカートに濃い緑色のカーディガン。老けて見えるのは否めないけれども、多少は細くも見えるはずだ。手入れのあまりされていない髪。化粧のしていない、丸く膨らんだ顔。
口紅ぐらいはしようかと思ったのだけれど、普段していない事をすると絶対に失敗する。口紅だけつけた私の顔は、恐ろしく似合わず、母にも大笑いされてしまったほどだった。
昔は大人になれば綺麗になれると信じていたのだけれど、それは間違いだったようだ。大人になれば誰でも結婚が出来てお嫁さんになり、子供を産んで幸せになれると思っていたのだけれど。
長いトンネルは、耳を痛くする。無理やりあくびをして音を抜くと、目尻に涙がにじんだ。
辰野さん、というのが私の不倫相手だ。彼の奥さんは幸せなのかしら、と少しだけ思う。子供も居たはずだ。夫が不倫しているなんて、夢にも思っていないのではないか。確かに辰野さんは恰好良い訳でもないし、実際年齢よりも老けて見える。それでも、私にとっては大切な恋人だった。他人と共有している恋人。しかも、割り込んだのは完全に私の方からで、責められるのなら私だろう。彼は家庭を壊すつもりも何もない。それどころかもう私には飽きはじめている。それでも、彼を失くしたら私を好いてくれる人は誰も居なくなってしまうだろう。雑誌やテレビ、人は簡単に言うのだ、新しい人なんてすぐに見つかるし、古い恋に執着したってなんの希望もないと。けれども私にはそう思えない。
私を好きになってくれる人が、結婚しても良いと思ってくれる人が、この先ちゃんと現れたりするのだろうか。
誰も、そんな不安を持ったりしないのだろうか。
そんな事を考えてしまったので、私の心はあっという間に過食モードに入ってしまった。手元に食べるものがなくて良かった、と心底思う。車内販売は時折来るけれども、茶色い髪を頭の高い位置で結び上げ、灰色の大して色気もないスカートから細く長い脚を惜しげもなく晒し、揺れる車内を慣れた足運びできっちりと歩いて行く若い販売員に、お弁当だのお菓子だのを頼む勇気は、私には無い。つまらなそうに仕事をする彼女らでさえ、疲れた表情を見せていても私より綺麗だ。そして、その綺麗さに圧倒されて、私はまた聞かなくてもいい幻聴を自分の中で聞いてしまう。
三時間弱の電車の旅は、私の心も身体も疲れ果てさせた。
新宿に着いた車内放送が流れた時には、ぐったりとしてしまい、これから人に会うのなんてやめてしまってさっさと家に帰りたいと思ってしまった。空腹ではないのに、胃が食べ物を欲しがっている。 ちょっとしたストレスだとか嫌な気分に、すぐに『食欲』という状態で反応してしまう。私は何かを食べる事によって、自分を守ろうとしているのかもしれない。実際は少しも守れていないどころか、自分自身に嫌気が差しているのに。
新宿の駅を出ると、それはもうくらくらするぐらいの人込みに私はあっという間に飲み込まれてしまった。
「や、約束、の、」
場所を書いてあるメモ用紙をカバンから取り出す事も容易ではない。有名なスタジオのあるビルと靴屋だかの間にある銀行前で待ち合わせだったような気がするのだけれど、確かではないのでメモを見たいのに、私は人波に押されて前へ進んだり後ろへ流されたりした。とろい田舎者だと、周りはみんな思っているのではないだろうか。
「か、帰りたい……」
ひとりごとが自分の耳にも届かないぐらいの賑やかさで、街は人に埋め尽くされている。やはり父母に来させなくて良かった、と、ほとんど意地でそんな事を思った。
ようやく取り出したメモに書いてある待ち合わせ場所を発見し、どうにかたどり着いてはみたものの、他にも待ち合わせらしき人がものすごくたくさん居る。迷子の呼び出しのように、ここで彼を呼び出せたら楽なのに、と思いつつ、私は銀行のシャッターのところに背を預けた。持ってきた、古い兄の写真は役に立つのだろうか。メモと一緒に取り出した兄の写真はよれてしまっていて、その中の笑顔も微妙なものになってしまっていた。垂れ下がった目尻、鼻筋も通っていてなかなか整った顔立ちはしているのだけれど、性格や纏った雰囲気のせいか地味な印象しかない、兄。こんな顔だったっけ、というのが正直な感想だった。
ぼんやりと顔を上げる。
無目的そうな女の子だとか、アンケートを取ろうとしている男の子だとかに紛れて、カラオケの割引券や居酒屋のチラシがふわふわと捨てられていく。あれは誰が拾って誰が捨てるのだろう。そう不思議に思いながら、腕時計を確認した。約束の時間を数十分過ぎている。
周りを見回しても、それらしい男の子はどこにも見当たらず、私は途方にくれる。デートじゃあるまいし、すっぽかされたという事はないだろう。もしかして、私をたまには東京へでも遊びに行かせようと思った母が仕組んだ、これはすべてお芝居だったのでは。想像がそこまで飛躍して、私は苦笑しながら首を振る。まさか、いくら母でもそんな事を思い付くはずがない。
電話番号は知っているのだから、電話してみようかと思いついた時だった。携帯の呼び出し音が鳴ったのは。
「も、もしもし?」
『あの、浩次ですけど今どこに……あ、もしかしたら分かったかもしんない、ちょっとそのまんまで』
待ってて、と受話器の向こうで投げ出された声が、少ししてからそのまま直接の声になって私の目の前に現れた。
「ええっと、俺の親父さんとかいう人の妹さん?」
私は携帯を握り締めたまま、固まってしまった。
目の前の男の人が、間違えたかな、と不安そうに呟く。
「あの、有紀、さんですか?」
はい、と、時間をかけて小さく頷くと、相手は満足げににっこりして、自分の携帯を切った。私の耳に、ツーツーツーという通話終了の音が流れ込んでくる。
浩次は写真の中の兄には何ひとつ似ていなかった。
金色に近い色の髪をして、シルバーの縁の薄青いレンズのメガネをかけ、そしてピンク色の小花を散らしたオレンジ色のシャツを着ている彼は、私が今までに接してきた人種とは別の世界に住んでいる人のように見えた。
食べないの、と首を傾げる浩次は、もうふたつ目のハンバーガーを手に取っていた。
「体型の割に小食?」
ぐさりと胸を刺すような言葉を普通に言い放ち、彼は長い指で包み紙をすいすいと剥いてゆく。お腹が空いていると言われて入った、駅から少し歩いたところにあるファーストフード店で、私は目の前のオレンジジュースすら満足に飲み干せないまま、呆然と彼の顔を見ていた。
「なに、顔になんか付いてる?」
もしかしてさっきのマヨネーズ、と唇の横を指でさぐりだす彼に慌てて首を振って見せ、これは詐欺なのでは、と小さな小さな声で呟いた。
彼に、兄の面立ちはなにひとつとしてなかった。いや、私が想像していた面立ちがなかった、と言った方が正しいかもしれない。そこは女親似なのか一重のすっとした目だったのだけれど、薄い唇と整った鼻筋は確かに写真の中の兄にはどことなく似ていて、しかし私が考えていたような地味な青年ではなかっただけだ。まさか、こんなにいい男がうちの血筋から出てこようとは。
「浩次くん、」
「はい」
「本物、よね?」
バカバカしい質問をしてみると、彼はきょとんと一瞬した後で、とてもクールに嫌な笑い方をした。薄い唇が持ち上がって、本当に人を小馬鹿にしたようなその笑い方は、けれども彼によく似合っていた。
「もしかしたら偽物かもしれないよね」
「え?」
「高校生だしこんな色の髪をしているのはおかしいし、確か兄の方の『浩次』は記憶ではそんなに背が高くなかったはずだけれどなんでこの子は百八十を越えるような背の高さなんだろう、よく見ればピアスまで開いている、うちの家系からこんな子が出てくるだろうか、それにあのシャツの色、ちょっと信じられないぐらいに明るい色だわ、それに第一、十七歳に見えない」
「え、ええ、あの、」
「本当にこの子は兄の子の『浩次』なんだろうか、って思ってるんでしょ?」
よく口の回る男の子だ。私は圧倒されてぽかんと彼を見詰めるしかない。
「じゃあ、証拠を」
彼はそう言うと、財布の中から学校の身分証明書を取り出して私に渡した。
学生証、と書かれたラミネート加工のカードには、学籍番号と所属クラス、誕生日と年齢、発行者として高校の名前と住所、電話番号と校長の名前が書かれている。そして、彼の山村浩次という名前が。
「信じた?」
「ええ、ごめんなさい、疑っていた訳じゃ、」
ないんだけれど、と続けようとしたけれど、それは彼の言葉に阻まれてしまった。
「でもさ、これももしかしたら本物の『山村浩次』に借りてきただけかもしんないよね。だってさ、この身分証明書、写真付いてないもんな、いくらでも騙せるだろ?」
「……えっ?」
「俺は浩次の友達でさ、会った事もないくせにいきなり縁者だって人間に会うなんて嫌だって奴がぼやいていたのを聞いて、好奇心旺盛な俺が面白がって、どうせ顔なんて分かんないんだしっつって入れ替わったのかもしれないよな」
「え、ええ?」
「俺が偽物だったらどうする?」
思考が停止する。
この子は何を言っているのだろう、と混乱して、私はただ瞬きを何度も繰り返すしか出来なかった。彼が偽物だとしたら。私は偽物を家に連れて帰るのだろうか、両親も彼を本物の『浩次』だと信じるだろう、私は彼を偽物と知っていて連れて帰ったとしたら、両親を騙す事に、それ以前にでは本物の兄の子はどこだ、この目の前の人間は誰だ。大体なんでみんな私を騙したり裏切ったり押し付けたりするのだろう、なにか悪い事が重なる周期なのだろうか、過食は止まらないし体重は増えたままだし被害妄想はひどくなるし、どうせこんな醜い人間なんか傷付けたって構わないとみんなが思っているのだ、どうせ結婚も出来ずに好きな人に相手にもしてもらえずにこのまま朽ち果てるのだ私は、きっとそうなのだ、そうやって悲しいまま寂しいまま死んで行くのだ。
「あ、悪い、いや、泣かせるつもりはなかったんだ、俺、本物だから、ああっ、悪かったってば」
「……は?」
目の前にペーパーが差し出される。テーブルの上に置いてあったそれを、彼はごっそりと掴んで私に向けて手を伸ばしている。何の事だか分からずにいると、彼はもっと困った顔をして、泣くな、と言った。
「泣く、な?」
「悪かったって、ああもう本当に、……友達にやるノリでやっちゃいけなかったな、マジでごめん、すまん」
ああ、この子の眉は綺麗に整えられていて、化粧もしていない一応女の私よりよっぽど綺麗な顔をしているわ、とまったく関係のない事を思いながらも、差し出されたペーパーを受け取る。自分が泣いていた事を理解したのは、彼に顔拭けよ、と言われた時だった。まさか自分で妄想が暴走してしまい、知らないうちに泣いたのだとも言えず、私は俯く。俯いたのだけれど、少ししてから自分は騙されてからかわれたのだと、ようやく気付いた。
「……偽物って言うのが、嘘?」
「そう、俺は本物の山村浩次だし、学生証も本当に俺の所有物だし」
「……私が騙されてた?」
「そう、俺が騙してた」
「騙され……」
急に腹が立つ。私は彼のみっつ目のハンバーガをひったくると、包み紙を開いて噛り付いた。
「ちょっと、追加で買って来て、今ものすごく気分が」
悪いんだから、と低い声で唸ると、彼はそんな私を面白そうに見た。
「何買ってくればいいの?」
「なんでもいいから適当によ!」
そのハンバーガーをガツガツと食べ終え、けふっ、とゲップをひとつしていると、彼がカウンターから戻ってくるのが見えた。私はオレンジジュースを右手に持って、左手でポテトを掴む。
「番号札持って待っててくれってさ」
急にお腹が空いたりしたんだ、と笑われて、私はそれを無視した。
私はこういう人目に触れる場所で物を食べるのが本当に苦手なのだ。誰かが食べている私を見て、笑っていそうな気がしてしまうから。セックスを覗かれるのと同じくらいに食事の様子を見られるのは恥かしいと言っていた人は誰だっただろう。その考えに、私は両手を挙げて賛成できる。それなのに、どうして私は今、よく知らないのに血だけは繋がっているらしい、若い男の前で醜く物を食べているのだろう。
「お待たせいたしました、オニオンフライとチーズバーガー、チキンサンドとフライドポテトのLをふたつ、オレンジジュースとジンジャーエール、木苺とオレンジのムースになります」
店員が運んできたトレーの上の、ジンジャーエールだけを取ると、彼は右手の平を私に向けて、どうぞ、と言った。少し戸惑ったけれど、私の中の食欲がじわりと動き出しているのを認め、チキンサンドに手を伸ばす。ポテトに手をつける。オレンジジュースを取る。
あらかた食べ終えると、浩次がにこやかに私を見ている事にやっと気付いた。
「すごい食欲」
軽く言われて、私は絶望的に落ち込んだ。落ち込むぐらいなら最初から食べなければいいと分かっているのに。
「……そうよ、どうせ私なんてただのデブのおばさんよ」
「ちょっと待てよ、別にそんな事言ってないじゃん」
「いいの、分かってるの、知ってるの、自分でも」
「おい、なんだよ……自分で自分をデブとか思うんならダイエットすりゃいいじゃん、おばさんだと思うんなら、化粧くらいして若返ろうとすりゃいいじゃん、他人の言葉に傷付くんなら、なんかしてからにすれば?」
彼の言葉は正論だけれど、それが出来る人間ばかりではない事を彼は知らないのだろう。
あ、駄目だ、と思ったのに、私の口からすべての不満が一気に流れ出た。不倫してること、その相手から捨てられそうなこと、過食が止まらないこと、三食をきちんと食べてもお腹がどんなに一杯でももう次になにを食べようかと考えてしまうこと、そんな自分が嫌いで醜いと思えば思うほどお腹が空いていくこと。
辰野さんの話をしながら、こんな若い男の子に不倫の話なんて聞かせて、しかもこれからこの子はうちに来ないといけないのにこんな叔母さんがいると知らせて何になるのかとも思いながら、私の愚痴は止まらなかった。
そして、浩次は頬杖をつきながら、私の話をじっと聞いていた。
手の甲でついた頬杖は彼の表情をとても幼く変化させていて、時折細められる目だとか、何か言いたそうに軽く開く唇だとか、そんなものが私の中の、もう風化していた記憶である兄をそっと、呼び起こさせているような気がした。
薄れているはずの記憶。
「……多分、ここにあなたを迎えに来たのだって、本当は来たくなかったの、でも、私じゃ父さんや母さんに、下手したら一生孫なんて見せてあげられないかもしれないと思ったの、だからきっとその代わりにあなたを迎えに来る事を承諾したんだわ、自分の罪悪感を軽くするために、兄の子を会わせる事によって私は自分の子供を見せてあげられない事を誤魔化そうとしたのよ」
だらだらと喋り続けると、途中で浩次が頬杖を逆の手に代えた。右頬に、手の痕がうっすら赤く残っている。
「……なんか、すごい自己分析なんですけど」
退屈そうに彼はそう言い放つと、ジンジャーエールのストローをくわえた。
「言い訳したかったの?」
誰かに、と、退屈そうな声のままけれども優しく言うので、私はまた泣きそうになった。一回りほども年の違う子供に、言い訳をしている私は大人げない。
「そういう話は、本当は不倫相手とかにした方が良いんじゃないの?」
「だって、」
「そういうウザイ事言って捨てられんのが恐い?」
「恐い……」
「あ、そ。じゃ、出ようか」
え、あ、と戸惑っているうちに、彼はさっさとゴミの乗ったトレーを持ち上げて席を立ってしまった。そうだ、彼にお金を払っていない、と思い出してそう告げたのだけれど、彼は軽く左手を振って「要らない」とだけ答えた。
私がもっと可愛くて細くて、血縁でもなくて若い時にこの子に会っていたら、好きになっていたかもしれない、と少しだけ思った。
「俺の名前、親父と一緒なんだろ?」
店を突然出てしまったので、私の意味も無く弱い愚痴を聞かされて怒っているのかと思っていた彼は、外に出て駅とは反対側の、もう少し人気がない車ばかりが走る通りの方へ歩いている時に、やっと口を開いた。
「うん、あ、ああ、そう」
同じ、と私は答える。
「ね、俺の親父ってどんな人?」
俺と同い年の時に自殺したんでしょ、と言われて、私がつい最近知った事実をこの子はもう前から知っているのかと、かなり驚いた。
「どんな人って、」
大きな歩道橋がかかった道路は、流れてゆく車に埋め尽くされている。
「どんな人って、……ごめんなさい、私も実はあんまり覚えていないのよ。地味で真面目な人だった記憶はあるけれど」
ふうん、と、どうでも良さそうに呟いて、彼は歩道を渡るよ、と私に指示した。
「俺さ、母親にちっちゃい頃から言われてたんだよ、お前の名前はお父さんの名前と一緒なんだよ、お前はお父さんに似てるね、って。ずっと俺の母親って人は俺にべったりでさ、なんか、俺の存在を通して母親ってばずっと俺の親父を見てた感じなんだ」
「……うん」
「なんか上手く言えないけどさ。母親死んで、俺、ちょっとほっとした所があったんだ。あの人、俺に恋人だった『浩次』の存在になって欲しかったんだろうな、髪型とか雰囲気とか、俺じゃない『浩次』の方のそれを求められてさ。別に、だから反発して髪染めたとかピアスあけた訳じゃないけど。これはちゃんと自分でしたい事だったから。でも、やっぱ、押し付けって嫌じゃん」
太陽が柔らかな陽射しを彼の茶色い髪にそそいでいて、それはとても綺麗に見えた。
「これで親父の残像を押し付けられなくて済むんだって思ったんだけどさ、葬式終わって、大家のばあちゃんに、お母さんから頼まれていたんだけど、もしも何かあった時は連絡できる場所があるから、それは浩次くんのお父さんのおうちなんだけどね、って言われて、それでもしかして本当は父親生きてて、全部今まで母親の作り話で、俺の親父は高校生で自殺した人だとか、そんなの嘘だったんじゃないかって思って、」
でもそれは本当みたいだったけど、と彼は笑う。
私は何も言えずに、ただその言葉を聞いていた。彼の話は真剣な話が得意ではないのか、確かに上手に整理して話す事が出来ないようだったけれど、それは彼の混乱を表しているようでもあった。
「俺、もうちょっと母親が生きてる時に、俺の親父って人の事を知りたがってあげれば良かったのかなって」
「知りたがって?」
「だって、もう死んでる人なんだろ? 俺の母親が死んだら、俺に親父の記憶を残す人はいなくなっちゃうんだろ?」
あんたとかみたいな肉親としての記憶じゃなくてさ、他人として愛した人の記憶、と言われる。他人として、愛した記憶。
「後悔したかどうかも良く分かんないけど、ま、父親だった人の方の事も知ってみようかなって気になって」
ところで俺って天涯孤独って奴なのかな、とまた笑うので、そこは笑う所じゃない、と言ったらもっと笑われた。
「何で笑うのよ」
「だって、別に悲しい意味とかで言ったんじゃないし、天涯孤独」
「そうなの?」
「だって、認めてもらえるんなら父親の方の爺ちゃん婆ちゃんがいるんだろ?」
「ああ、ああ……お母さんの方は?」
「あの人もう年だったから、婆さん死んでるし、高校生たぶらかして俺を身篭ったってことで爺さんからは縁切られてるし」
「え……」
「だって、俺の母親、教師だったんだよ」
教師一家でさ、爺ちゃんすげぇ怒って、お前なんて勘当だっ、二度と帰ってくるなって叫んだんだって。
「そうなの?」
「あんた、何も知らないの?」
「知らない、だって、誰も教えてくれなかった……」
道路にかかっている青い看板は、隣の区の名前を表示している。
私たちはどこまで歩いていくのだろう。
「本当は、母親が死んでほっとした事に対する謝罪みたいな気持ちなんだ」
父親側の爺ちゃん婆ちゃんに会ってみようって気になったのはさ、と彼が言う。
「大家さんがまた身内のない人でさ。そういうのってなんか集まっちゃうんだな。俺の事を孫みたいに可愛がってくれて、母親の保険金も入るし、俺は大学とか行く気ないし、別にそっちに世話になろうとか考えてないから安心してくれていいし。ただ、俺の母親が好きだった人を育てた人っていうのに会ってみようかって、それでもって母親の代わりに線香でもあげさせてもらえばって思ったんだよ」
「浩次くんって、外見はそんなだけどちゃんと考えているのね……」
「外見はこんなだけどね。いや、ちゃんとなんか考えてないよ、ただ、解放された気分に罪悪感持っちゃった自分が嫌っていうのもあって、それだけ」
さて、駅の方に戻りますか、と彼は渡ってきたばかりの歩道橋の方へまた振り返った。
緑色の鉄板の階段を上がる。がん、がん、がん、がん、と鈍く響く音がする。
だけど本当はちょっと恐い、と言う彼の声を、聞いたような聞かなかったような気がして、私はそっと前を歩く浩次の背中を眺めた。
4
東京に来るのは初めてだと言ったら、彼はとても驚いてそれならちょっと寄り道していこうか、と私を誘った。
「このまんま帰ったら、あんたもうこっちに来たりしないんだろ?」
そんなの分からないじゃない、と答えたのだけれど、自分でもよほど何かがなければ、自分の住んでいる町を出たりする事はないだろうな、と思っていた。
「最近美味いアイスクリームの店が出来たって、うちのクラスの女が騒いでたな」
そこ行こう、と勝手に決めて、浩次は歩き出す。
彼は大股でさっさと歩く。躊躇いも迷いもなく真っ直ぐに進む彼は、見ていると気持ち良かったけれどもついて行くには一苦労だった。どうしてここはこんなに人が多いのだろう。歩きにくい事この上ない。私の身体の幅が広すぎるのがいけないのだろうか。
「あんた歩くの遅いな!」
「だって、」
こんな人込みじゃ上手く歩けない、と言い訳をすると、彼は私の後ろに回った。手こそ繋がないものの、背中を押して進んでくれる。大きなだけの青いバッグも、彼が持ってくれた。
「とりあえず真っ直ぐ行きゃいいから」
「あ、あの、」
「なに?」
背中に手の感触が。背中にも最近肉が付いていて、段々になっているのだ、それを触られるのは恥ずかしいのだけれど、そういうのを気にするのも自意識過剰なのかしら、と考えてひとりで混乱して赤面してしまう。
「ひ、浩次くんは、」
「銀行横の信号を右だったから……あ、なに?」
「……こんな、私みたいな小太りのブスなしかもメガネのおばさんと一緒に歩いていて、は、恥ずかしかったりしないの?」
茶化して聞こうと思ったのに、思わず吃って、声も裏返ってみっともない質問になる。
「は? メガネなんて俺もかけてるじゃん」
「だって、それは、」
「あ、コレ度が入ってるからマジメガネだって」
伊達じゃないし、と少しずれた返事がきてしまった。
「あの、そうじゃなくて、」
私はさっきから道行くそれはそれは脚の細い女の子だとか、目のぱっちりした女の子だとか、そのうちの何人かが彼を見て表情を明るくするも、傍にいる私に視線を移した途端に「理解できない」と言った顔をするのがとても気になっていたのだ。
それにしても、どうして最近の女の子というのはこんなにも年齢不詳で、可愛らしいものなのだろう。 黒目がちで顔が小さくて、手脚が細くて色が白くて。みんな芸能人みたいな顔をしているように見える。テレビや新聞では、最近の若い女性はひとりの流行を確認するとみんながそれを追いかけ模倣するので、どんなに個性的な恰好をしてもちっとも個性がないし、みんな同じで誰もが同一に見える、などと言っていたけれども、みんながみんな可愛く見えるのならまったく構わないではないか、と私は思う。醜くはみ出るよりも、可愛らしくみんな一緒の方が、どれだけ救われるだろう。そんな事を考えてしまうのは、自分がはみ出している方だという自覚があるからだ。美しくはみ出すものは追いかけられ、模倣される。醜くはみ出すものは指差され、笑われる。
「……あんたと居て、俺が恥ずかしいかどうかって事?」
そう、と小さく呟けば、鼻で笑ったような返事がくる。
「別に他人が他人をどう見てようと興味ないさ。でも、そんなにあんたは自分に自信がない?」
「……自信のある人には分からないわ、」
「自分を卑下し過ぎているかどうかだろ、思考が暗い人間は余計ブスになるぞ」
「……どうせ、」
「ああもう、どうせとか言うな、まったく」
彼は私の背を押しながら、ざくざくと歩いてゆく。その手の位置は変わらない。
「自信っていうのは、人がつけてくれるもんじゃなくて、自分でつけるものなんだから」
白く短いレースのスカートの下にジーンズを重ね穿きした女の子が、ちらりと私達を見て行く。マスカラをたっぷり塗ってあるのか、長くて重そうなまつげをしていた。
「自信がないっていう人間は努力しなさすぎてるよ、どうせ可愛くないからとか、太ってるからとか、そういうのを言い訳にしてるだけで、だったら化粧したり体型考えて服買ったり、ダイエットしたりして手を尽くし終えてから悩めばいいんだ」
「……なんかそれ、実感こもってるんだけど」
「そう! なんか、最近クラスで俺の事好きとか言う女が居るんだけどさ、そいつに断ったのよ、付き合いは出来ないって。そしたらさ、そいつがまたうるさいんだ、どうせわたしはブスだもん、とか可愛くないし、とか、浩次くんには似合わないもんね、だとか。そう思うんなら可愛くなれよボケっつったら、泣いた」
「それはひどい……」
「ひどくねぇよ、どうして断られたのかを理解しようともしないくせに、俺を好きだってんならもっと俺を理解してくれようとしても良くない?」
子供じみた口調でそう言うと、腹立つ事思い出したな、と唸るので私は笑ってしまった。
「アイスクリームのお店を教えてくれたのは、きっとその告白してきた子じゃないんだね」
「うん、そいつじゃないよ。隣の席の女。面白い奴で、俺、そいつにピアスあけてもらったの」
「……好きなの?」
「は? 好き? どういう?」
「どういうって……ううん、なんとなく、好きそうな感じに喋るから」
「え、好きだけど……そいつ彼氏持ちだし、恋愛の好きじゃないと思うな」
学校の話をしていると、浩次は年相応の男の子に見えた。学校の話をすると、私も愚痴っぽくならないと気付いたのか、彼は学校で変なあだ名をつけられている教師の話や、校長の朝礼が長すぎるので、怒って履いていたスリッパを投げつけた友達の話なんかをしてくれた。
「うちの学校、夏になると指定のスリッパ履いていいんだけどさ、あれって全国的なもんなのかな」
「私の行ってた高校はスリッパなんてなかったけどな。上履きはあったけど。白に、赤いラインが入ってるの」
「俺んところ、一年が青いラインで二年が緑ラインで、三年が赤ライン」
「へぇ」
「上履きはどこも一緒みたいだね」
アイスクリーム屋さんは薄キミドリ色と水色のしましまの屋根で、コンビニと公園入り口の間にあった。小さなお店だったのだけれど、数人の人が並んでいる。
ふと、こんなところでアイスクリームを食べてなんかいないで、早く彼をうちに連れて帰らなくてはならないのではないかと思ったのだけれど、私の後ろで彼が「チョコミント食べたい!」と叫ぶので、すぐにそんな思考は飛んでしまった。
「チョコミント? あれ、歯磨き粉の味がしない?」
「うわ、最低あんたの味覚」
浩次がげらげらと笑う。水色のレンズの奥の目が細められていて、優しげな表情になっていた。
「なによ、だって、歯磨き粉って大抵ミント味じゃないの」
「そうだけどさ。でも、色が綺麗じゃん。薄荷もなんかすっとしてさ。美味いし」
「そう?」
「そう」
あんたは、と聞かれて、私は掲げてある看板を眺めながら考える。
「ラムレーズン、もいいし、メープルバニラも気になるけど、ベリーミックスってなんだろう」
「全部食べる?」
「全部?」
そんなに食べたらお腹壊すわ、と笑って、なんだかデートみたいだと思ったら、恥ずかしくて私は俯いてしまった。もちろん、そんな事は私が勝手に思っているだけで、彼は一回りも年の違うおばさんにちょっとお付き合いしているだけの感覚なのだろうけれど。
「暗い顔してないで、そうやって笑ってりゃいいのに」
浩次に言われて、私は顔を上げる。
「あんたさ、私を好きになってくれる人なんかこの先出て来ないかもしれないって恐がってるみたいだけど、そんなら自分から誰かを好きになって、そいつを振り向かせりゃいいじゃん、簡単に言うなって言われそうだけど、なんもしないでどうせどうせ言ってるよりマシだと思う」
アイス食べたら帰ろうか、と彼が提案した。一瞬、どこへ帰るのかと思ったけれども、そうだった、この子はうちに来るのだった。
太陽が傾きかけている。
東京の夕焼けって、ビルの間にでっかい太陽が挟まって、アスファルト溶かしながら沈んでくんだぜ、と、なぜか自慢げに浩次が言った。
小さい頃は父親いなくてなんか変な感じだったけど、今は別に困る事もないし、結構みんな同情的だし大体もともと居た人が居なくなったって言うんなら寂しさとかもあるんだろうけど、最初から存在しなかったものには思い入れも特にないし。
「そんな感じ。俺、可哀想な子って言われんの結構好きかもしんない。特別扱いっぽくてなんとなく」
「そんなものかしら」
公園の一番大きな木の下にあるベンチに座って、私達は買ったばかりのアイスクリームを食べていた。浩次はチョコミントと騒いでいたくせに、結局注文したのはナッツの入ったチョコクリームとミルクバニラのダブルだった。
私の頼んだラムレーズンとブランデーナッツを隣からプラスチックのスプーンで掬い取り、あんましいい酒使ってねぇな、と彼は文句を言う。私はなんでも美味しく食べられる人間なので、そうかしらと首を傾げてから、なんでこの子がお酒の味を知っているんだろうと不思議に思った。疑問をそのまま口にしたら、にっこり笑って誤魔化されてしまったけれど。
「あ、ねえねえ、普段は食欲止まってんの?」
「人が居る所ではね、でもひとりになって、いろいろ考えると駄目なの、考えないために食べちゃうの」
「逃避だね」
「逃避だと思うわよ」
彼の口調は私を責めるものではけしてなく、小学生が幼稚園生を慰めるような、優しい言い方だったから、なんだか胸がいっぱいになってしまって、せっかく買ったのにアイスクリームの味はよく分からないままだった。
「ね、俺があんたの家に行ってさ、もしもそこで気に入られちゃって居着く事になったらどうする?」
「どうするって……そんなの、その場にならなきゃ分からないわよ」
「そりゃそうだ。ま、俺も多分居着かないだろうけどさ。知らない人と暮らすなんて、きっと迷惑かけちゃって駄目だもん、俺」
アイスクリームが溶けはじめて、シュガーコーンを濡らしはじめる。
ああ、この子は、と、やっと私は気付いた。
この子は母親が死んで、顔も知らないくせに名前だけは同じ父親の家族に会いに行かなくてはならなくなって、自覚がないとしても多少の不安は存在して、これから先なんて全然見えていないのに叔母である私にはまったく関係のない愚痴を吐かれて、この子はこの子なりに戸惑っていて混乱もしていて、それなのに飄々として見えるからといって本当はしっかりしなくてはならない私の方が甘えてしまったりして。
「……ごめんね」
「は? 何いきなり謝ってんの? なんだよ、まったく」
あははははは、と笑われたのにつられて、私も少し笑う。
「もしも、あなたが望むんなら、うちに居着いてもいいと思うよ。私だって働いてるんだし、いろいろはどうにかなるよ」
「うん、それは……ありがとう」
金券ショップに寄ってから駅行くか、と言われて、私はきょとんとした。
「なにそれ」
「知らないの? あんたん家行く電車はさ、特急券の回数券があるんだから、金券ショップで買って行った方が安いよ」
「そうなの?」
「なんも知らない人だなぁ」
食わないんなら貰う、と私の手からアイスクリームを取り上げ、溶けてる、と文句を言いながら私が何も言わないうちに彼はそれを食べてしまった。
「夕焼けだけ、見て行きたいなぁ」
すごいんでしょ、とひとりでさっさと立上がっている彼を見上げると、急に彼は子供の顔に戻って、うん、と頷いた。
「じゃ、駅ビルの屋上にでも上がる?」
この子との出会いが、私を変えるかどうかなんて知らないし、分からない。私のコンプレックスも被害妄想も根が深そうなので、そんなに単純にはなくならないだろうし、変わらないだろう。
この先も私は辰野さんと不倫の関係でもいいから続けて行きたいと望むだろうし、別れたいとはっきり彼が口にするまで、何も言い出さないまま気付かない振りをしたまま、そのままでいるだろう。過食だって、そう簡単にはきっと止まらない。それでも、と私は思った。
それでも、将来誰か好きな人が出来たとして、本当にその人を好きだったら、ちゃんと自分から言えるようにしよう。浩次みたいな子供が、私にも兄と同じ血が流れているのだから、私にもこの子みたいな子供が出来るかもしれない。
それは、とても素敵な事に思えた。
自分が自分でちゃんと自分の事を好きになるために、可愛い服を着たり、ダイエットをしたり、実行に移すのは難しいかもしれないけれど、少なくとも今はそう考えるしか出来ないとしても。
「夕焼けすごいんだよ、マジで。なんかさ、夜景スポットとかで見る夜景もいいんだけどさ、俺は彼女連れて行くんならやっぱ夕焼け見せるね」
溶けちゃいそうなんだから、と楽しそうに言う彼に、私は呟く。
「私も溶けるかしら」
「え、なに?」
なんでもないよ、と首を振る。
「私も変わりたい」
時間がかかるとしても、のんびりやっていこうかしら、と、そんな事を思った。
「は? なに、変わる? ……良くわかんないけど、頑張ってね?」
疑問形の応援に、私は苦笑したけれども、ありがとうを言った。
みんなどこかは少し弱くて、でもちゃんと強いのだと、思った。
「でも、知らないうちに叔母さんになってたのはちょっとショックだったなぁ」
お兄ちゃん真面目だったのにやる事はやっていたのね、と言うと、浩次が大笑いする。日が沈まないうちに急ごうかと促されて、そしてさっきと同じく、彼は当然のように私の手を取って歩き出す。それはものすごく照れるし、ドキドキしてしまってどうしていいのか分からなくて挙動不審になりかけたけれど、ぐっと我慢した。いい年の、大人なんだし。
彼が誉めるぐらいの夕焼けに、私の弱い部分が溶かされてなくなってしまえばいいと思った。
「……あのね、父さんも母さんもいい人よ。って、娘の私が言うのもなんだけど。あ、父さんは都合が悪くなると逃げちゃうから、あんまりいい人じゃないかも、あはははは。……でも、きっとあなたを歓迎するわ」
私がそう言うと、一瞬彼の足が止まった。すぐに何でもないように歩き出したけれど、それは彼が一番欲しかった言葉なのかもしれなかった。ありがとう、が背中から降ってくる。
「もちろん、私も歓迎するからね」
「……うん」
この出会いが単純に私のすべてを変えるとは思えない。
それでも、なにかのきっかけぐらいにはなるかもしれない。彼と楽しく話していたら、過食ぐらいは止まるかもしれない。それは、とても楽観的な考えだったけれど、それでも今の自分の暗い思考を考えれば随分の進歩だった。
自分ばかりを不幸にするのはやめよう、と思って、そして当たり前のようにつないでいてくれる彼の手を、温かいと感じていた。