第8話
「・・・すごいわね・・・」
夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、あまりの人の多さにセシルは思わず息を呑んだ。そんなセシルにニコラは苦笑いを浮かべながら問いかける。
「セシル様、大丈夫でございますか?」
「・・・大丈夫。でもニコラ、こんなに人が居てはお父様を見つけられるかしら?」
「御心配には及びません」
「え?」
思いがけない方向から聞いたことのない声が聞こえてセシルは振り返る。そこには見たことのない栗色の髪に鳶色の瞳の男性が立っていた。
「初めまして、セシル様。私、宰相エルンストと申します」
名乗りながらエルンストは一礼した。
「え?あ、初めまして」
遅れてセシルも頭を下げる。その様子にエルンストは驚いた。
私に頭を下げるとは・・・
本来ならエルンストはエドアルドの後ろで壇上に控えていなければならない。でも、どうしてもエドアルドがドレスを贈った女性への興味を押さえられず、エドアルドの許可を得てこうして足を運んだ。
エルンストはセシルの顔は知らなかったがエドアルドが贈ったドレスは目にしていた。其れを目印にセシルを探し、見つけた。
本当は声をかけるつもりはなかった。もう少しだけ側でその姿を見たら壇上に引き返すつもりだった。
そんな彼の耳に届いた可愛らしい疑問。
思わず声を掛けていた。不安げなその声を聞いて放っておけない衝動に駆られた。
そして、自分に向け下げられた頭に驚愕した。
側室であるセシルは自分よりも身分が上なのだ。そんな彼女が自分に向けて頭を下げている。
「セシル様、私に頭を下げる必要はありません」
エルンストは慌ててそう声をかけた。そんなエルンストをセシルが不思議そうに見つめている。
「何故ですの?礼を礼で返すのは当然でございましょう?」
当然と言ってのけるのか、この状況で
エルンストはますますこの少女に興味を持った。
「エルンスト様。先程のお言葉ですが」
ことの成り行きを見守っていたニコラがエルンストに声をかける。その声にエルンストは気を取り直して口を開いた。
「え?・・・あぁ、面会は別室で行っていただくのです。お父上がいらっしゃたらそちらにご案内するこ とになっています」
「まぁ、そうでしたの?」
「はい。お父上が到着なさったら使いの者がセシル様を迎えに参ります。暫し、お待ちください」
「はい。有難うございます」
にっこりとほほ笑むセシルにエルンストは思わず見とれた。
その時・・・
「セシル!」
自分を呼ぶ声にセシルが振り返るとそこにはあり得ない光景が見えた。
笑顔で足早にこちらに向かっているのは国王 エドアルドではないか?まさか、あり得ないとセシルが驚いている間にエドアルドはセシルの目の前まで迫っていた。ニコラも表情にこそ出さなかったが大変驚い
ていた。もちろん、エルンストも・・・。
「あぁ、余が贈ったドレスはよく似合っているな。なるべく華美にならぬよう、気をつけて仕立てさせた のだが・・・。どうだ?気に入ったか?」
驚きのあまり息をするのも忘れそうなセシルにお構いなしにエドアルドが問いかける。
「セシル?」
返答がないことにエドアルドが不思議そうな顔をした。
一番最初に気を取り直したのはニコラだ。ニコラはセシルの背中をポンと叩いた。それを合図に呼吸を取り戻したセシルが慌ててエドアルドに頭を下げた。
「は、はい。有難うございました」
「そうか、気に入ったのならよかった」
エドアルドが満足そうに頷いた。
「陛下・・・」
「何だ?エルンスト」
やっと落ち着いたエルンストが咎めるようにエドアルドに問いかける。
「壇上を降りるとはどういう了見ですか?」
「黙れ。余は余の贈ったドレスを着たセシルを近くで見たかっただけだ」
悪びれもせずそういうエドアルドにエルンストは頭が痛くなった。
これがどういう事態を引き起こすか全く考えていないのか?この方は!
国王がわざわざ壇上を降りて、側室に声をかけるなどそれはこの側室が自分の寵室であると公言しているようなものではないか。
わずか数分に交わりでもエルンストには理解出来た。
セシルは後宮で生きて行くには純粋すぎる、と。
巻き込むつもりなのか?あのどす黒い女たちの争いの中に・・・。
ふと、エドアルドに視線を戻せばセシルを愛おしげに見つめる姿があった。
守り切る覚悟が御有りなのか?
エルンストが溜息をついた時だった。
「・・・セシル?!」
驚愕に彩られた声音に一同が振り返るとそこには戸惑った表情のセシルの父、アロイスがいた。
会場の入口付近で話していたせいだろう。別室に案内される前に彼はセシルを見つけたようだった。そして、側にいる人物に大いに驚愕したのだ。
陛下と宰相?!何故、セシルがお二人に囲まれているのだ?!
考えるより先に声が出た。声をかけてからしまったと思った。自分の掛けた声に時が止まったかのように全員が自分を凝視したのだから・・・。
「お父様・・・」
セシルの声にエドアルドが素早く反応する。
「あぁ、ブルックナー伯爵。息災であったか?」
「へ?あぁ、はい。陛下、ご機嫌麗しゅうございます」
アロイスは何が何だが分からなかったが取り敢えず頭を下げた。
「あの、陛下」
「何だ?」
「この状況は一体?」
アロイスは居てもたっても居られず、質問を投げた。本来なら質問などできる立場では無いがアロイスは頭が混乱してそのことを忘れていた。
「あぁ。このドレスは余が贈ったのだ。どうだ?似合っているだろう?」
「え?はい。大変よく似合っております」
質問の答えにはなっていない気がするがアロイスは同意した。
「近くで見たくて声をかけたのだ」
「はぁ。そうでございましたか」
質問の答えはもらえた。だが、別の疑問がさらに生まれた。
今、陛下は『余がドレスを贈った』と言わなかったか?
セシルの手紙とニコラの定期報告から察するにセシルはエドアルドに寵愛を受けている風には決して見えなかったのだが・・・。
アロイスはセシルに視線を走らせる。その視線を受けてセシルがしたことは曖昧に微笑むことだけだった。
「そういえばセシルは伯爵との面会を希望していたな?」
思い出したようにエドアルドがセシルに問う。
「は、はい!」
いきなり声を掛けられてセシルは思わず大きな声で返事をした。そんなセシルを愛おしそうに見つめるとエドアルドがそっとセシルの髪を撫でた。
その場に居た全員に戦慄が走る・・・。
そんなことはお構いなしにエドアルドは言葉をつづけた。
「逢うのは久しぶりであろう?ゆっくり過ごせ」
「・・・はい」
セシルは何とか返事をしてぎこちなく微笑んで見せた。その微笑みをどう受け止めたのか分からないがエドアルドは満足そうに頷いた。
「ではな、セシル。また後でな」
そう言い残して去っていく背中に頭を下げながらセシルは何だか引っかかるものを感じた。
また、後で?
困惑顔のセシルを横目にエルンストが口を開く。
「セシル様、ブルックナー伯爵」
二人は同時に振り返る。よく似た顔が同じように困惑している様は何だか面白かったがエルンストは笑う気も起らなかった。
「面会のために別室を用意してございます。そちらにご案内いたします」
エルンストは自分で二人を案内する気など始めはなかったのだがこのまま此処に二人を置いておく訳に行かない、と案内することを決めた。
このまま此処に居ては危険だ。
先程のやり取りは招待客に丸見えだったはずだ。此処には他の側室やその家族も大勢いる。思慮深いはずの国王のまさかの暴走にエルンストは先程感じた頭痛がひどくなっていくのを感じた。
浮かれていたな・・・あの方は・・・
そう思って大きな溜息をついたのだ。