第92話
「誰が来てたの?」
来客が帰ったのを察したアドルフォが自室から出てきて問いかけた。エルナはカミルに出した紅茶とクッキーを片付けながら答えた。
「お父様のご友人の方よ。お母さんに働き口を世話してくださったの」
「ふ~ん」
アドルフォは気の無い返事を返しながらエルナが片付けている皿からクッキーを一つ取り、口に頬張った。
「お母さんね、そのお話を受けることにしたの」
エルナがそう言うとアドルフォは途端に顔を曇らせた。
「・・・やっぱり、一緒に来てくれないんだね」
しょんぼりとしてそう言うアドルフォにエルナは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんね。どうしてもそれは出来ないの」
「どうして?」
苦しそうな顔の母を見るとアドルフォはいつもは何も言えなくなる。でも、今日こそは聞きたいと思った。父がアドルフォを跡取りにしたいと言い出した時、その理由を聞いてアドルフォは初めて父には自分達以外にも家族が居たことを知った。自分には母親の違う兄と姉が居て、その兄が火事で亡くなり、跡取りが居なくなったことが理由だと言われた。その話の中で兄達の母親という人も一緒に火事で亡くなったことも聞いていたアドルフォは母も一緒に行くのだろうと思っていた。けれど、母は一緒には行けないと言う。どうして母は一緒に来ることが出来ないというのだろうとアドルフォはずっと思っていたのだ。
「・・・お母さんのお母さん。お前のお婆さんと約束をしたの。自分の立場を忘れずに多くを望まず生きるって」
エルナは家族には貴族の使用人になると言って家を出た。貴族の愛人になるとはどうしても言えなかった。アロイスの用意した小さな屋敷で彼の訪問を待つ日々は幸せであり、同時に少し寂しかった。けれど、これが自分で選んだ道なのだからと泣き言も愚痴も言わなかった。
そんなある日、実家から母が病に倒れ、余命幾許も無いとの連絡があった。その頃既にアドルフォを妊娠していたエルナは実家に帰ることを躊躇った。産み月の近いお腹は誤魔化しようのないほどせり出していた。この姿を見れば母はエルナがどんな立場に居るのか察するだろう。それを思うと中々実家に帰るという選択が出来なかった。
散々迷った挙句、エルナは実家に帰った。母はエルナの姿を見た時『やっぱりね』と一言言った。そして、エルナを傍に呼び、こう続けた。
「日陰の道を選んだんだね。子供まで出来ちまって、もう後戻りできないじゃないか」
元々、後戻りをするつもりの無いエルナだったが、そのことを母から告げられると改めて自分は随分と遠いところまで来てしまったのだと実感した。
「・・・エルナ、自分の立場を忘れず、多くを望まず生きなさい。それがお前の選んだ道の生き方だと母さんは思う」
エルナはその言葉をしっかりと頷いてみせた。それが母と交わした最期の約束だった。
母の言葉はエルナの心の中で己を戒める楔としてしっかり残った。エルナは母の言葉通り、多くを望まず生きてきた。そして、それはこれからも変わること無い彼女の信念でもあった。
「ぼくと一緒にお父さんの所に行くことが多くを望むってことになるの?」
アドルフォはよく分からなくてそう問いかけた。エルナはそれに困ったような顔をして答えた。
「多くを望むっていうのは今以上を望むってことだとお母さんは思ってる。お前と一緒にお父様の所に行くことは今以上のことだからお母さんはお前と一緒には行けないの」
アドルフォは納得がいかないような顔をして俯いた。そんなアドルフォをエルナはしっかりと抱きしめた。
「大人の都合をアドルフォに押し付けてしまっているわね。ごめんね」
アドルフォは何を言わずにエルナの腕に抱かれていた。