第99話
「アドルフォ様、おやつの準備が整いました」
声を掛けられてアドルフォは読んでいた本から視線を上げた。見上げた先には屋敷に着いてから自分付きとして宛がわれた男が満面の笑みを湛えていた。
「分かった」
アドルフォが閉じた本をちらりと見た男の顔から笑みが消え、代わりに眉間に深い皺が現れた。
「アドルフォ様、またそんな難しい本をお読みになられて」
咎めるような口調にアドルフォは肩を竦めてみせた。
「そうでもないけど?まぁ、子供向けではないね」
アドルフォが読んでいた本は帝王学の本だった。将来、家長として、領主として、このブルックナー家を率いて行く身となった彼がそれを学ぶことは当然のことだが、少し早い気がする。
「アドルフォ様、焦る必要は無いのですよ」
「ロルフ、僕は別に焦って無いよ?勉強が楽しいんだ。それだけだよ」
ロルフと呼ばれた男は納得が行かないような顔をしながら、紅茶をカップに注ぐ。
ロルフ・ベッシュはブルックナー家執事の息子である。ベッシュ家は代々ブルックナー家の執事を務めてきた家系だ。ロルフもいずれ、そこに名を連ねることとなる。ブルックナー家では当主が代替わりする際に、執事も代替わりが行われる。故に、執事の後継者は次の当主に早くから付き、信頼関係を築くようにしているのだ。ディレクが存命の頃はロルフは彼に付いていた。信頼関係が築けていたかと問われれば答えに困るような状況ではあったのだが・・・。
「怒ること無いじゃん?勉強するのは悪いことなの?」
ロルフを宥めようと発した自分の言葉にアドルフォはハッとして俯く。無理に大人びた言葉遣いをしようとしても、どうしても混ざる子供っぽさにアドルフォは内心、悔しさを覚える。
「そう言った言いまわしを悔いるのもどうかと思いますがね」
ロルフはくいっと眼鏡を押し上げながらそう言った。アドルフォはそんなロルフをキッと睨んだ。
「アドルフォ様。子供っぽく振る舞われてもよろしいのですよ。貴方はまだ、7歳でらっしゃるのですから」
ロルフは諭すようにそう言ったが、返って来たのは大人びた嘲笑だった。
「ふっ。子供らしく振る舞えば、奴らはまた影で僕を笑うんだろう?あんな子供は跡取りに相応しくないと。どこの馬の骨とも分からん子供だと!」
アドルフォが放った言葉にロルフは息を呑んだ。その中傷はアドルフォがこの屋敷に来た当初、本当に囁かれていたものだ。もちろん、そのようなことを言った者は厳重に注意され、聞き入れなければ容赦なく解雇もされた。そんな騒ぎが収まってきた時期とアドルフォが背伸びをするようになった時期は良く考えれば見事に符合した。アドルフォはすべて知っていたのだ。知っていて一人で耐え、対処法を考え出したのだ。そのことに気付いたロルフは自分の不甲斐なさを思い知った。そして、誰よりもアドルフォの支えになり、守る盾でならなければならない自分こそが、アドルフォを子供だと侮っていた事実に打ちのめされた。
「・・・母さんが僕と一緒に来なかった理由が今ならよく分かるよ。僕、一人でもこの言われようだ。母さんも一緒だったらもっと酷いことを言われただろうな。母さんはそれを防ぐために身を引いたんだ」
母が自分に語った理由も嘘ではないのだろう。だが、これも理由の一つだろうとアドルフォは考えていた。そう思わなければ割り切れない想いがあることはアドルフォ自身も否定はしない。
「申し訳ございませんでした!アドルフォ様!」
言うなりロルフは勢いよく頭を下げた。アドルフォはそれを無言で見つめる。
「貴方様にいらぬ心労をかけたことお詫び申し上げます。もう、二度とこのような事態は招かぬと誓います」
「もういいよ。君がずっと僕の味方でいてくれたことは分かっているから」
アドルフォの言葉にロルフはゆっくりと顔をあげる。
「・・・有難うございます」
その言葉にアドルフォは静かに頷いてみせた。
「しかし、アドルフォ様は何処をどう見ても旦那様のお子様でらっしゃるのに、奴らの目は節穴でございましたね」
心底、納得がいかないといった風にロルフがそう言うとアドルフォは目を丸くした。
「そうかい?そんなに似てるとも思えないんだけど」
不思議そうに呟くアドルフォにロルフはにっこりと笑った。
「アドルフォ様のその漆黒の御髪と宝石のような碧い瞳は旦那様ゆずりのものでございましょう?それにアドルフォ様はお姉様のセシル様に面差しがよく似てらっしゃいます。セシル様もそれは見事な漆黒の御髪に美しい碧い瞳をお持ちです」
饒舌に語るロルフを見つめながら、アドルフォはふと思う。
「お姉様って確か、王妃様になるんだよね?」
この屋敷に来た時、父から姉の名前と今、置かれている状況は聞いていた。そして、優しい子だと言っていたのをアドルフォは思い出す。
「はい。ブルックナー家に不幸がありましたから正式な発表はまだですが、内々のお披露目はその前に済まされたそうですよ」
「そうなんだ。いつか会えるかなぁ。・・・向こうは会いたくないかもしれないけど」
家庭のある身で自分を設けた父のことを姉は怒っているかもしれない。自分の存在を認めたくないかもしれない。そんな思いがアドルフォの中にはあった。
「セシル様はアドルフォ様にお会いしたくないとは思っていらっしゃらないと思いますよ」
ロルフがどこか確信を持ったようにアドルフォに囁く。
「そうかな?・・・そうだといいな」
アドルフォはそう返すのが精一杯だった。
「・・・すぐには無理かもしれませんが、いずれ必ずお会い出来る日が来ると思います」
ロルフの言葉に小さく頷きながらアドルフォはいつか、姉の方から会いたいと言ってくるまで、自分からはそれを望まないと心に決めた。それがまだ見ぬ姉に対し、自分が唯一出来ることのような気がした。