第89話
「なるほどねぇ」
エドアルドの話を聞き終えた侯爵が独り言のように呟いた。
「あの真面目そうなブルックナー伯爵に愛人が居たことも驚きですが、その愛人が得られる富や権力に目もくれず身を引こうとしているのにも驚きました。中々の女性ですねぇ。失うのは確かに惜しいかもしれません」
「お前もそう思うか?」
侯爵の口から失うのは惜しいという言葉が出て、エドアルドは内心喜んだ。そう言ってくれるなら、これからしようとしている頼みごとがし易くなると思ったからだ。
「えぇ、まぁ、そう思いますよ。思いますけどねぇ・・・」
「何だ?」
どこか含みのある言い方にエドアルドが先を促すと侯爵は真剣な表情でこう切り出した。
「少々、こちらの都合を押し付けすぎではありませんか?」
「何?」
「いくらエルナ殿が貴族の愛人として、それなりに裕福な暮らしをしていたとしても、彼女は庶民なんですよ?その彼女がいきなり貴族のそれも伯爵家の夫人になるなんて荷が重すぎやしませんか?」
エドアルドは何も言い返せなかった。恥ずかしい話だが、侯爵にそう言われるまでそのことに思い至っていなかったのである。
「それに、いくらお膳立てをして態勢を整えたとしても人の口には戸が立てられませんからね。どこからか彼女の出自が漏れる可能性がある。そうなった時、彼女は周りからきっとこう言われるでしょう。庶民出の愛人がまんまと正妻の座に納まった。何と強かな女だろうってね。そうなった時、傷つくのは彼女だけじゃない。伯爵と彼女の息子であるアドルフォ君だって傷つくんですよ」
自分のしようとしていたことの危険性を諭されて、エドアルドはやはりこの男には敵わないと思った。侯爵はエドアルドを諌めることの出来る数少ない年長者だ。だからこそ、エドアルドは彼が苦手であり、あまり逢いたがらない。アレクシアの夫となり、その間柄がより近くなってからは苦手意識も増大した。まぁ、彼のノリに付いていけないというのも逢いたがらない理由の一つではあるのだが・・・。
「私にエルナ殿を説得させようとしたんでしょ?まぁ、そういったことは当家の得意分野ですからね。しかし、後妻に入れと説得するのは賛成しかねます」
「・・・確かに、後妻に入ることはエルナの幸せにはならんかもしれん。だが、このまま去らせるのもエルナの幸せとも思えん」
愛する者達と離れ、遠い場所で生きることは孤独なことでは無いだろうかという思いをエドアルドは払拭出来ずに居た。
「・・・私に少し、考えがございます。筋書きを任せていただけますか?後々、陛下にもご協力していただくことがあると思いますが、その時は力を貸してくださるのでしょう?」
「もちろんだ。余に出来ることはする」
エドアルドの力強い返答を受けて、侯爵はニコりと笑った。
「ところで陛下。うちの甥っ子は役に立ってますか?何でも、大きな仕事を任されたとか言って、意気揚々と出掛けて行きましたけど?」
急な話題変換は先ほどの話はあれで終了だという合図。エドアルドはそれに応じて侯爵の質問に答えた。
「あぁ、役に立ってくれている」
「そうですか。それはよかった。アレの口のうまさは一族の中でも五本の指に入りますからね。ああいう男は一つ、手駒として持って置くといいでしょう?」
身内を手駒と呼ぶのはどうかと思ったが、それがブライトクロイツ一族だと知っているのでエドアルドはそれを咎めはしなかった。
「アレはギルベルトの手駒だろ?」
エドアルドがそう言うと侯爵はクスっと笑った。
「確かに、アレはギルベルト殿下のことしか見ちゃいませんが、その殿下が陛下の役に立てとアレに命令しているんです。アレは陛下の手駒でもあるんですよ」
侯爵はそう言った後、ふうっと息を吐いた。
「アレには感服します。絶対に報われないと知りながら、殿下を愛し、殿下のためなら死んでも構わないと思っている」
その意見についてはエドアルドも同意見だった。
「アレが女性であったとしても、ギルベルトはアレの気持ちを受け入れないだろうがな」
エドアルドの言葉に侯爵も頷く。
「殿下はああ見えてきちんとご自分の立場を理解してらっしゃいますからね」
王族が一つの一族とばかり縁を結ぶことはあまり好ましくない。ブライトクロイツ家は既にアレクシアが降嫁している。これ以上の縁は結べない。ギルベルトにその気は無いが、それが男妾であったとしてもだ。
「殿下の方にその気が無いのが幸か不幸か・・・」
侯爵はそう言って遠くを見つめた。