第91話
「初めまして。私はアロイスの友人でカミルといいます」
そう言って、目の前の紳士は帽子を取って軽く会釈をした。アロイスから、今後のことで人をやると言われていたエルナはその紳士を屋敷へと迎え入れる。
「私はアロイスから貴女のことを頼まれました」
カミルの発した言葉にエルナが身構える。それを見てカミルは苦笑いを浮かべる。
「そう警戒しないで下さい。私は貴女にブルックナー家の後妻に入れと説得しに来たわけではありませんからご安心ください。私が何を言っても貴女の決意は変わらないでしょう?それは分かっているつもりですよ」
にっこりと微笑んでカミルがそう告げるとエルナはホッとしたように肩の力を抜いた。
「私は貴女に働き口の提案に来たのです。息子さんを手放した後、何か考えがお有りですかな?」
カミルの問いかけにエルナはすぐに答えることが出来なかった。具体的に何かを決めているわけでは無かった。ただ、この国を離れようかと考えているくらいだった。共に生きれないのなら遠く離れてしまった方がいい。エルナはそう考えていた。
「何も無いなら、私の話を聞くだけ聞いてみませんか?」
カミルがそう言うとエルナは戸惑ったような表情のまま、ゆっくりと頷いた。
「貴女には侍女をしてもらいたいと考えています。もちろん、すぐにとは言いません。暫くは当家で侍女としてのいろはを学んで貰って、それからある方に仕えて貰おうと思っています。そのある方とはセシル・ブルックナー様です」
カミルから告げられた名前にエルナは目を見開く。
「・・・それって・・・」
「そう、この度、王妃に内定されたブルックナー家のご息女。アロイスの娘さんです」
エルナはカミルの言っていることが理解出来なかった。自分とアロイスの関係を考えれば、アロイスの娘であるセシルに自分が仕えるなど考えられない。
「驚くのも無理はありません。そんなこと考えられないとも思っているでしょうね」
エルナはその問いかけにしっかりと頷いた。カミルはそれを受け止めると言葉を続ける。
「貴女の素性は明かしませんし、名も改めてもらいます。・・・貴女がアドルフォ君の母であることも伏せます」
「そこまでして私をセシル様の元へ行かせることに何の意味があるのですか?」
エルナは堪らず、少しだけ声を荒げた。エルナのそんな様子を見て、カミルが少しだけ表情を曇らせる。
「勝手なことを言ってる自覚はあります。ですからこれはあくまで提案なんです。貴女には拒否権がある」
「答えになっていませんわ」
エルナが憤りを隠せずにそう言うとカミルは真剣な表情でこう告げた。
「では、本音を言いましょう。貴女にはアロイスの代わりにセシル様を傍で見守り、支えてほしいと思っています。アロイスは出来ることなら自分が傍で見守り、支えたいと思っている。けれど、それは出来ない。そのことに彼は悩んでいる。彼を助けてやってはくれませんか?」
カミルの発したアロイスを助けてやってくれという言葉にエルナの心は微かに揺れた。まだ、自分はアロイスの役に立つが出来る。そのことを嬉しく思う気持ちが胸の奥に湧き上がる。
「セシル様の傍にいればセシル様を通して彼らの様子を知ることも出来るでしょう。セシル様をお支えしながら貴女は近くて遠い場所から彼らを見守ることが出来る。アロイスには貴女がセシル様の元にいることは話します。貴女がセシル様の傍にいるならアロイスも安心でしょう。離れて暮らしていても支えあっている。そんな家族の形があってもよいのでは無いでしょうか?」
カミルの言っていることはエルナにとってとても魅力的に思えた。名を捨て、アドルフォの母である事実も隠さなければならないが、エルナは元々、ここは離れたらそうしようと思っていた。だが、アロイスの実の娘であるセシルに全てを隠して仕えることは彼女を騙すようなものではないかと気が咎める。
「世の中には嘘や隠し事はたくさんあります。それが悪意のあるものであるなら許されませんが、それがどうしても必要な時もある。嘘も方便なんて言葉があるでしょう?」
カミルにそう言われてもエルナは返答を決めかねていた。そんな様子のエルナにカミルは優しく微笑みかける。
「すぐに返事を欲しいとは言いません。じっくり考えてみてください。貴女にとって何が大切で、どうすることが自分にとって一番いいのか。貴女が出した答えを私もアロイスも受け入れます」
エルナは頷くことでそれに答えた。
「先程も言いましたが、勝手なことを言っている自覚も無理を言っている自覚もあるんです。ですが、私は貴女たちを繋ぐ糸が断ち切れてしまうことが惜しいと思ったんです。どんなに細い糸でも繋がりを保てないものかと考えたのですが、こんな方法しか思い浮かびませんでした。すみません」
そう言って軽く頭を下げたカミルにエルナは驚きを隠せない様子で見つめた。断ち切るべきだと、断ち切らなければならないと思っていたものを惜しいと思ってくれ、方法はどうあれ、それを保つことに協力してくれる人が現れるなど思ってみなかった。
「随分と長居をしてしまいました。もう、帰ります。では、また後日」
カミルはそう言って席を立ち、屋敷を後にしようとした。
「・・・カミル様」
エルナに呼び止められ、彼女の方を振り向いたカミルはその目に宿る強い決意を感じた。