第85話
「セシル様、どうぞ中へ」
自室に戻っても尚、呆然としたままのセシルにそっとニコラが促す。部屋の中に入ったセシルの視界の隅に母がセシルに持たせた銀細工の小箱が飛び込んでくる。あの母がこんなに良い物をくれるだなんて驚いたことをセシルは今でも覚えている。確か、母はこう言ったのだ。王宮に行くのだからこれくらいの物は持っていないと馬鹿にされる。あれは家や母自身の体面にためだったのか、それとも自分を思いやってのことだったのか。今となってはそれを本人に確かめようもない。
確かめようも無い。その言葉が頭に浮かんだ時、セシルの中で先程アロイスが告げた言葉がゆっくりと浸透していくのを感じた。
母と兄がもういない。どれだけ虐げられても、どれだけ突き放されても求め続け、愛し続けた存在がもういない。
いつか振り向いてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないかと胸の奥で希望を抱き続けてきたが、ついにそれは叶うことなく二人は居なくなってしまった。
体がガタガタと震える。体の奥から何かがせり上がってくる。
「あ、あ、あぁぁあっぁぁぁぁ」
セシルは絶叫し、床に座り込んだ。両手で頭を抱え、叫び続けるセシルをニコラは必死で抱き締めた。
「セシル様!」
セシルの叫びは外にまで聞こえていた。部屋の外ではコンラート達が耳を塞ぎたくなる衝動を必死でこらえていた。三人はセシルの叫びを心痛な面持ちで受けとめていた。
ぴたっと絶叫がやみ、ニコラの体にずっしりとセシルの体重がかかる。セシルは気を失っていた。
「イーナさん!セシル様を運ぶのを手伝って!モニカさん!医務室に
連絡を!」
ニコラの指示を受け二人が走り出す。一気に慌しくなった部屋の中でセシルの時間だけが止まっていた。
セシルが倒れたという知らせはすぐにエドアルドの元に届けられた。エドアルドは公務を放り出して、セシルの元に駆けつけた。
「セシルは?!」
「・・・眠っておられます」
ニコラの答えにエドアルドはベットに視線を向ける。青白い顔で瞼を腫らして眠っているセシルを見つめたとき、エドアルドの胸を罪悪感が締め付けた。
「・・・下がっていろ」
エドアルドはニコラ達にそう告げる。彼女達はセシルを心配そうに見つめた後、その言葉に従った。
二人きりになった部屋の中、エドアルドはベットに近づき、その傍らに跪いた。そして、セシルの手をそっと握り締める。
「・・・すまない」
エドアルドは一言そう告げると声を押し殺して泣いた。