第98話
「あぁ、そうだ。彼女にも話さねば」
ブライトクロイツ侯爵は王都にある別宅の書斎にて、もうじき始まるセシルの王妃教育の準備をすすめていた。その過程で自分が進めていた計画も早めなくてはいけないことになったことに気付き、その手を止め、呼び鈴に手を伸ばす。チリリと澄んだ音が響いて少しした後、書斎のドアをノックする音が聞こえた。
「入りなさい」
侯爵の許しを得て入って来たのは侍女服に身を包んだ一人の女性だった。
「エイダ。もう少しじっくりと仕事を覚えてもらうつもりでしたが、状況が変わりました。少々急ぎ足でことを進めます。そのつもりで居てください」
エイダと呼ばれた女性は侯爵に深々と一礼した。
「畏まりました。ですが、状況が変わったというのはどう変わったのでしょうか?」
エイダの疑問に侯爵は笑顔でこう答えた。
「セシル様が近々王宮に移られます。新たな侍女を加えるならその時が好機です。そこに貴女の教育が終了するように合わせます。まだ時期が明確では無いですが、急いでおいて損はないはずですから」
侯爵の言葉にエイダは表情を引き締め、しっかりと頷いた。
「話は以上です。仕事に戻って構いませんよ」
侯爵に促され、エイダは一礼して書斎を後にした。
「・・・いよいよなのね」
廊下に出たエイダはそう呟くと天を仰いだ。名を変え、髪を切り、慣れぬ仕事をこなす日々。愛した人とも、愛する子とも離れて生きていくことを選んだことに後悔は無い。自分に王妃付きの侍女が務まるかは自信が無い。だが、愛する人の役に立つため、愛する子を守るためなら何だってするつもりの覚悟はある。その想いだけがエイダをいや、エルナを支えていた。
先日、アドルフォは正式にブルックナー家の養子となり、エルナはエイダと名を変え、この屋敷にやってきた。侯爵夫人に王宮から付いてきた侍女に王宮での仕事や仕来りを学ぶ日々を送り、漸く少しだけ慣れてきた所に先程の侯爵の言葉。正直、戸惑ったエルナだったが泣き言を言える立場ではないことは彼女自身が一番よく分かっている。頑張るしかないのだ。それしか彼女に残された道は無い。
「・・・セシル様ってどんな方なのかしら?」
アロイスはセシルのことを『心の優しい子』と話していたのをエルナは思い出す。アロイスの言っていたことが本当ならいきなり現れた弟にも優しく対処してくれるだろうとエルナは思った。そうあってほしいと願った。