第87話
「すまないな。もっとそばに居てやりたいんだが」
「気にしないで。貴方には大事な仕事があるんですもの」
セシルが幾分落ち着いたのを感じたエドアルドは後ろ髪を引かれつつも執務室に戻ることにした。
「夜には必ずまた来るから」
エドアルドはそう言ってセシルの髪をそっと撫でる。セシルはそれを少し笑みを浮かべて受け入れる。
「はい。お待ちしております」
セシルはそう言ってエドアルドに向かって一礼した。エドアルドはその後ろで控えているニコラ達に視線を向け、声を出さずに口だけを動かしてこう告げた。
『頼む』
それを読み取ったニコラ達は頷く代わりに深々とエドアルドに頭を下げた。その様子に頷きを一つ残して、エドアルドはその場を後にした。
執務室に戻ったエドアルドはエルンストにこう告げた。
「ブライトクロイツ侯爵を呼べ」
告げられた言葉にエルンストが目を丸くする。
「・・・一体、どういったご用件ですか?」
エドアルドがブライトクロイツ侯爵とはあまり逢いたがらないのを知っている。エルンストはその意図を測りかねていた。
「エルナを説得してもらおうと思ってな」
「エルナというとブルックナー伯爵の愛人ですよね?彼女がどうかしたのですか?」
「エルナは伯爵家の後妻に入ることを望まず、身を引くつもりだ」
それを聞いたエルンストは少しだけ驚いた。今よりもいい暮らしを約束されているのに、それを自ら捨てる事を選んだというのだろうか。それはつまり、これより先の伯爵や息子の将来を慮ってのことだろう。愛人が後妻に入ることで起きかねない醜聞から愛する人たちを守るための選択に思えた。そう思い至った時、エルンストは失うには惜しいと思った。
そういった選択が出来る女性であるなら、伯爵家に入ったところで家を傾かせるほどの贅沢をするとは思えない。愛人が後妻に入った家では稀にそういったことも起きるがエルナならばその心配は無用だろう。寧ろ、これからのブルックナー家を支えるに足る人物に思えた。
「陛下は失うには惜しい人物だとお思いなのですね?」
エルンストはエドアルドも自分と同じ考えであると思った。でなければ、わざわざ苦手としているブライトクロイツ侯爵を頼るとは思えなかった。
「・・・あぁ。エルナはこれからのブルックナー家に必要だ。伯爵にとってもアドルフォにとっても・・・セシルにとっても、な」
エルナは母としてというより、同じ女性としてセシルの支えになって貰いたいとエドアルドは考えていた。そして、エルナはその期待に応えてくれるだろうと思ってさえいた。なんとしてでも留まらせたい。そう思ったエドアルドが頼ることを思いついた人物はブライトクロイツ侯爵以外居なかったのだ。
「そういったことにはあの方は適任ですが、よろしいのですか?」
本音を言えばあまり逢いたくは無い。嫌いなわけではない。苦手なのだ。特にあの一件からどうにも避けてしまいがちだった。
「・・・背に腹は代えられん」
エドアルドは腹を括ってそう言った。その顔があまりに悲壮なものだったので、エルンストは思わず噴出しそうになるのを必死に堪えた。
「・・・畏まりました。すぐに使いを出します」
エルンストが準備のために退室するとエドアルドは大きなため息をついた。
「何でよりによってあいつを選んだんだか・・・」
エドアルドはこれから対峙する人物のことを思うと軽い頭痛を感じた。