第90話
「やぁ、ブルックナー伯爵。初めましてじゃなかったと思うんだけど、話したことくらいあったよね?」
来客を告げられ、応接室に赴いたアロイスは満面の笑みでそう問われて面食らった。
「えぇ、まぁ、挨拶と世間話くらいなら。ブライトクロイツ侯爵、一体どのようなご用件で?」
アロイスの答えと問いかけに満足げに頷いて突然の訪問客は徐に口を開いた。
「僕、君たちの事を国王陛下から任されたんだ。まぁ、大体のことは聞いてるんだが、君にもいくつか訊いておきたいことがあるんだ、いいかな?」
侯爵にそう言われて、アロイスは思わず、姿勢を正す。
「恐らく、三人で暮らすことは叶わないと思う。そのことは君の中でもう、覚悟は決まってるかな?」
「・・・はい」
「では、エルナ殿と二度と逢えないということは?」
アロイスはすぐに答えることが出来ずに俯いた。三人で暮らすことが叶わないのは受け入れた、諦めた。だが、エルナを完全に失うことは悲しい、寂しいと思う気持ちを捨てきれずにいた。
「伯爵、エルナ殿と二度と逢えないのは君だけじゃない。君らの息子もそうなんだ。父親である君がそんなことでどうするんだい?」
侯爵の言葉にアロイスはハッとして顔を上げる。確かにそうだ。自分ばかりが全て失うような気がしていたが、アドルフォだってたくさんの物を失うのだ。大人の都合で母から引き離され、友から引き離され、慣れ親しんだ生活から引き離されるのだ。そんなことにも思い至れなかった自分がアロイスは情けなかった。
「伯爵、エルナ殿の居ない世界で息子と二人で生きて行く覚悟ができるかい?」
何もかも見透かしたような瞳で見据えられ、アロイスが居心地が悪い気分だった。だが、気付いた今ではもう、迷いは無い。あの幼い息子をこの手で守っていかねばならないのだ。エルナのためにも、アドルフォのためにも、そして、自分自身のためにも。
「はい、侯爵。息子と二人で支え合って生きて行きます」
強い決意を持った瞳でアロイスがそう誓うと、侯爵はフッと表情を和らげた。
「そうかい。じゃあ、話しを進めよう。アドルフォ君だっけ?彼だけをこの家に迎えるなら時期はそう考える必要は無いよ。出来るだけ早めに迎えに行ってあげるといい。彼が君の実子であることも隠す必要は無いよ。隠すのは母親の名前と素性だけだ」
「エルナのことを隠すのですか?」
アロイスが納得がいかないような顔をして問いかけたが、侯爵は表情を変えることなくこう続けた。
「そうだ。誰かに何か聞かれたら、後継ぎが居なくなったから、外で作った子を迎えた。母親は君の役に立てるならと喜んで子供を送り出し、自分は身を引いたとだけ答えるんだ。母親に関して、詳しく話すのは駄目だ」
「何故です?」
食い下がるアロイスに侯爵はやれやれといった感じで肩を竦めた。
「何故って、彼女の今後のためだよ」
エルナが今後、どのような人生を歩むにせよ。貴族の愛人で子まで成していた過去は足枷になると言いたいのだろう。それに気付いてアロイスは自らが犯した罪の大きさを改めて認識した。エルナを愛し、エルナを傍らにおいたことで彼女に背負わせたものはあまりに大きい。自分がもっとしっかりとエディタと向き合っていれば自分に人生にエルナを巻き込むことは無かったのかもしれない。アロイスは自分の不甲斐なさを悔いた。
「・・・そうですね。侯爵の言うとおりだと思います」
力無くそう言ったアロイスを侯爵は痛ましいと思った。だが、話しはまだ終わりでは無い。侯爵は気持ちを切り替えてこう言った。
「彼女のことなんだが、僕に任せてもらっていいかな?悪いようにはしないよ。働き口を世話するだけだ」
「はい、よろしくお願いします」
アロイスは侯爵に向かって深々と頭を下げた。その姿を侯爵は苦い思いで見つめていた。この後、エルナの元にも向かうつもりでいる侯爵はきっと、彼女の元でも同じような気持ちを味わうのだろうと思った。