第81話
「御帰りなさいませ、アロイス様」
「・・・あぁ、ただいま」
アロイスはエルナの家を訪れた。エルナには全てを話し、アドルフォをブルックナー家に迎え入れることを了承して貰わねばならない。
「エルナ、話がある」
家の中に入り、居間のソファに座るとアロイスはそう切り出した。その真剣な眼差しとどこか憔悴した顔にエルナの胸に不安が宿る。
「これから話すことは他言無用に頼む」
エルナはその言葉に頷き、アロイスが話しだす。
「私の家族がうまくいっていないことは話していたが、それがとんでもない事態を引き起こした」
エルナは黙ってアロイスの話を聞いている。
「娘が後宮に上がったことは話したな。その娘が何と国王陛下の寵愛を受けた。そして、王妃に内定したらしい」
王妃に内定という言葉にエルナは驚いた。
「それはおめでとうございます」
それ以外掛ける言葉が見つからず、エルナはそう言って頭を下げた。
「あぁ、めでたいことだ。有難いことでもある。だが・・・」
アロイスはそう言って瞑目した。思い出すのも苦しい、あの光景。
「家族で娘の面会に行った。そこで息子と娘に諍いが起きた。息子はあろうことか、今や王族と同等の地位にいる娘の頬を叩いた」
エルナがハッと息を呑む。それが大罪であることはすぐに解る。
「何も分かっていなかったんだ。只の兄妹喧嘩ではすまないということを息子は理解していなかった。私も妻も突然のことに対処しきれずに息子を止めることが出来なかった。そのことで息子は国外追放の処罰が下った。それには妻も同行することになった」
「何故、奥様まで?」
尤もな問いだ。だが、真実を話すことは憚られた。エディタが方法は間違っていたとはいえ、必死に守ってきた秘密を口外することは出来ればしたくないとアロイスは思った。
「陛下は妻が娘を虐げ、息子を溺愛していることをご存じだった。息子を愚者に育てたのは母親だと断じられた。恐らくだが、娘を虐げていたことへの報復も含まれているかもしれん」
「・・・そうですか」
アロイスの言う理由は尤もらしいがどこか無理があった。そのことにエルナは気付いたが追求する気は無かった。何か、自分に話せない事情あるのだろうと察したからだ。そのことに一抹の寂しさを感じなが
らもエルナは仕方の無いことだと思った。所詮、自分は愛人なのだからと。
「エルナ、当家は跡取りを失うこととなった。ついてはアドルフォを養子として迎え、当家の跡取りとしたいのだ」
アロイスがそう言いだすことは話の流れから察しがついていた。エルナは俯き、何かを耐える様に深呼吸をすると顔を上げた。そこには凛とした表情が浮かんでいた。
「お話は分かりました。アドルフォのことはアロイス様に託します。あの子のことをどうぞ、よろしくお願いします」
そう言ってエルナは頭を下げた。その態度にアロイスは予想通りだと内心、落胆する。
「・・・やはり、お前は来ないか」
アロイスの問いにエルナは凛とした表情を崩さずにこう言った。
「私は光さす場所へ参るわけには参りません」
「・・・そう言うとは思っていた」
アロイスはそう言って溜息をついた。覚悟はしていたものの、いざ拒否されるとやはり堪える。
「・・・アドルフォを私に託した後、お前はどうするつもりだ?」
アロイスは何とかそう問いかける。今まで自分を支えてくれたエルナに出来るだけのことをしてやりたかった。だが、エルナはその気遣いすら拒絶する。
「それはアロイス様には関わりの無いことにございます」
それは即ち、関係の終焉を告げられたのと同じだ。エルナはアドルフォを手放した後、アロイスとの関係を完全に断つつもりなのだ。連絡先も告げずに姿を消すつもりだろう。
「・・・そうか、そうだな」
アロイスはそれを悲しいと寂しいと思いながらもエルナらしいとも思った。案外頑固で決めたことをそう簡単に覆すようなことはしない。もう何を言ってもエルナの気持ちは変わることは無いだろう。
「・・・これから先の人生、アロイス様とアドルフォが居ない人生はわたしにとってとても辛いものだと思います。ですが、私はその辛さを受け入れて生きて行かねばなりません。それが、妻子ある方を
愛した私の償いでございます」
妻子ある人を愛した、それだけでも許されることではない。ましてや妻の座を狙うなど以ての外だ。エルナはそう思っていた。アロイスの妻が妻の座を追われると分かった今でも、その思いは変わらない。
アロイスはエルナがそのように考えていたことを知って、申し訳ない気持ちになる。その手を取ったのも、その手を手放すことが出来なかったのもアロイスの方だ。エルナはいつも受け入れる側だった。最期
に受け入れさせる物が辛さだということにアロイスは謝りたい衝動に駆られる。だが、それをエルナが望まないこともアロイスは分かっている。
「・・・十年になるか」
アロイスがしみじみと呟いた。二人が出会ってもう、そんなに時が経っていたのかとエルナも感慨深い想いになる。
「・・・有難う」
アロイスはそう言ってエルナに頭を下げた。エルナはアロイスが謝罪の言葉ではなく、感謝の言葉を告げてくれたことにほっとした。ここで謝罪をされればこの十年が嘘になってしまう気がしていたからだ。
「・・・アロイス様。私の方こそ、有難うございました。この十年、私は幸せにございました」
エルナはそう言って頭を下げた。嘘ではない。仮初と分かっていてもエルナは幸せだったのだ。
「アロイス様、何時頃、アドルフォを迎えに?」
エルナは頭を上げ、そう問いかけた。アロイスは小さく息を吐いた。
「まだ、先になるとは思う。出来るだけ早くとは思うのだが・・・」
先の見通しが立たない今、そう答えるしかなった。
「そうですか。では、何時でも大丈夫なようにアドルフォにはよく言って聞かせておきます」
エルナはそう請け負って再び頭を下げる。その事務的な態度にアロイスの胸は痛む。既に一線を引く準備を始めているように見えたのだ。
「・・・あぁ、そうしてくれ」
ならばとアロイスもどこか事務的に言葉を返す。自分の方にも準備が必要だし、エルナを惑わすようなことはしたくなかった。
「・・・また来る」
程無くしてアロイスは屋敷に戻ることにした。
「・・・はい」
次に逢う時が別れの時になる。それを分かっていてもお互いに別れる準備を心の中で始めた二人は手を取り合うことも出来ずに見つめ合うだけだった。
アロイスが未練を断ち切るようにエルナに背を向け、家路に着く。一度も振り返ることなく去っていくアロイスの姿がすっかり見えなくなるまでエルナは玄関で見送り続けた。
すうっと一筋、エルナの瞳から涙が流れた。それをきっかけに次々にぽろぽろと涙が溢れだし、エルナはとうとうその場に泣き崩れた。
妻子ある人を愛し、子まで成してしまった時、エルナはこれ以上何も望むまいと決めた。もし、この先アロイスとの関係が終わってしまっても自分の手元には愛する人の息子が残る。それだけで十分だと思っ
た。アロイスの本妻にも息子がいる。アドルフォを取りあげられることは無いだろうとも思っていた。
その一方でもしも、本妻の息子に何か不測事態が起き、アドルフォを跡取りにと望まれれば応じる覚悟もエルナはしていた。そして、その時はアドルフォの将来のため、自らは身を引くつもりでもいた。
親子三人で暮らすことを一度も夢見たことが無いと言えば嘘になる。エルナはそんな想いが浮かぶ度に打ち消してきた。
先程、アロイスに言ったことは嘘ではない。これからの辛い人生を償いと思い生きて行くつもりでいる。
それでも溢れ出る涙は止まることは無い。
今だけ、思い切り泣こう。エルナはそう思い、声を上げて泣いた。